「名前」

波のない、水面みたいな声で私の名前は呼ばれた。
白く冷たいマシュマロを口いっぱいに詰め込んだまま振り向く。そうすると黒い神父服と赤ずきんちゃんが持っていそうなかごがまず見えた。
かごが上下に揺れる。


「このかごいっぱいにひまわりの種を取ってきなさい」


ひまわりは私の住むこの建物の前にある畑の裏にたくさん生えている。
神父様は名称は忘れたが有名なとある画家さんが好きで、その人がひまわりの絵を描いていてしかも可愛くて大きな花を咲かすものだから種をまいて大切に世話をしていた。息子さんはそこに行って種子を集めてこいと言っているのである。


「マトウカリヤも連れていくといい」


マシュマロのせいで口がきけないため、頷く。種が出来たなら今年の向日葵はもう用済みだ。夏も完全に終わる。それにマトウカリヤさんとは何日も会っていないから良いきっかけになる。どうも私は彼を怖がらせてしまったらしいので修正しなくてはならない。何故修正しなくてはならないのかわからないが私はマトウさんとはなるべくなかよくしたいのである。私の唾液で溶けかけているマシュマロを飲み込もうとしたらふたつ喉の奥に詰まったので息子さんに激励もかねて背中を強く叩いてもらう。
マシュマロは無事飲み込めた。


かごを腕にぶら下げて大きめの麦わら帽子を被り、鼻唄をうたいながら外に出ると玄関のすぐ側。影になったところでマトウカリヤさんがぼーっとしていた。都合の良い場所に座り込んで明るい日差しを相変わらずな目付きで睨み付けている。
私はまたゆっくり近づいた。


「マトウカリヤさん」


マトウカリヤさんはぱっと顔をこちらにあげる。一瞬水の注した目は私を見るなりすぐに乾いてしまった。


「ああ。君か」
「暇そうですね。ひまわりの種を一緒に取りに行きませんか」
「悪いが、遠慮させてもらう。あつい陽射しが苦手なんだ」


納得した。悲しい程マトウカリヤさんは太陽が似合わないし、太陽にも嫌われていそうである。こうやって外にちょっと出てぼんやりしているのが珍しいぐらいだ。よく聞かずとも灰色の肌がここ数年まともに太陽を浴びていない証拠を体現してくださっている。


マトウカリヤさんを溶かす趣味はないのでもう一人で私はひまわりの元に行くことにした。ずっと一人だったから別に怖いことはない。一人で生きていけるようになるためにここに住んでいるのだ多分。
薄い影から明るい外に一歩踏み出す。夏も終わるはずなのに暑苦しい気温は私の服を膨らませる。あつい風に腹を撫でられながらてくてく歩き始めた私を待ってと、声が引き留めた。


「その帽子を俺に貸してくれるのなら一緒に行ってもいいよ」


その条件に応じれば私の頭皮は焼けるだろう。そう思ったが、影に浸るマトウカリヤさんを見る。マトウカリヤさんはよろけながら影から出てきて私の後ろにやってきた。


牛として己の美白を守りたいところだが、腕を伸ばす。ふわりと流れる白い髪を押さえるように彼の頭に私の麦わら帽子を被せた。


「……うん。少しは変わるな」


閉じた玄関を背景に灰色の手が私の麦わら帽子にのる。麦わら帽子に巻き付けた黄色いリボンが誇らしげに日差しと同化している。私には大きいその帽子はマトウカリヤさんにはいささか窮屈そうであった。
大人と牛の差だ。そして今この瞬間に彼は麦わら帽子があまり似合わないことが判明した。というかこの御方にはおおよそ健康的なものが何ひとつ似合わない。マトウカリヤさんに某海賊漫画の主人公のコスプレをさせたら、どんな悪魔も腹を抱えて爆笑するに違いない。


お家を出て少々歩くと、神父様とその息子さんが大事に育てている野菜を植えた畑がある。いつもならばその先に畑も私の暮らす建物も森も他所の人から隠すように向日葵が植えられている。緑の葉と真っ直ぐに立つ茎、そして太陽によく似た形の大輪が顔いっぱいに光を浴びている。ただ今となっては季節も変わりかけて花も枯れて自慢の頭部は首から折れて顔を地面に向けていた。神父様もいないのでろくに世話をする人もおらず人には放置されっぱなしの向日葵は大部分が枯れて茶色く変色している。


