バレンタインデーに気合いをいれてチョコを、しかも本命相手に作ってくる人は凄いと思う。まあ、私にはお菓子を作る気力も、本命をあげる相手もないので、友人にあげる分だけ適当に安いお菓子を買っておしまいという何も起きないイベントの一つだ。そういう眩しい高校生活はもう諦めてるけど、代わりに、学校に行く前に寄ったコンビニで愉快さを求めて買い物をした。
選択教科で移動した教室の私の指定の後ろの席に、いつも通り私より早く来て座っている奈良坂に、今朝コンビニで買ってきた奈良坂の好きなチョコ菓子を軽く放る。
「…急にどうした?」
胡乱げな視線が私とチョコの間を行ったり来たりしたあと、奈良坂は分かったと言うように少しだけ目を見開いた。
「宿題忘れたのか?」
確かに次の授業で宿題になっていた範囲を当てられるのは私だけど、そんな理由でチョコ菓子一箱引き換えに答えを教えてもらう程落ちぶれたつもりはない。
「違いますー。やっぱあげなーい」
奈良坂の手の上に乗ったチョコ菓子を奪い取ると、それを目で追うちょっと残念そうな顔の奈良坂が見られた。何だかかわいい。
「今日バレンタインだったから奈良坂にもチョコあげようかと思ったんだけど、知らないならいらないよねぇ?」
「…もらえるのであれば、もらう」
自分から「欲しい」と言う事に葛藤したらしい返事に私の口元が緩んだ。奈良坂が残念がったり困ったりするのは、なかなか見られないから楽しい。
「えー?欲しいのー?」
思わず声が笑ってしまったけれど、本番はこれから。
「かわいい女の子がこのバレンタインにチョコレートあげるって言ってんのに、奈良坂はチョコだけ欲しいわけ?酷くなーい?」
にやけが止まらない口元を隠さないで、右手は奈良坂の机に頬杖ついて、左手で奈良坂の好きなチョコ菓子を振って煽る。
「…そんな大切なチョコを放り投げたのはみょうじだろ」
眉間にシワを寄せて、それでもまだチョコ菓子に視線が向いている奈良坂のために、箱を開けて、中の袋も破って、たけのこの形したお菓子を一つ取り出した。
「はい、奈良坂」
「…は?」
奈良坂の口の方に持っていくと、今までで一番のしかめっ面を向けられた。
「あげるってば」
「なら遠慮なく貰おう」
そう言って箱の方に手が伸びてきたので、すかさず箱を掴んで、奈良坂から遠ざける。
「ほら、あーん」
奈良坂は苦渋の決断を迫られたような表情で私の指先のお菓子を見て、それから周りをちらちらと見た後、そっと顔を伸ばしてきた。
「あーげない!」
あと少しのところで自分の口に放り込んでもぐもぐしたら、奈良坂はぐっと息を飲んで、それから顔を片手で隠してしまった。短い時間でいろんな、主に困惑の表情が見られたので、私はおもしろさのあまり奈良坂の机に突っ伏して背中を震わせた。
「あー、おもしろい!ほんっと、奈良坂おもしろい!」
「みょうじ…」
「なに?」
「本命相手にもそういうことするのか?」
溜め息交じりに名前を呼ばれたので、目の端に浮かんだ涙を拭いながら顔を上げて奈良坂の方を向くと、奈良坂の目が「やめた方がいい」と雄弁に語っていたので、手を左右に振って否定しておく。
「本命とかいないし、こんなこと奈良坂じゃなきゃやんないよ」
いつも冷静な奈良坂の表情をどうしたら陥落させられるかが最近の楽しみだったから、奈良坂以外に同じ事をするわけがない。
奈良坂は驚いたように目を見開いて、私をじっと見ていた。
「そんな見つめられても本命は出ないぞー?」
「本命を渡す相手がいたら作ったのか?」
手に持った箱からまた一個お菓子をつまみ上げていると、さっきのことはなかったかのような、平常通りのしれっとした奈良坂が訊ねてきた。
「えー…本命チョコを、もしかしたら、多分、槍が降った頃にでも、気まぐれに作るかもしれない私をプレゼントするわ。何年かしたら作るかもしれないからそれまで買ったので我慢して、って」
