「私をシチューにしてください」


シチュー程調理が楽な料理はないと思う。切って鍋にいれてぐつぐつ煮込むだけで美味しく食べることが出来る。手間暇かけずただ吹きこぼれなど起こさないようたまに火加減を見る以外にすることもないので、忙しい人にはぴったりの夕食だ。だから私は願った。いつも忙しそうなその人に頭を下げて是非シチューにしてくれと。


「そのために牛は生きています。旬の時期にお肉にして頂けなければ私の生に価値はありません」


私は若い。確か人間でいうと14歳か16歳か18歳かぐらいだ。乳牛以外の若いメスはやわらかくさっぱりとした優秀な肉として食卓に並ぶことが出来るのを私はよく知っていた。私のような無能はどうせ何も出来ないのだから早く肉になる方がよろしい。むしろ肉になってからが本当の私の人生の始まりである。牛としての怠惰な生活に幕を下ろし死んで皮を剥がれて分断され焼かれて鍋にいれられ煮込まれ人の口に渡る。喉の垣根を飛び越え胃まで滑り落ち溶けゆく私は循環する。終わりも死もなし。生まれた私は私としていつまでもこの世をぐるぐると巡るのだ。死でもって失われるのは肉体だけで永遠の生を得た私という養分はいつまでもここに残る。
だから早く死にたい。牛は世界に戻りたい。足があると引力に勝てないし、いつまでも悪魔の奴隷をするのは嫌だ。

美味しいシチューの材料にしてくれ。ただの肉にしてくれ。まな板の上で切り刻んでくれと頼む私を息子さんは海の底のような目で見下ろしながら、包丁を研ぎにいくから森で待っていなさい。あそこには蝶がたくさんいるからいい暇潰しになるだろうと言った。聞き間違いはない。私はイケメンの如く顔面を輝かせ息子さんに笑顔で頷いた後わたあめのように軽い足取りのスキップで森まで向かう。息子さんの姿が遠ざかっていく。私の暮らすこのおおきく白い建物の裏には森があり、様々な生き物が住んでいる。息子さん以外の人間と接する機会を与えられない私には唯一こちらに暮らす虫や動物達が私以外の生き物として友情を育んでいた。私と同じ、狩られる側にいるウサギや小鳥は私には寄ってこず私が森に一歩でも踏み入れた瞬間奥へと逃亡するのがオチであるが羽虫は別だ。
日射しのない、影のなかでゆっくり育てられた木々と葉の隙間を縫うように紫とだいだい色の蝶が飛んでいる。優雅に羽ばたく音は集団になると何かを勢いよく振り落とす際に耳にするものとよく似ている。泳ぐ蝶の下に膝を抱えて座り込む私の頭、鼻、瞼にいつのまにやらちらほら蝶がとまっていた。ここの蝶は人見知りをしない。
いくつもの楕円でできた大きな羽が目前で二三回開閉される。


ふと鼻先をくすぐる前足が離れ、蝶達は一斉に飛び立った。侵入者から自分だけを守るように距離を置いて、鱗粉が埃のように舞い上がり、複眼に私以外の生き物が幾重に重なって映されている。
夏なのに冷たく暗い森内部で頭上を大量の蝶が敷き詰めているなか侵入者は上の光景に一瞬驚き目を丸くしていた。少し見慣れてからは探し物でもあるのか瞳を蝶達の動きに合わせてぐるぐる動かしている。そのあと侵入者を見つめる私の存在に気づきよろめきながらこちらへ近づいてきた。だいだいと紫が交差する。片足を引き摺り左手には網が握られている。蝶が騒ぐ理由がわかった。暗くてあまり顔がわからないが人の口と目だけがぱくぱくと開いている。


「蝶を見なかった?」
「……蝶なら」


たくさんいるそれらをぼんやりと見上げる。
侵入者はふるふると首を振った。


「ガラスみたいな蝶。こっちに飛んでいくの見かけたから捕まえにきたんだ」


私は目をこらす。どの角度から探しても頭上にいるのはだいだいと紫色ばかりである。


「ここにはいませんね」
「そっか」


ありがとう。そんな言葉を残して侵入者はさらに奥へと進んでいった。
ガラスみたいな蝶とはなんだろう。そんな蝶ならばあんな人間よりもずっと前からここにいる私の方がもっと早くに見つけているだろうに。もしかすればあの人間は幻覚でも見ているのかもしれない。そうひとりで合点し、私は目を閉じた。落ち着かないのか蝶達はまだ上から降りてこない。羽と擦れる葉が私の鼓膜を揺さぶる。
しばらくすると男はまた戻ってきた。目を開ける。網のなかには何も入っていない様子だ。


「蝶は?」
「捕まえられなかった。見つけたんだけど木に張りついたままおりてこなかった。最終的に逃げられたよ。葵さんにあげようと思ったのに」


奥様か。彼女さんか。隣の人間はおそらく成人しているように見える。大人が愛する奥様か彼女さんは生きている蝶が好きなのだろうか。珍しい。人間の女の子はお飾りとしての蝶は可愛がってくれるが生きている蝶はゴキブリと同じにしか見ていないものだと思っていた。
ガラスみたいな蝶を捕まえられなかった大人の男は疲れた顔をして私に群がる蝶を眺めている。パック詰めにされた魚を連想させるその目は蝶も私も見ておらず、円を指でぐるぐるずっとなぞるように意味のない視線をこちらによこす。鮮やかな羽の蝶は男の黒目に別の色をもたらし、私は斜めからそれを見守りつつゆっくり言葉を吐き出した。