自分と同じぐらいの全長を誇る茶色い脱け殻の前に立って、片手で顔をぎゅっと掴んだ。徐々に締め付けられゆく外壁はポテトチップスのように軽快に割れてそのまま力を加え続ければ指の間から向日葵の種が溢れ出す。目鼻口歯が落ちる。
マトウカリヤさんは私の手と向日葵の種を隣でじっと観察している。暑いのだろう。彼の顎を伝って汗が落ちる。身動きもせず、表情も変わらないマトウカリヤさんと同じで私も全然楽しくない。実った種が落ちるのも鹿の排泄シーンを眺めるのと一緒だなあと思っている。


「暑いですねぇ」
「そうだなあ」
「今年も残暑厳しいそうですよ」
「それは大変だ」


当たり障りのない会話を交わす。種があまり落ちなくなったので掴んでいたものを捻る。のっぺらぼうになりかけの残骸が折れる。左右に揺らぐ。種が落ちる。飽きたのかマトウカリヤさんはふらふらしながらどこかへ消えた。足音も立てない影坊主だ。あの人は一体何を思って私についてきたのだろう。かごに白黒の山が高く積み重なっていく。かごいっぱいになるにはまだまだ程遠い。一本取り尽くしたなら次の向日葵へ移動する。二本目の向日葵は小ぶりなもので、三本目の向日葵は鳥にたかられていた。
私が絞る前にすでに足元に散らばっていた種を雀がくちばしでつついている。
私に合わせた大きさの影が前にいる枯れた向日葵を飲み込んでいる。


「……あつい」


十本目の向日葵の前にだいぶ重くなったかごと共に移動した途端視界が点滅した。どうしてこんなに暑くてだるいのか。考えてみれば私は帽子を被っていなかった。アホのマトウカリヤさんがさらっていってしまったのだ私の帽子を。直射日光を湯水の如く頭から浴び、一匹の牛の目は白黒している。荒波に舟を浮かべその上に二本足で立ち波間を見ているかのように私はふらつき始めた。そんな私を枯れた向日葵が覗きこんでいて、半分程穴の空いた顔で私がその下に倒れてしまうのを見下ろしている。砂ぼこりが小さく舞い傾いたかごから集めた向日葵の種がこぼればらまかれていく。最後の力を振り絞り身体の向きを変えれば頭上にはたくさんの向日葵の顔があった。さっきまで私の影が向日葵を飲み込んでいたのに今では向日葵の影が私を飲み込んでいる。空を覆い隙間を葉で隠しまるで私以外は見ないでと女が詰め寄ってくるように枯れ果て終えゆく命を惜しみ嘆きまだ生きている私を恨めしそうに何体もの向日葵が睨み付けてくる。どこを見ても同じ向日葵、向日葵、向日葵、向日葵で
背中にしか逃げ場はなく生憎私はもぐらでないので地面には逃亡出来ずただただ不愉快さと気持ち悪さを噛み締めるに他はなかった。はじめて太陽を可哀想に思った。こんな連中に日中永遠に見つめ続けられるなどまっぴらごめんである。


悪口はともかく、体調管理のなってなかった私が引き起こした事態だ。私は目を閉じた。私が作り出す暗色が私を引き寄せる。暗いそこは私がよく記憶している場所にそっくりで約束を破った私がいつも閉じ込められていた。ここにいても祖母の声が聞こえてくる。とんでもないあくまだまさかあんな。さて耳はどこだったろうか。塞がなくてはならない。私は牛であるから余計なことは聞いてはならぬ。耳を両手で塞ぎひんやり冷たい地面にひたすら頬擦りをしていたら何らかが擦り付けていない方の頬に触れた。しっかり触るのが怖いのかほんの触れる程度で綿のようにかぼそいそれが溶けゆく私をつなぎ止め、くたばらないようにゆっくり世界に連れ戻していく。


