あの日お家を飛び出していった雁夜が戻ってきた。
爺さんが連れてきた小さくて可愛い女の子がどうも雁夜の好きな人の娘さんだったそうで雁夜はその子を元のお家に戻してやりたいそうである。頑張るねぇお前と言ったら雁夜が眉をひそめたのもよく覚えている。私も娘さんとまあ同じ、爺さんに拾われた身であるが別に娘さんに同情など沸き上がってこず、ただ雁夜の頑張りを鼻で笑ってやったので雁夜は多分そこが気に入らなかったのだろう。
あんなに嫌がっていた蟲蔵にも雁夜は入り、髪もすっかり真っ白になった。前方を片足を引きずりながら歩く雁夜の頼りない背中に、ペロペロキャンディを小さな口に運んでいる娘さんの手を引きつつ私はこっそり胸のなかでダッセーと罵った。実際ダサかったのだからいいだろう。


そして今、私は自前のナイフを弄びながら木を眺めている。爺さんに雁夜をいじめろと命ぜられてやってきたここはとある森のなか。一般人の私には関係ないが魔力供給には持ってこいの場所である。ぐねぐねと曲がりながらも地面にしっかり根をおろしている木には穴があいており、そのなかにシマリスが住んでいる。元々人に飼われていたやつが住み着いたのだろう。ふわふわの尻尾がたまにこちらからでも窺えて私は笑った。可愛い生き物だ。
微笑む私の背後で葉を安っぽい靴が踏みつける音がする。変わらずナイフを弄びながら私はリスの住処を後にした。


逃げる。逃げると追いかけてくるのが馬鹿の性である。
健全な足で健全に森を駆け抜けると不健全な足で不健全に必死についてくる。森を抜けた先には川があり、私の足はそこで止まった。ナイフを弄ぶ手も止まりゆっくり流れゆく水の前で目を右往左往させれば背中の服を掴まれる。


「名前!!」


見かけによらず大きな声で呼ばれた私の名前に、私は声のした方向へ振り向く。そこにはもちろん雁夜がいて、息を切らしており、肌の色もすこぶる悪い。溶ける雪みたいに真っ白な髪。濁る肌。脱色してゆく瞳。目を伏せて私は絶叫しながら川に向かって走る。雁夜はわりと強い力で私の服を握っていたが唐突な私の行動に私の服から手は外れ、焦った雁夜が空振った手を伸ばしてまた追いかけてきた。川に飛び込む。独特な臭いのする水に飲まれる。一瞬戸惑った雁夜も大きく目を見開いて、そのあと決意を決めたような顔をして同じく入水した。


母なる海が呼ぶ。あるべき場所に帰ってこいと叫ぶ海に川も答える。止まらない。流れる。
そうそう深くないところで開けていた目をこちらに右手を伸ばしている雁夜に向ける。ろくに動かない左半身を傾けてもがき、息を搾り取られていく雁夜は私を助けようとしているらしい。


ぼんやりとしながら私は彼の手を取ろうと試みた。ナイフを持っていない方の手の指が雁夜の指と触れ合う。掠めて触れ合うだけだった指が絡まった瞬間、雁夜は安心したような目をした。


私は笑う。


絡まった指を引き寄せ、雁夜の腕を彼の背中に押し付け川底を蹴飛ばす。泡が弾ける。小石が散らばる。
水面に顔を出し、まず雁夜の顔を水中に何秒か沈めてから引き上げる。汚水を吐き出し咳き込む喉に私はナイフを押し付けた。


「意味もなく川に飛び込むやつがいると思った?」


罠である。薄暗い森のなかで見習い蟲使いの相手をするつもりはなかったので明るい大陽の下に誘き寄せた。
腐っても彼が所詮間桐雁夜であるのを熟知していた私が川に飛び込めばほいほいとひっかかるあたり雁夜はやはり馬鹿だ。舌打ちをする雁夜に私は二回頬擦りをしてやってからその顔だけを離す。身体は引っ付いたまま、