「その人は、シチュー好き?」


人間が乾いた目をぱちくりとさせる。


「ずいぶんと脈絡もないことを聞くなあ……。うん。葵さんは好き嫌いなんてしないよ」
「なら話は早い。ちょっとここで待っててください」


この人はとある蝶以外に危害は加えないだろう。ここにいる蝶は彼にとって無価値で無意味な有象無象共だ。確信を抱いた私は彼をそこに残して元来た道をいつもと同じく辿る。黒い森と湿った地面は私の足が欲しいと言わんばかりに根を這わせ靴を汚したがけもの道を歩くことはもう慣れっこであったので問題はひとつも起こらず、私は自分の暮らす場所へ無事戻ることが出来た。
建物についてすぐ、息子さんが食事をとっている部屋に飛び込み彼に飛び付く。豚肉を切り刻んでいる息子さんはやじろべえみたいに揺らいだ。


「息子さん」
「何かね、名前」
「お願いします、今すぐシチューにしてください」
「何故?」
「シチューが好きな方がいるんです」
「今日はもう遅い。また今度にしなさい」
「人を待たせています」
「名前」


息子さんは特に表情を変えようとはしなかった。


「包丁を研いでくる」


出だしと同じ。さっきと同じ。今日と同じ。昨日と同じ。ずっと前と同じ。神父様も息子様も私の扱いにほとほと困っていてそのくせ恐ろしく手慣れているので私がシチューにしてくれと頼むと決まってそう決め台詞を私に提出してくるのである。
それでも今の私にはそれだけで十分嬉しくて愉快で楽しみなので、私は素直に受けとりまた森の中へ駆け足で戻っていく。


約束の男はさっき私がいた場所に座り込んでいて私と同じくぼんやりと蝶を見上げていた。彼に駆け寄り私は笑う。


「もうすぐシチューになるから、もうちょっと待っててくださいね」
「……シチューになる?君が?作るんじゃなくて?」
「はい。私がシチューになります」
「なんで?」
「牛だから」


息も荒くなんとか報告している私に冷静に、冷静に彼が質問をぶつけてくる。私は牛なのだ。見てわからないのだろうか?やはりこの男は目がおかしいのか。


「牛です私」
「へえ」


私を覆う白と黒の皮、尻から伸びる尻尾、醜き肢体を一回転させて見せつける。無しかない男の目はそれをたった一度だけ追いかけて、瞬きをした。


「随分と。俺……いや良い勝負するか?牛っていうわりにはがりがりに痩せているように見えるけど君は本当に食べられるのかい?」


森が静まる。息がとまる。初めて会ったのに。私のことなんてまともに一回しか見てないのに。会って何分にも満たないのに。この男は私を傷つけるのに値する言葉を使った。羽ばたく蝶が嘆く。嘆きは大きく広がって私を内部から振動させ、足元から崩れ去りかける私に身の危険と崩壊を教えてくださりぎりぎりのところで私は藁を掴む。
この際藁とはあの枯れた植物ではなく前にいる男が着ている暑苦しいパーカーの一部だったが。


「美味しくなさそう?」
「うん」


追い詰められた私に掴まれたまま男は静かに頷いた。率直過ぎる答えに目眩も激しくなるが目下にある私の腕は小枝と見まがう代物で老いた老人の口元のように可哀想なぐらい震え、地にたつ足はかかしが持つ木製の足にしか見えなくて私は現実を受け入れるしかなかった。


「……ごめんなさい、シチューはなしの方向で」
「そうだろうな」
「私帰ります」
「俺ももう帰るよ」
「あなたのご飯は?」


痩せ細った男が首を傾げる。


「食べられないんだ」
「ま。お腹は?」
「すかないよ」


私も空かない。空かないと思っていた。ろくに食べなくたって牛として生きていけると思っていた。美味しいシチューになれると思っていた。でもそれは間違いであった。男から手を離し一歩離れる。
二人で暗く湿った蝶の楽園から出る。本物のだいだいが男と私を迎え入れる。


「……ああ、夕陽が落ちる。綺麗だなあ」


人間の男は緩やかに目を細めて沈みかけの夕日を見送っている。その横顔を森のなかに住む蝶と同じだいだい色が照らしていて、私はそこで初めて人間の男の顔をはっきり見た。
浮き出した血管があちこちに張り巡らされ白みかがった黒目に小さな夕日が捕らえられている。どう見ても正常には機能していないだろうにその瞳にある夕日はとても綺麗でなんとなく私も彼の見つめる先を見てみた。
夏の残光と肌触りのよろしくない温度で大きく孕んだ風が草を揺らし、男のだいだいに染まった髪をなぞる。


「……名前」
「はい。なんでしょう息子さん」
「腹が減っていたのか?」


人間の男と別れ、建物内に帰った私は息子さんが食事をとっている現場に飛び込み私にもご飯をくださいと頼み込んで快く頷いてくださった息子さんの前の席に座ってもりもりと食べていた。ずいぶんと驚いたらしい息子さんににっこりと微笑む。


「私牛のくせにがりがりなんだそうです。だから頑張って太ります」


私でも簡単に蹴飛ばせそうなあの人にあんなことを言われてしまったら私としてもプライドとやらが傷ついてしまうのである。
いつもならレタス三枚だけで済ましてしまう夕食を今日からは山盛りのご飯とおかずで迎える予定だ。太らないと。誰かに食べてもらわないと。牛でなくゴミになる。


「林檎のように丸々と太ったら即シチューにしてくださいね。包丁もちゃんと研いで」
「ああ、約束しよう」


出来たらあの男に食べてほしいなーなんて。低くて高低のない返事だが神父様も約束してくれたのだからその息子さんが破ることなんてあるはずがないので。
私は真っ赤な豆腐をスプーンで掬い、舌の上にのせる。じわじわと生き物を絞め殺すような刺激が舌先を襲った。人間扱いしてくださるのはとてもありがたいが家畜にも優しい味つけだったら良かったなあとも思う。


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