目をあける。枯れ果てた景色の中心に妙な頭をした影坊主がいる。


「名前?」


私の名前だ。私を呼んだ声をまた水みたいな声だと思った。でも今度の水は上から降ってくる滴を受け止めるのに忙しく常に水面を揺らしていて、安定しない声だった。震える指先が頬を撫でる。
はじめは妙な形の頭をしているなと思ったがそれは私の帽子を被っているせいであり、私の帽子を被っているのはマトウカリヤさん以外にはいなくて、今私の頬に触れているのはマトウカリヤさんの手である。
私は汗だくの瞼を一度自分の手の甲でぬぐってからにっこりと笑った。


「はい?」
「あ、起きた。あんまり休むと日が暮れるぞ」
「はい」


はい。はい。手が離れる。上身体を起こす。折れた顔との距離が近くなる。
私の額から流れ出す汗を見てマトウカリヤさんはしゃがんだまま聞いてきた。


「暑いのか?」
「うん」


無表情のまま、男は右手を伸ばす。
私より大きくて平たい掌は私の頬をすっぽり包んだ。


「冷たいだろ」
「冷たい、水みたいだ」


その手の上に自分の手を重ねて私はもう一度目を閉じてみる。暗いのに、マトウカリヤさんの手はちゃんとそばにあってそれが嬉しいのだろう。胸がどくんどくんと鳴っている。
燃え上がる太陽が容赦なく私を焦がし、マトウカリヤさんをも熱するなか私は数分程そのままでいてマトウカリヤさんも動かず私を待っていた。


「マトウカリヤさんはあついのが嫌いなのかまぶしいのが嫌いなのかよくわからないね」


次に目を開けてまた向日葵と向き合って今度こそかごを向日葵の種でいっぱいにしたので家に戻ろうとしたらマトウカリヤさんが一本黄色くまだ元気な向日葵を抱っこしていたので私はそう皮肉ってやった。そんな皮肉は簡単に無視されてしまいマトウカリヤさんはよく見る無表情のまま葵さんにあげるんだと言った。葵さん。よく聞く単語である。マトウカリヤさんはどうも愛妻家であるらしい。
ちなみに向日葵の花言葉はあなただけを見つめているだ。確か。ロマンチストである。


「……あの神父は種なんか集めてどうするんだろうな」
「世界中のハムスターにあげるのでは」
「それはないだろ、あの神父がそんなメルヘン思考を持ち合わせているわけがない」
「どうして?神父様の息子なのに?」


マトウカリヤさんは立ち止まる。彼の肩から顔を出した向日葵が揺れる。


「あいつは信用出来ないよ。何考えてるかわからないしな」


神父様の息子さん。コトミネキレイさん。息子さんに関しては何を考えているかわからないし、何を考えているのかわかることが出来ないのもあるというのを私は心のなかで呟いた。
でもあの神父様が自慢の息子だといっていたのでそれだけは確信していてよろしいはずである。
黄色い道を私達はまた歩き出す。


「神父様に会いたい」
「神父様?」
「息子さんのお父様で、牛にも優しい方でした」
「なんだっけ、撃たれて死んだらしいな」


今年の二月に神父様は何者かに不意討ちされて亡くなってしまわれた。誰が犯人なのか私は知らない。息子さんに教えてくれと頼んだことがあるが息子さんは牛には教えられないと断言したので望みは断たれてしまった。
牛であるからこそ真実から遠退き、こんな時に人間だったらなあと思う瞬間もあるが私は牛としての自分に誇りを持っているのであまりだらだらと文句を抱かないのである。


お家に入る直前、私は意を決した。


「マトウカリヤさん」
「雁夜でいいよ」
「雁夜さん」


振り向いてこっちを黄色く綺麗に咲き誇った向日葵と一緒に見てくる雁夜さんに私は頭を下げた。


「ありがとう」


雁夜さんはどういたしましてとちょっとだけ嬉しそうに返してくれた。


「……名前」


波のない、水面みたいな声で私の名前は呼ばれた。
麻婆豆腐を口いっぱいに詰め込んだまま見上げる。そうすると黒い神父服がまず見えた。
夕飯を食べる頬を両手で挟まれる。


「顔色がよくなった」
「マシュマロだけでなく、同志をも食べていますから」
「お前は、いや」


手が、離れる。私と少し距離を置いて息子さんは不思議な目で私をじっくり射る。的の中心を狙う矢の先みたいな視線にさすがの私も眉をひそめる。


「……すまない」
「変な息子さん」


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