「私爺さんにお前の希望を打ち砕くよう言われててね……。私に勝てないようじゃあのトキオミとかいう人と真っ向勝負なんてしない方がいいよ。人生の無駄遣いさ」


明るく彼の目的に対する手段の無駄っぷりをも馬鹿にしてやれば雁夜は怒鳴った。


「お前と時臣は違う!お前は魔術師じゃない!!」


私は魔術師でない。魔術回路もないし、お家も普通の家庭だ。まごうことなき一般人である私がどうしてあのような爺さんに拾われたのか。
頭がおかしかったからである。あることないことをうそぶき学校で姉を除け者にしあまつさえ集団で姉を蹂躙した犯人こと姉の元彼氏の頭を斧でかち割り、スプレーで落書きを施された壁に遺体を磔にしていたところにあの爺さんは現れた。爺さんのおもちゃとして、暇潰しにさらわれたそこで余計なことを教わり今の私がいる。


「普通の人間に勝てないようなやつがどうやって化物に勝てるのさ!」


雁夜の首にナイフを押し付けるのをやめて私も叫んだ。
魔術師でない結局化物にもキチガイにも蟲漬けにもなれない普通の人間である私に勝てなくて雁夜はどうやって聖杯戦争だとかいう大層なものに挑むのか。
意味のない試みである。


「勝つんだよ!!俺はそのために一年間耐えて」

「あの女の子がお前に助けてって言ったの!?」


娘さんと男共に蹂躙された姉の姿が被る。
犯され虐げられた大切な人を救うために私は人を殺した。これで大丈夫だ安心だ安泰だと思った。だがそれは杞憂であった。爺さんのおもちゃとして生きるしかなくなった私が聞いた話、私をなくした姉はますます学校で孤立したこと。両親があまり笑わなくなったこと。十年弱経ってもまだ、姉が二度と表舞台に出ることのない私をずっと探していること。


「あの女の子の父親を殺すことがその子の幸せになるの!?」


原因を殺して満たされるのは自己満足だけである。見たくないものに蓋をしたところでいつかそれが腐り、腐臭を醸し出しながら無理矢理視界に入り込んでくる。


「雁夜」


馬鹿な私達はいつも大事なところで間違う。


「私お前を泡にしたくない」


ナイフを水中に落とし、濡れた雁夜の身体をそっと抱き締める。痩せ細りどうしようもなく火のつかないしけたマッチ棒のような背中に額をくっつけた。


「お前が死んだら悲しいよ、雁夜」


守るとか救うとかは自分が自分にするべきものである。他人に守られて長生き出来る程人生は甘くない。幸せになってほしい、幸せにしてやりたい人には己の力で歩いてゆける足を与えることが大事だ。
雁夜が己の身体とトキオミとやらを犠牲にして女の子は本当に幸せになれるのか。あの日抜け出したここへ戻ってきた雁夜にはもっと出来ることがたくさんあったのではないか。海から救いだした魚を地上に横たわらせたところでその魚は。


「……俺はもう長くないから」


雁夜の手が私を引き剥がす。
咳き込みよろけながら陸にあがり、雁夜は着ていたパーカーを脱いだ。


「俺は葵さんのために、桜ちゃんを葵さんに返すために時臣を殺して俺の命を燃やすんだ。それが彼女達を救うなら後悔なんてないよ」


パーカーを搾る。水がぼたぼたと落ちていく。
時間差で雁夜の隣に並ぶ私を雁夜は見る。


「名前」


パーカーが私の肩にかけられた。


「溺れなくて、よかった」


雁夜の体温が少し残るこのパーカーがどれだけ濡れて重たいか彼に説明してやるつもりが私はぎゅっと口をつぐんだ。
きっと爺さんはどこかで私達を見ている。あの爺さんは私が雁夜のことが好きで雁夜が私に全く興味がないこともよく理解して今日この企画を運営している。


先に歩く雁夜の頼りない背中の後ろをゆっくり歩く。どうか消えないで。どこにも行かないで。ここにいてねといくら口に出しても願っても雁夜はひとつも聞いてくれない。神も叶えてくれない。

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