好きだ、と確かに聞こえた。好きだと動いた口の一瞬一瞬の形も声も私の瞳と耳ははっきりとした記号として受け取り数秒後にはもう何度も脳内にてリフレインすることが出来るようになっていた。
それでも私は目を丸くして私を押し倒している男を見ている。
床には先程まで私が持っていたオレンジジュースが哀れな液体として横たわっており、それにビールの空き缶が半身を沈めている。男は私をクマのぬいぐるみのように片手でしっかり抱き締めて首筋に顔を埋めている。熱い息が私をくすぐるなか私は直感した。この男、溺れている。酒に。


何故飲んだのか。理由は明確。現実逃避だ。大人が酒を飲む理由などそれしかない。可哀想な大人を救うために法律から抜け落ちた、どこへでも飛んでいける魔法の水。


そう考えているうちにだんだんこんな、酔っているとはいえ私みたいな子供にすがり付いてきた男がとても可哀想に思えてきて私は彼の頭をそれはもう聖母よろしく撫で始めている。男の白い髪は私の指に甘く溶け込んで男はさらに私に密着した。
男が動く度に好きだ、と聞こえ顔をあげた男の手がついに私の制服を乱し始める。真っ赤な頬と水の張った瞳は完全に据っていた。校則と両親に守られているはずの私の身体はかさついた男の魔の手にかかり、真っ赤なリボンはほどかれ適当に選んで購入したブラジャーが顔をだしスカートは捲れてお腹の上には男がのっている。


無抵抗のまま焦点の合わない男の目を下から観察していたら、男は時間をかけて傾き私の唇を奪った。濡れた手を握られる。およそ体温の感じられない肌が私の頬に張りついて薄い皮が男の唇の形に変わるように軽く何度も押しつけられ、何回か繰り返していくうち試すように温い舌が口内に浸入してきた。
猫が水を舐めるように、犬が傷をなめるように、男の舌が私の舌を擦る。接吻など誰とも交わしたことがないので比較対象はないがなんとなくこの男はキスが下手だなと思った。私も私で経験皆無なので下手同士のキスとなり、二人同時におぼつかないあんよを始めている。


好きだ、は止まらない。這い寄る死の気配を全身に詰め込んだ男は唯一自由に動く唇でもって愛を叫ぶ。終わるキスが次の段階へと我々を導く。
半脱ぎの制服から露出した肩を男が撫でる。いとおしい人を見るように右目を緩めて、


「好きだ、葵さん。俺ずっとあなたのことが」


好きだ。
感情の灯る右目のなかには今私がいる。男と同じ、頬を赤く染めて男の顔を一生懸命見返している私が。男だけを見つめている私が。しかし男はそんなこと知るよしもないし知ったところでどうすることも出来ないのだ。間桐雁夜は彼女以外愛せない。


「……目ェ醒ませバカヤロー」


私は雁夜さんの腹を軽く蹴飛ばした。何を思ったのか酒に手を出し欲望のしもべと化した男は私の上から転がり落ちて木製のテーブルの下に入り込んでしまう。乱されていた制服やリボンを私は、自分の手でしっかり直しうんうん唸る男の足を引っ張ってなんとかそこから引きずり出した。


「もう、酒は飲んでも飲まれるなってあんだけテレビも言ってるのにさあ」

「あー葵さーん」

「葵さんはここにはいませんよー遠坂さんちの立派なお家で素敵な夫と愛らしい娘さんに囲まれて幸せに暮らしてますよー」

「好きだー葵さーん大好きだー」


私の家の隅っこにあるベッドの上にて葵さんに愛を叫ぶ男に私は布団を被せた。普段死人のような顔をしている男はやけに幸福感に満ちた顔で私のピンクの枕に後頭部を押しつけながら目を閉じる前に、


「俺絶対聖杯取るから」


何べんも聞いてきた誓いを口に出す。


「桜ちゃんを助けるから、だから葵さん」


赤い頬、動かない左目、血管の浮いた肌、彼女を求めてさ迷う彼の右手を私がそっと握った。


「……ありがとう、雁夜くん」


男は幸せそうに笑った。いびつな形の微笑みであったがそれでも充分に笑顔と呼べる代物であった。
好きだはようやく止まって男が完全に夢のなかに落ちる前に私は立ち上がり濡れた床を雑巾で拭いてビールの空き缶をごみ箱に捨てた後、鍵を持って自分の家から出た。盗まれて困るものはたくさんあるので鍵をきちんとしめて、階段をおり、月と人工の灯りが照らす道の中心に立つ。


今日のことは忘れる。明日の私は連絡もなしに一晩友達の家に泊まって家で飼い犬のように私の帰りを待っていた雁夜さんを心配させて帰宅早々説教される。雁夜さんも雁夜さんで一人になったのをいいことに酒を飲んで勝手に女の子のベッドに入り爆睡していたことを私に罪であると咎められる。その間に起きたことはなし。泡のように消える。

さてどこに逃げようか。鍵を握りしめて考える。逃げる大人を救うのが酒ならば逃げる子供は一体、何が救ってくれるのだろう。苦味の残る口で冷えた夜の空気を吸い込み、私は走りだした。

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