あの慟哭以来、彼が泣いている姿を見たことがない。
(見せたがらないに違いないから、当たり前だけれど)
蛍を切なげに見やる土方の横顔を見ながら、千鶴はぼんやりと思った。
◇
陽もすっかり暮れた。蜩が鳴きやんで、変わりに馬追虫が歌い始める。冷えた風が汗ばんだ肌を撫でて、小さく身体がふるえた。
「虫が泣いてやがんな」
「? はい」
何をいきなり風流なことを言い出すのかと見上げれば、彼は眉間の皺をそのままに眉尻だけ下げて、千鶴を見下ろす。
「ここに泣き虫がな」
ぬっと伸びた手が、頬に触れる。ああ、また、涙が零れていたようだ。
「今度は何だ?」
「何でも……ありません」
「泣いてんのに何でも無えわけがあるか」
何があった、と言いかけたのかもしれない。けれどそれを飲み込んだ土方は、少し乱暴に千鶴の頭を撫でた。
本当に、何でも無いのだ。強いて言えば、土方の郷愁と少しの懺悔を勝手に思って零れたのだろう。
「すまねえな」
溢れる涙を親指で拭いながら、小さく謝る。
「俺の代わりに泣いてんだろう。」
「……はい」
詭弁でしかない掛け合いが優しい。
不意に、熱いてのひらが頬を覆った。なんだろう、と顔をあげると、透き通る紫の瞳に意識を吸い込まれた。ぴたりと、涙がとまるのを感じる。
「ひじかた、さん?」
千鶴がどうにか声を出すと、視線はそのままに土方は親指を千鶴の下唇に這わせる。その柔らかさを確かめるように数回跳ねさせて、そのまま耳を撫でた。
「……なんだ、その顔」
「なんだ……って! 土方さんが急に、」
急にそんな目で見て、触れるから。
千鶴は言いかけて、口を噤んだ。だって、それではまるで。
「仕方無えじゃねえだろ。泣き顔美人な奥さんが泣いてりゃ、食っちまいたくなる」
くい、と視線をあわせて屈む土方の首もとに目がいった。千鶴はあわてて目を背ける。いつもはきっちりしめているが、今は寝る前だから少しゆったりとさせて肌蹴ているのだ。見慣れてないわけではないけれど、慣れたとて目のやり場に困る。彼は、女の自分より余程色っぽいのではないか。そんなものを見せつけられた所為で、すっかり涙は引っ込んでしまった。まったく現金なものだ。
土方を取り巻く思い出は優しいほど残酷で、時々彼を押し潰す。それでも彼は、泣かない。
はなれてしまった手を名残惜しげに見ていると、くい、と腰を引かれた。
「え、」
見上げれば、土方の顔が眼前にある。千鶴は息を詰まらせた。そして数秒逡巡し、きゅっと着物の袂を掴む。
必要だと、求めてほしくて。
(あなたが、欲しい。)
土方はそっと、千鶴の髪留めを引き抜いた。
(泣けないあなたのかわりに、わたしが泣くから。)
涙はいらない、
心をちょうだい
ぱさりと音を立てて背中に流れた髪を梳くその手が愛しくて、千鶴は彼の名を呼んだ。
そうして、寂しいだけのこの思考を奪われてしまいたかったのだと気付いたのは、彼が帯を解き始めてのことだった。
A爆発企画様に参加させていただきました。