本命のチョコを誰にもあげる気がないので、たけのこ型のお菓子を食べながら適当に返す。やっぱり既成のお菓子はおいしい。
「それなら今みょうじを貰おう」
肘をついていた方の手首を捕まれてがくんとバランスを崩した隙に、もう片方の手にあったお菓子を拐われた。
「ちょ…ちょっと待とう、奈良坂君や」
「何だ?」
何事もなかったかのようにたけのこ型のチョコ菓子を食べ始めた奈良坂が、さっきよりも僅かに機嫌のいい声で応えた。
「何平然とお菓子盗ってんの?」
「みょうじごとチョコ貰ったから盗んではないよ」
奈良坂の言う通り、私の付属品としてチョコなら確かに盗んだわけにはならない。でも問題はそこだけじゃない。
「おかしいね?おかしいよね?いつ私ごとあげるって言った?」
「本命でも市販のチョコレートを渡すなら、これも本命になりうるってことだろ?」
「いやっ…ちょっ…えっ…待って、ちょっと待って?」
理解が追い付かなくて、目を隠すように額に手を当てていると、奈良坂の静かな笑い声がした。
「あまり人をからかうな」
「やり返されたー!」
冗談を言いそうにない奈良坂がこんなにもやぶ蛇だとは思ってなかったし、目隠しをやめたときにはいつも通りの表情に戻っていたので珍しい笑い顔を逃してしまったしで、酷く後悔した。
ぽいぽいと奈良坂の口の中に消えていくお菓子。何だかんだで奈良坂は満足そうに食べているので、それはそれでレアな一面を見られたと思っておくことにする。
「そんなにたけのこ欲しかった?」
頬杖して恨めしげに見ながら言ったら、お菓子をつまむ指が止まる。
「いや」
奈良坂はまじまじと指の間のお菓子を見つめた後、そのたけのこの先端を私の唇に押し込んだ。
「チョコレートより欲しかったものが案外簡単に手に入りそうだと気付いただけだ」
押し込まれたお菓子がころんと口の中に転がって、奈良坂の指の腹が私の唇に触れ、すぐに離れる。
「お菓子くらい自分で買えば済むからな」
少しの冗談も感じられない不意打ちの微笑みに、さっきまでは見てみたかったのに、今は逃げるようにして机に伏す。
今さっきまで奈良坂の笑みの破壊力なんて想定してなかった。残念そうな顔も、困ってる顔も、何かかわいいとか思ってたけど、今の奈良坂はそういうレベルじゃない。
ぎゅうっと苦しくなった胸を宥めながら、絞り出した声で小馬鹿にする。
「なに、それ。恥ずかしい」
「耳真っ赤で言う言葉じゃないよ」
奈良坂の小さい笑い声に、もう自分の中に反論する余地も余裕もないことが分かってしまったので、もうどうにでもなれと投げ出した。
「あーもー、勝手にして!」
「勝手にする前に授業あるから起きろ」
はっとして顔を上げれば、周囲からの生暖かい視線が凄く刺さってて、さすがに奈良坂以外に勝手にされたら困ると思ったけど、もう手遅れだと思う。人の口に戸は立てられないって言うし。
「もう二度と、奈良坂にチョコレートはあげない…」
それだけ言い残してまだ先生の来ていない黒板の方に向き直ると、後ろから捨て台詞への返答が来た。
「それ以外のものを貰うから構わない」
今朝からの自分の安易な計画に後悔したらいいのか、一連の流れを人の目のあるとこでやってしまった迂闊さに穴に埋まればいいのか、さっきの告白みたいなこと言い出した奈良坂を思い出して照れたらいいのか、初めて見た奈良坂の笑顔に悶絶していたらいいのか、ぐしゃぐしゃしてよく分からなくなってきたので、私は机にごちんと頭を打ち付ける。
こんなことになるなら授業前になんかやらなかったのに。絶対授業の内容耳に入らないし、授業終わったらどんな顔して奈良坂を見たらいいのか分からない。
授業の最初で当てられるって分かってるのに、授業開始までにこの熱が引く気配は全くしなかった。