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言葉が足りない

今日はやけに鼻がムズムズする。隊室でくしゃみをしたら出水に「夏風邪っすか?」と訊かれ、ランク戦のロビーでくしゃみをしたら俺に気付いた二宮が「バカでも風邪を引くのか」と嫌みをくれた。自慢じゃないがここ数年風邪を引いたことはないし、夏場だからと言ってクーラーの効いた部屋で腹出して寝てもいない。あまりにくしゃみをしていたからか、迅には「誰かが噂してるんじゃないんですかね〜」なんて、何やら含みのある言い方をされた。全くおもしろくない。風間さん辺りがカメレオンで寄ってきて、俺の鼻先でコショウを撒いていると言われる方がまだ納得できる。いっそ自分が気付いていないだけで、本部の冷房が効きすぎているんだろうか。
昼飯を食べるために寄った食堂で、また一つ盛大なくしゃみをすると、周囲の視線が集まった気がした。何なんだ今日は。
頭を掻く代わりに眉間を拳で掻いていると、隣から控えめな笑い声が聞こえた。

「太刀川くん、お疲れ様」

顔を上げると、みょうじが身体を折って覗き込んできていた。目が合うと、小さく頭を揺らし、髪の毛が肩から滑り落ちて揺れた。
みょうじとは一応大学では同期だ。ただ、授業は何一つ被ってはいないし、こっちは攻撃手、向こうはオペレーター。少し前に来馬を通じて会話をするようになったが、何か難しいものを専攻しているらしい上に、関心のある分野が全く被らなくて話題を見つけられないくらいに接点がない。
だが、みょうじの方は特に気にしている様子はなく、見かけると声をかけてくれる。

「一緒にご飯食べてもいい?」
「おう」

みょうじは持っていた鞄から小さい包みを取り出す。わざわざ弁当を作って来ているらしいことは前に聞いたが、本当に作っているようだ。自分なら絶対に足りないだろう量のそれに、思わず「小さいな…」と感想を漏らすと、みょうじは小さく笑って、きれいに詰められた弁当のおかずをそっと口に運んだ。
その仕草一つとっても、みょうじと言う人がどういう人かがよく表れている。こういう人を『何とかの花』と言ったはずだ。花の種類には詳しくないからさっぱり分からないが、来馬と仲良いのも頷ける、そんなタイプの人間だ。
しばらくの間、お互いに黙って飯を食べていたが、また鼻がムズムズしてきてくしゃみが出る。すると、みょうじは眉を下げて、心配そうな顔をしてくれた。

「風邪?」
「いや……誰か噂でもしてるんだろ」

先程迅に言われた言葉だったな、と声にまでおもしろくなさが出てしまったが、みょうじは少しだけ考えた後、みょうじにしては子供っぽい笑みで俺の顔を見る。

「『今日なれば 鼻ひ鼻ひし 眉痒み 思ひしことは 君にしありけり』……なーんて」

呪文だ。何かよく分からない呪文を唱えられた。
俺があまりに変な顔をしたのか、みょうじはおかしそうに、だが控えめに笑うともう一度マンヨーシューの一つとかいう呪文を唱える。『今日はくしゃみが止まらず、眉も痒くてしかたなかったけれど、それはあなたが来られる日だからだったんですね』みたいな意味だと言うが、何も分からない。
ただ、みょうじの楽しそうな顔を見ていると適当に流す気にはなれなくて、曖昧な感じは隠しきれなかったが、それなりの相槌を返す。俺が話を聞く姿勢を見せたのは正解だったようで、みょうじの笑みが深くなる。

「昔の人は『くしゃみが出たり、眉がかゆくなったりするのは、好きな人が自分のことを強く思ってくれているから』って信じていたんだよ」

言っている内容は、さっき迅も俺も言った『噂されるとくしゃみが出る』とほぼ同じだ。違うのは『誰かが噂している』のではなく『自分の好きな人が自分の事を考えてくれている』と、相手と思いが明確になったくらいだ。

「だから『今日の太刀川くんは、好きな人が「会いたいなー」って思ってくれているんじゃない?』てことだよー。太刀川くんも隅に置けないね!」

楽しい話が始まったと言わんばかりのみょうじの表情に反して、自分の心がやけにざわつく。だがその理由が少しも分からない。『俺の好きな人』と言われて誰か浮かびそうだった気がしたが、みょうじのキラキラした目と視線が合ったら、誰も浮かんでこなくなった。さすがに好きな人がいれば自分で分かるから、無理矢理にでも探そうと思ったんだろうか。自分の心の中だと言うのに、訳が分からない。
ただ、みょうじにはあまり言われたくなかった、と思う。みょうじの話が嫌だったわけじゃない。内容はあまり理解できてはいないが。
自分の分かる言葉ですら表現できないこれを、表現豊かに言葉を使うみょうじに、どうしたら説明できるんだ。

「今日喋った女、みょうじが最初だけどな」

ようやく捻り出した返答に、みょうじは「それは残念」とけろりと言い切った。
自分でも迷った言葉では、少しも届かないことは分かりきっていたが、頭が痛くなりそうで眉間を手の甲で掻く。それを見ていたみょうじは思い出した事があったようで、さっきの話に付け加える。

「ちなみに、それを逆手にとって、わざとくしゃみをしたり、眉を掻いたりしておまじないにしていた人もいたんだって」
「何だ、おまじないしてたのか、俺は」
「わざとだったの?」

