この私が珍しく台所で包丁片手に格闘していたら、締めていたはずの鍵が開いて、玄関のドアが外から開けられた。心霊現象とかではない。合鍵持っている唐沢くんの犯行だ。
「ゴキブリでも出た?」
酷い第一声である。
「見てて分からないのか!料理だ!」
「無理があるだろう…」
まな板の上のニンジンを見てもまだ言うか。…ちょっと歪だけど。
「何を作ろうと思ったんだ?」
「…カレー」
「それは無難でいいね」
言いやがった…無難とか言いやがった…。悔しすぎる…!
私が一人で唸っていると、唐沢くんは持っていた荷物を置いてから腕まくりした。
「手伝うよ。…違うな。教えるよ、かな」
馬鹿にしたように笑うから、思わず包丁持った手が震えるように動いた。刺さないよ。刺さない。刺さないけど。
「夜道には…気を付けろよ…」
「はいはい」
憎々しく呟いた言葉を雑にあしらわれた挙げ句、包丁も取り上げられた。
「大体みょうじの包丁の使い方だと指切りそうなんだよな…」
唐沢くんの視線が私の左手に向かったのでとっさに隠す。
私と唐沢くんの間に無言の時間が生まれた。
「見せなさい」
「何を?」
「左手」
「何故に?」
唐沢くんが包丁片手にじりじりと前進してくるので、私もじりじりと後退する。修羅場か。
「手、切ったんだろう?」
「切ってない」
唐沢くんは包丁をまな板の上に置いてから、ゆっくりとニンジンを見た。
「あ、血だ」
「げっ!」
「やっぱり!」
バレた。確かに血は洗い流したはずなのに!
すぐさま部屋からベランダへと逃亡した。場合によっては、1階だし、このまま柵を越えてサンダルで外に出るのも辞さない。
「戻ってきなさい」
「嫌だ!」
「近所迷惑ですよ」
「いーやーだー!」
子供っぽい攻防に先に折れたのは唐沢くんだ。無言で部屋に引っ込んだ。カーテンが邪魔で唐沢くんがどこにいるか分からないが、室内で物音がしたので窓からは離れたらしい。
しばらくして、唐沢くんのわざとらしい独り言が飛んできた。
「今日、親戚からもらったワイン持ってきたんだけどなー」
「えっ!」
酒に釣られて部屋を覗いたら、カーテンの裏に隠れていた唐沢くんにヘッドロックされた。伊達にスポーツやってるだけはある…苦しい…!
「捕まえた」
「ぐ、ぐるしっ…!」
ギブギブ!と腕を叩くと、少しだけ腕が緩んだ。頭は抜けそうにない。
「ほら、左手出しなさい」
睨まれたら出すしかない。また首絞められかねないし。窒息するのは嫌だ。
渋々左手を出すと、左手を拘束された代わりに頭は解放された。そのまま私は床に突っ伏す。上半身は室内で、下半身はベランダという、自分のことながら何ともまぬけな体勢だ。
「やっぱり舐めただけで終えてたか」
「舐めたら治るってじっちゃん言ってたー…」
うちのじいちゃんはそんなこと一度も言ってないけどな!
床に向かって呻いていると切ったところに何か巻かれる。どこからか持ってきたらしい絆創膏が貼られていた。
「はい、おしまい」
「いだっ!」
ばしっと背中を叩かれた。
体育会系、少しは手加減しろ!
「さっさとカレー作ろう。腹減った」
私を残して先に台所に向かった唐沢くんが、まな板の前で立ち止まってこっちを向いた。
「別に血はついてなかったけど。あとワインもない」
唐沢くんの完全なしたり顔に、近所迷惑とか一切考えず叫んだ。
「騙したなー!」
「うるさいですよー」
酒の怨みは絶対に忘れないからな!