雁夜さんがこけた。何故かこけた。何でこけたのか。椅子に躓いた。つんのめった雁夜さんはテーブルに頭をぶつけた。
テーブルの上には私が自分のために一生懸命作っていたクッキーがあった。が、おおいに揺れるテーブルと雁夜さんのせいでクッキングペーパーを巻き込んで床に落下した。ショックのあまりよろめきながらも三秒ルールと己に言い聞かす。クッキーを拾い集めるべくテーブル下へ潜ろうとした私より早くそれに手を伸ばしている雁夜さん目掛けて、クッキーに塗りたくる予定であったいちごジャムまでもが銀色のボウルごと滑り落ちた。
額から真っ赤ないちごジャムが垂れてくる。ボウルがすっぽり彼の頭にはまっていることもあり、戦場で頭を撃ち抜かれた兵士を連想する。あまりにも間抜けた光景に私は困り果てた。
「雁夜さん……。」
「ごめんね、名前ちゃんごめんね」
「謝らないで。大丈夫。怒ってるけど大丈夫。気にしないでね雁夜さん。タオル持ってきますね」
「ありが……え?怒ってる?」
頭からボールを外して。それまで可哀想なぐらいに慌てて、申し訳なさそうな顔をしていた雁夜さんが言葉に詰まった。
若干苛々しながらそれを眺める。いい歳こいて子供みたいだ。額から鼻先まで垂れてきたジャムの一滴が彼の乾いた下唇に落ちる。
「…………。」
彼の前に屈む。目を合わせる。おすわりと言いつけられた犬みたいに座り込んでいる雁夜さんの頭を撫でる。雁夜さんの髪に絡み付いていたねばついて真っ赤なジャムが私の掌にも付着する。丸く見開かれた目が私を直視している。床上に膝をつく。赤くなった手で雁夜さんの頭と頬を撫で続けながら私は彼に顔を近づけた。息を飲む音がする。雁夜さんの鼻先についたジャムを私の舌がなめとる。可哀想なぐらいに震えて彼が名前ちゃんと小声で呼ぶ。私にはないものが雁夜さんの喉内部で蠢く。
赤くなった頬に軽くキスをして同じ色に染まっている右の耳たぶを食む。顔左半分に浮き出たままの静脈を指でなぞる。澄んだ血のようなジャムが甘い香りを私がなぞったとおりに伸ばして飛ばす。荒くなった吐息が私をくすぐる。雁夜さんの膝の上に乗って舌なめずりをする私を雁夜さんが恍惚とした目で見上げている。おそるおそる腰に手をまわされて、ピンク色に沈んだ雁夜さんの目をまじまじと覗いた瞬間戻ってきた羞恥心と貞操観念が私を蹴飛ばした。
「わー!!」
何をしているのか私は。叫び、命乞いをするように両手をあげて雁夜さんから離れる。
万歳状態でそのまま硬直しかけていた私は急いで立ち上がりぽかんとしている雁夜さんを残して洗濯機のある場所へと駆け込んだ。
この家で一番上等なタオルを水でしっかり濡らして戻ってきた私は現在、雁夜さんの顔を必死で拭いている。
「ごめんなさい、何だか変なスイッチが入ってしまって本当にすみません……。」
「い、いいや気にしないで。名前ちゃんは悪くないよ元はといえば俺が悪いんだし!大丈夫!」
責めて慰めていた相手に気を使われる屈辱感。困ったように笑う雁夜さんにどうしてあんな行動を取ってしまったのか私は自問する。無抵抗な犬みたいで可愛いかったのだ雁夜さん。そんな自答が脳内にて浮いている。
湿った雁夜さんの頬はどんなに綺麗なタオルでぬぐってもいつまでもいつまでも、いちごジャムのように赤かった。