したくてしているわけではないから、おまじないな訳はないんだが、みょうじが笑ってくれたから今日はくしゃみしていてよかった、なんて変なことを思った。
みょうじは何やら機嫌がいいようで、さっきの呪文は本当は女が読んだ男への返事の和歌なのだと、話を続ける。女が読んだ和歌から、男の俺には当てはまらなかった、ということだろうか。一応真面目に聞いているつもりだったが、頭が全然追いつかない。
それでも、つまらない話を聞かされたとは思ってはいないし、自分の専門分野を楽しそうに語るみょうじを見ているのは飽きないということだけは伝えたくて、記憶に残ったキーワードから何とか話題を拾う。

「返事ってことは、男も何か書いたのか?」
「うん、『眉根掻き 鼻ひ紐解け 待てりやも いつかも見むと 恋ひ来し我を』って言って、眉を掻いて、くしゃみをして……」

みょうじはそこまで言うと何故か黙ってしまった。何事かと彼女の目を見ると、瞬きもせずに、いつもより大きく見開かれている。

「みょうじ?」
「は、はいっ!」

突然名前を呼ばれたかのように驚いて返事をすると、さっきまでのスラスラと言葉を並べていたのが嘘のように、しどろもどろに話し出す。

「ええと…くしゃみ…くしゃみして、下紐…ほどいて……え、ええ……あの、ほら、昔の人はほら、会いに行くって…そういうこと、でしょ?」
「そういうこと?」

前提が分からないから訊き返しただけなのに、みょうじには致命傷だったらしい。引きつる様な小さな悲鳴を一つ上げたかと思ったら、そのまま俯いてしまった。弁当箱を囲うように髪の毛が落ちて、隠れていた真っ赤な耳が見えた。
俺はそんなにまずいことを訊いたか?

「えー…悪い……?」
「ほんとだよお…」

とりあえず謝ってみたら、うめき声の間から非難の声が飛んできた。学生の頃、もう少し真面目に勉強しておけばよかった。今も学生だが。
みょうじはうんうん唸った後、赤くなった顔を上げて、目線を泳がせながら、別にここで切り上げてもよかったのに、律儀に話を続ける。

「昔の人は、奥さんの家に通っていたから…その……和歌で詠まれる『会いに行く』は…えー……だから、そのー……男の人が、早く会いたいって思っていたから、あなたは眉を掻いたり、くしゃみをしたり…その…着物じゃなくて……肌着…の紐がほどけたり…して、待っていてくれたんですね………みたいな……」

みょうじの頭の中はまだぐちゃぐちゃらしいけど、まあ、何となくは分かった……と思う。「さっき言ってた『おまじない』をして待っていたんだろう?だって、俺、すげー会いたくなったし」みたいな感じだろう。
自信のない訳だったが、それを言うとみょうじはほっとしたような顔で同意してくれた。何かよく分からないが、安心してもらえたようでよかった。
しかし、いつになくテンパっているみょうじに、ここは違う方向に話を変えてやった方がいいんだろうか、とちょっと気を使ってみようかと思った。だが、俺が分かる程度のキーワードは、さっきから出ている『おまじない』くらいで、そんなに大きく話をずらせそうにない。とりあえずその辺から話を振ってみる。

「そういえば、おまじない、また一つ増えたな」
「え?……ああ、違うよー。強く思ったら肌着がはだけるなんて………ぅえ!」

変な声を出したみょうじだったが、残念なことに、みょうじが自分で気付くよりも先に意味が分かってしまった。例え難しい話でも、そこにたった一つ『エロ』というものが混じると、急に頭の回転が速くなるのは、男なら皆そうだ。そうに違いない。俺だけじゃないはずだ。間違いない。多分。そういうことにしよう。
そうして一時的に賢くなった頭で導き出したのは「今日くしゃみして、眉毛を掻くおまじないして、何なら下着脱いで待ってたんだろ?めちゃくちゃ抱きたいって思ってたんだよなー」っていうセクハラにしか聞こえない発言をする男と「そうだねー。眉が痒くて、くしゃみが出たけど、それは今日あなたが私のことを考えていたからだったんだね」って笑ってくれるお茶目に返してくれる女のやりとりだった。エロい。昔の人はエロい。
そして、向かい側から漂ってくる居た堪れなさ。これは知っている。リビングで家族と一緒にテレビを見ていたら急に濡れ場が流れた時のやつだ。
この空気を作り出したみょうじの代わりに何かを言わなければ、と思いつつ、いつものように「エロいな」と素直な感想を漏らしたら、みょうじは本当に泣いているわけではないだろうが、泣き声を上げて、両手で顔を隠してしまった。
しばらく唸った後、みょうじは指を少しだけ開いて、さっきよりも潤んだ目で俺を見た。

「別に古文は、え…えっちなのばっかりじゃないからね!?普通のもあるからね?!」
「お、おう…」

みょうじの勢いに押されて言わなかったが、俺は気付いてしまった。多分古文にはまだ沢山エロいやつがあって、恐らくみょうじはエロいやつをいくつも知っている……。

接点はほとんどないが気軽に話しかけてきてくれて、案外自分の好きなことや専門については夢中になるタイプで、何とかの花だけど完璧人間と言うわけではなく、たまにこうして自爆する。
……だから、何て言えばこのザワザワする心の中を表せるんだ?


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