金星が輝き、夕暮れを夜が蝕む。
嫌なことがあった日の帰り道はアスファルトを汚す自分の影を見下ろしながら自己嫌悪に沈むばかりでついた溜息が決して泣かぬよう最後までなんとか踏み留まっていた私の足を吹き飛ばしてしまう。
もう限界だ。
澱んだ目でそんなことを呟いていた。電灯の明かりが足元に降り積もる。
買った当初は真新しかったスーツもすっかりくたびれている。誰かの役に立ちたいと思ってほぼ休みなしで半年働き続け、今日まで生活してきたがここまで自尊心を抉られ続けて私は大丈夫なのか。本日のイベントを脳内にて振り返ってみる。クレーマーことお客様に電話口で怒鳴られ何故か私の家族のことまで罵られ激昂した私が反論しようとすれば上司が手を交差させて首を振っているのが見えた。怒りに震えながらも閉じた口は後になって上司に褒められることとなる。
仕事を終え、苛々しながら会社を出てこの悔しさを癒すのはやつしかおらぬとお気に入りのケーキ屋に飛び込みお気に入りのケーキを二つ購入し満面の笑みで店から出た瞬間猛スピードで突っ込んできた自転車に轢かれた。幸い両者とも大きな怪我はなかったが買ったばかりの私のモンブランはへこんだ箱から飛び出し地上に打ちのめされ食べられるために着飾った栗やクリーム全てが汚され打ち砕かれていた。
私が絶望している間に犯人は自転車に乗って逃げていた。奇怪なものを見るいくつもの視線に覆われ座り込んでいた私も立ち上がり現在に至る。しょうもない出来事の連続だったが私の心が崩壊するには充分であった。
家までふらふら揺れながら歩く。腕の肉に出来た擦り傷から微量の血が垂れている。そんな小さな痛みを上回る程心臓が悲鳴を叫び憎しみを吐き出している。とめどなく溢れる罵詈雑言は私の血中に溶けて全身をぐるぐると回ってゆく。冷たい月光と人工物の発するあたたかい光が半分ずつ帰り道を映し出すなかなんとか自宅にたどり着いて死んだ目を上にあげる。
私の部屋まで伸びる隙間だらけの錆びた階段に変な人間が座り込んでいる。
人間が顔をあげる。私の顔を確認後、警戒心があからさまに消え去り頭まですっぽり被っていたパーカーのフードを外した。
「おかえり」
シンプルなデザインの服。白髪。健康から程遠い全身図。階段にてうずくまる変な人間は私の好きな人であった。
下にいる私の元まで笑顔の彼がゆっくり降りてくる。
「えっと、神父にケーキ貰ったんだけど。俺食べられないからあげようと思って。名前ちゃん好きだろ、モンブラン」
男女の違いによる身長差で見上げる形になっている私の前で雁夜さんはモンブランが入っているであろう箱を軽く揺らす。
その向こうにある照れに照れた顔といつもと同じ優しい目の色にいてもたってもいられず、私は彼に飛びついた。首に腕をまわして無言で肩に顔を埋める。重たい鞄は私の腕の中途半端な位置でぶら下がっている。
「え?そんなに嬉しかった?」
「うん!」
「へ、へぇー」
「ゴミの臭いなんか気にならないぐらい嬉しいよ雁夜さん!!」
「うぐっ」
また疲れたとかいってゴミ袋の上で寝ていたのだろう。神父とかいう人もよくこんな人にケーキを渡したものだ。笑える。
突き放しもしないし動かないでされるがままの雁夜さんは苦い顔をしている。その後少し間を置いて、右手だけが私の腰をそっと抱きとめた。モンブランの箱がお尻にあたる。ここにいる誰よりも傍にいる雁夜さんに、私の中は熱を上げて蔓延っていた負の連鎖を溶かして消滅させる。階段をのぼり、鍵を開けて部屋に入ってまずは雁夜さんを暖かいお風呂に入れよう。それからご飯を一緒に食べてモンブランも食べる。そんな予定を立てつつ彼の粗末なパーカーに染み込む涙がどうか雁夜さんにだけはバレないよう、私は月に祈った。