朝焼けの静かな町を歩いて、昨日も開けた扉を今日も開ける。
脱ぎ散らかした靴が玄関で寝ているのを確認して、まっすぐ家主の寝室に入る。
カーテンで暗い部屋。
布団が盛り上がったベッドに近付く。
「やっぱり帰ってた」
小さい声に、眠そうな返事が返ってくる。
「ああ…洗濯物、ありがとう」
「どういたしまして。何か食べる?」
「…もう少し寝たい」
もぞもぞと布団が動いて、跳ねた髪の毛が出てくる。
「克己、髪の毛乾かさないで寝たでしょ?寝癖ひどいよ」
髪の毛をひょこひょこつつく。
「…楽しい?」
「んー、楽しい」
ここに克己がいるから。
言えない言葉は呑み込む。
「この後仕事は?」
「休み…」
「それはよかったね。お疲れ様」
「なまえは…?」
「今日は休みだよ」
眠そうな声の主の寝癖をつつくのをやめて、あやすように頭を撫でる。
克己を子供扱い出来るのはきっと今は私だけ。少しだけ優越感。
「ほら、もうおやすみ」
「…いつ帰る?」
「もうしばらくいるよ」
「何で…?」
「何でって、起きたら何か食べるでしょ?」
「何で…?」
何で?
何でって、私が克己に作りたいから。それ以上の意味はない。
「なまえは…俺を…どうしたいんだ…」
「んー…満腹にさせたい?」
「そうじゃない」
頭を撫でていた手を掴まれる。
眠そうなくせに、力は強い。
「なまえは…こんなところにいるべきじゃない…」
「何で?」
今度は私が聞き返す。
「なまえなら…いい奥さんになれるさ」
「…彼女でも出来た?」
「…いや」
「じゃあ大丈夫でしょ?」
「大丈夫じゃない…」
ささやかで一番の幸せが奪われそうになる。
「なまえには幸せになってほしい」
「今十分幸せだよ」
「そうじゃないんだって…」
「…早く結婚しろって言いたいんでしょ?分かるよ」
克己の手が少し緩む。
「なら克己も早く彼女作って結婚した方がいいよ」
私は私の気持ちに嘘をつく。
克己が結婚したら、きっと私も諦めて結婚出来る。
「…しない」
じゃあだめだ。
「克己こそ幸せになってほしいよ、私」
「どうして?」
「………親友だからだよ」
近すぎるから言えない言葉の代わりに、近すぎるからこそ言える言葉を贈る。
「………もう無理だ」
思いっきり引っ張られ、体が前のめりになる。
克己の腕で布団がめくれて、克己と視線が合った。
「なまえのことが嫌いならよかった」
「克己が私のこと嫌いでも、私は克己が好きだよ」
「…だから困るんだ」
体は眠いのに、頭はガンガンに冴えている。
「期待…するだろ。こんないつ帰ってくるかも分からない男を待っててくれる人がいるなんて」
「うん、でも待つでしょ?」
なまえの返答から、どうにもこの感情までは読み取られていないらしい。
遠すぎてどんなに言っても通じないから、もう言葉で伝えるのをやめる。
空いた手でなまえの後頭部に手を回して引き寄せる。
触れるだけのキス。
離れていくなまえの顔は驚いている。当然だろう。家族で、兄弟で、親友なんだから。もう嫌われるのも覚悟だ。
「好き…なんだよ…」
「う…うん…」
今度こそ意味は通じたらしい。
なまえの瞳からポロポロと涙が溢れて、俺の頬に落ちる。
「克己ぃ…」
「ごめん」
なまえの髪の毛を撫でてやる。
「何で謝るの…?」
「ごめん」
ただ謝るしか思いつかなかった。
凉の心の中が分からない以上、こうして泣いてしまったのだから、謝るしかない。
なまえは顔をくしゃくしゃにしながら、嗚咽混じりに答えてくれた。
「私も…克己がっ好きっ…大好きなのっ!」
知らなかった。
俺だけが好きなんだと思っていた。
「どうしよう、なまえ。俺まで泣きそうだ…」
「しらないよお」
ぶわっと泣き出すなまえ。
掴んだままだったなまえの手を離して、なまえにぶつからないよう起き上がる。
「なまえ、おいで」
わーっと子供みたいに泣きながら、ベッドに登って飛び付いてきたなまえを抱き留める。
少しうるさいけれど心地いい温もりに、眠気がもう一度顔を出した。
「このタイミングで言うことじゃないんだけど…時差ボケがまだ直っていないから眠い…」
なまえは一度離れて、鼻をぐすぐす鳴らした。
「じゃあ…一緒に寝る…」
ささっと布団に潜って、隣の空いたスペースをぽんぽん叩く。
そんななまえを寝転がってから抱き寄せた。
今までより遥かに近い、温度の感じられる距離が愛おしい。
「おやすみ、なまえ」
「おやすみ、克己」
目を閉じたと思えばすぐに寝息が聞こえてきて、よほど眠かったんだと分かる。
ずっと近くにあったものなのに、昨日までの私たちとは遥か遠くに来てしまった。
知らない温度の中、眠る克己の鼻にキスをして、私も目を閉じた。