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嫌いと言うには遠すぎる

重い扉の先の暗い部屋。
久しぶりの我が家は今日も人の名残がする。

「ただいま」

返事はない。
当然だ。
俺しか住んでいない家から声がする方がおかしい。

「さすがにドイツから帰ってきたんだ、時差ボケもするっていうのに。城戸司令は優しくない」

スーツを脱いでハンガーにかける。

「ま、仕方ないか」

リビングのテーブルの上に、帰宅後すぐに洗濯の中に放り込んだまま忘れていた服が綺麗に畳まれて生活感を漂わせていた。

「ああ、洗濯物干してくれたのか。ありがとう」

全部ひとりごと。
誰も聞いているわけがない。
ただ、それを言葉にすれば、この部屋は伝えてくれるような気がしている。

「ドイツはわりと好きだな。ソーセージとか美味しいし。ビールは飲めないけど」

やかんに水を入れ火にかける。
ついでに煙草にも火をつける。

「今回はヨーロッパ5ヶ国回ったんだけど、おみやげでも買ってくればよかったかな」

紫煙が気にするな、と換気扇に吸い込まれていく。

「明日はようやく休みだ」

空っぽの流し台が肯定する。

「俺たちもう33歳だな。彼氏は出来たか?」

やかんはしゅんしゅん答える。

「このままじゃ行き遅れになるだろうに。早く結婚して、子供に囲まれて、幸せになったらいい。…こんなところにいないで」

やかんはぐつぐつと湯気と一緒に飛沫を吐く。
慌てて火を止めて、カップラーメンにお湯を注いだ。

部屋を掃除しに来てくれたみょうじなまえとは、家族のように育って、何でも言い合える相棒として傍にいた。
なまえに好きな人が出来たときは恋路を応援したし、大学での実習や大会が無事終わった時には一緒に飲み明かした。俺はウーロン茶だったけど。
今はなかなか家に帰れない俺の代わりに、この家を守ってくれている。
ここまでしてくれているが、俺たちの間には今のところ何もない。

「もう期待している自分がいるんだよ」

独り身で彼女もいない。
そんな俺の帰りを待ってくれる人がいるということに。

「俺を放って、誰かと幸せになった方が絶対に幸せになれる」

物心ついたときにはそこにいたから、なまえがいないという生活が俺には分からないけれど。
なまえが幸せになれない未来なんか来てほしくない。

「嫌いになりたい」

自分の感情に目を瞑る。
義理堅いなまえを突き放すという選択肢は無意味だ。
言葉の意味すら通じてしまう。

「なまえ」

今更「嫌い」と言うには、俺たちの距離は声も聞こえない程遠すぎる。


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