最初はなかなか慣れなかったこの仕事も、付いた相手がよかったのか、仕事を教えてくれた人がよかったのか、それとも元々私に向いていてそれを見出だしてくれた人がよかったのか、最近では少し余裕も出来てきた。まぁ私を引き抜いて、仕事を教えてくれた人が、今付いてる営業部長様なわけだけど。
今日の唐沢さんのスケジュールは夕方まではギチギチで、その後は明日いっぱいお休みになっているから私の方も余裕が出来る。とは言え唐沢さんがいない間にも仕事は入ってくるし、私個人としてもやることがあるから、実際のところそこまで暇にはならない。
本当ならほとんど一人でこなせてしまう唐沢さんなので、仕事が多くて困るべきなのか、少しは頼られてると思って喜んだらいいのかはちょっと難しい。少なくとも今は仕事が軽くなったことが嬉しくて、鼻歌交じりに本日最後の来訪者に出していたカップを給湯室で洗っていたら、横から笑い声がした。
「楽しそうだね」
入口の縁に肩を預けていた唐沢さんはいつもより濃い臭いを纏っていて、多分仕事終わりの一服にでも行ってきたんだろう、何だか機嫌がよさそうだった。代わりに私の不快感が増した。
「これで一段落つきましたから。やっとゆっくりできます」
「それはつまり君は私が休みだと嬉しい、ということかな?」
唐沢さんの側にいると唐沢さんは働きすぎなんじゃないかって思うことが結構あるから、出来れば休んでほしいって感じているのは本当だけど、唐沢さんが意地悪く笑ったから「そうです」と意地悪で返した。
「全くなまえはつれないな」
「そうやって名前で呼ぶのチャラいです。だから未だに独身なんですよ」
「これは手厳しい」
そう言っておきながらちっとも響いていないらしく、一歩寄ってきて、代わりに私が一歩離れる。
「今日はこれで仕事は切り上げていい。ただ、私に付き合ってくれ」
「…煙草の臭いは嫌いって何度も言ったじゃないですか」
「知ってる。だけど俺の匂いだから好きになってくれるとも言っていたと思ったけど?」
前に喫煙ルームで煙草臭い唐沢さんに捕まった時に「唐沢さんの匂いなら好きになりますから」って告白じみたことを言ったのはちゃんと覚えているけど、元々大嫌いな煙草の臭いをすぐに好きになれるかどうかは別の話だ。
「…すっ、好きになりますとは言いましたけど、すぐにはなれないですっ!」
「それでも今日は付き合ってもらうよ」
息が詰まりそうな二度目の告白に逃げ増したくなったけど、給湯室の唯一の出入口までの間に立つ最大の障害もどいてくれる気はないらしい。
以前は私をからかって遊んでいたのに、この間から言うことは同じでも目が笑ってない。いや、今まで気にしてなかったのを急に気にし出したから怖く感じるだけなのかもしれない。
とにかく、今の私は唐沢さんからの個人的なお誘いは反射的に警戒してしまう。
「嫌…って言ったらどうします?」
「その時は担いででも連れて行く。ラグビーやってたからね、君一人担ぐくらい何てことないよ」
「それ誘拐です」
唐沢さんは私の言葉を反芻するように呟いたあと、唇で緩やかに弧を描いた。
「誘拐されたかった?」
「なっ…?!」
動揺する私の手を取ると「食事に行こう」と有無を言わさず連れ出された。
「こ…ここ…ですか?」
大人の男女が仕事終わりにデートする時に使うような…海外で修行してきたシェフが個人で出してるレストランのような…そんなお洒落な店構えに、足が石のように硬直してしまった。
「そんな身構えなくても高い店ではないよ。君のことだから、高い店に連れて行っても食べた気にならないだろうからね」
「それはそうですけど…」
いつの間にか腰に回された手に押され、店の中に連れていかれる。思った通りスーツ姿の男性と綺麗に着飾った女性が楽しそうに食事している姿が目に飛び込んできて、きっとメニューに値段が書いてないようなところなんだ…なんて怖々とメニューを受け取ったら、そんなこともなく、ファミレスに比べたら倍近くはするけど、唐沢さんが特別な仕事で使うようなお店に比べたら全然安いので少しだけほっとする。
いくらご馳走してくれると言われても、どんなに仕事で唐沢さんと一緒に出掛ける事が多くても、さすがに唐沢さんと二人きりで高級レストランというのは私には不相応だ。
「だから高くないって言っただろう?」
私の考えを読み取ったかのように、唐沢さんは笑みを溢した。
「今日は何の日か知ってる?」
4月の終わりの、何か特別な日でもない普通の平日。特に思い当たる節がなくて首を横に振る。
「日本ではあまり馴染みがないかもしれないけど、4月の4週目の水曜日はAdministrative Professionals Dayと言う日なんだ。…訳せるかな?」
「馬鹿にしないでください。普段誰に付いてると思ってるんですか」
私の言葉に唐沢さんが微笑むから、思わず視線をメニューに移して、さっきの言葉を訳す。
日本語に直すには少し分かりづらい単語の並びだ。Administrativeは『管理の』とか『行政上の』とかの意味。Professionalsはそのままプロフェッショナル。直訳してしまうと管理のプロの日というよく分からないものになってしまう。
案外上手く訳せなくて、お洒落なカタカナが並ぶメニューを睨んでいたら、この結果が見えていた唐沢さんがあっさり答えを教えてくれた。
「日本語だと『総務専門家の日』なんだけど…それでも分からないだろうね」
「…余計に分からないです」
「元々は『秘書の日』って言ったんだ。日頃お世話になっている秘書や事務職、スタッフに感謝する日。だから君を食事に誘ったんだよ」
つまり唐沢さんは本当にただの感謝で私を食事に誘ってくれたのに、私は勝手に警戒していたらしい。
「じゃあ、日頃迷惑かけられている分だけ高いの頼みますからね」
「好きなだけどうぞ」
余裕たっぷりな返事に、本当に遠慮なく食べたいものを選んでみた。唐沢さんの分と合わせると、なかなかいい値段するはずだけど、唐沢さんのお財布的にはちっとも痛くなさそうな顔をしているので、もしかしたらこれ交際費で落とそうとしてるんじゃないかと疑ってみる。
じぃーと見ていたせいか、唐沢さんは不思議そうに首を傾げた。
「見つめられるのは嬉しいけど、出来れば険しい顔じゃない方がいい」
「べっ、別に見つめていたわけじゃっ!」
「シィー…」
ぴとっと唇に触れたそれが唐沢さんの人差し指であることに気付いた途端に、一気に顔が熱くなる。
唐沢さんはくすくす笑いながら指を離すと、その指を唐沢さん自身の唇に当てて、軽くウィンクなんてしてくるから、あまりの恥ずかしさに顔を伏せた。
「こんなことなら個室予約しておけばよかった。今すぐ抱き締めたい」
「っ、何、言ってるんですか!今日は、秘書の日だからって、」
「そう、秘書の日だから…って口実でも作らないと君はデートに誘われてくれないからね」
完全に唐沢さんのペースに呑まれて、それでも何か言い返そうと口を開こうとしたら、タイミング悪く頼んだ料理が運ばれてきた。
「先にそれを言うと、ご飯の味が分からなくて後でがっかりするかなと思ったんだけどもう遅いかな」
「ひどい…」
おいしそうに煌めく料理の数々が目の前に並んでいるのに、胸がばくばくしてそれどころじゃない。
「なまえがさっさと俺のものにならないのが悪い」
「…ちゃんと責任取ってください」
「どれの?」
僅かに見上げた唐沢さんの表情はとても優しそうで、でもその言葉にはちっとも優しさはない。選択肢があるように見せて、何一つ選択肢なんかくれない。
「…全部、です」
たった一つの回答を誤魔化すために、ぎこちない手でくるくると巻き取ったスパゲッティを口の中に入れたけど、全然味が分からなかった。
※
友人に「煙草くさい唐沢さんに抱きしめられる話をくれ」って散々駄々こねたら本当に書いてくれたので、そのお礼に返した続きの話でした。
これだけで完結するようにはしたつもりですけど、分かりづらかったらごめんなさい。