"私がご飯をもりもりと食べ初めてからもう三日が経ちました。息子さんに牛がのっても壊れない体重計なるものにのるのをおすすめされてから毎日きちんとのるようにしていますが数値はあまり変わりません"
息子さん曰く私に関しては増えれば増える程よろしいそうだ。しっかり三食食べて牛として肉を豊かにすれば私はちゃんとしたシチューになれる。その約束を何べんも口の中で噛みしめながら朝陽の下を歩く。散歩も良い肉を作るためには必要不可欠な運動だ。


そんな散歩の途中緑の道ばたのはしっこにうずくまっている人間を見つけたので後ろからゆっくり近づいてみる。
パーカーをすっぽり被っているので頭や顔はわからないがなんとなくそのパーカーの色と質感、背中は見覚えがあるので声もかけた。


「……こんにちは」


うずくまったまま男が振り向く。影になった部分から暗い目がゆっくりのぼってきて私の顔を確認後、ほんの少しだけ懐疑心が緩んだのか顔面の硬直がほどけた。男は立ち上がる。


「やあ、こんにちは」
「私太りましたか?」
「全くそうは見えないよ」
「ああそうなんだ」


ところで何をしているのか、聞くと手に持っている大量の草と白い花を私に見せてくれた。千切られた茎に三つ葉が絡まり、青々とした草に埋もれて小振りの花が玉みたいに集まり咲いている。


「これはシロツメクサといって、これを繋ぎあわせて花冠を作るんだ」
「それは食べられるもの?」
「食べられるわけないだろ」


男が言い終える前すでにひとつ、小さくて愛らしい花は男の手から抜き取られ私の口内に放り込まれていた。
柔らかい肉の壁と奥歯に弄ばれて花は磨り潰される。まあ美味しくないなという感想を顔で表現すると男は呆れたように言った。


「食うなよお前……。」


きちがいを見る目がすぐ傍にある。あれに似た目を一瞬だけ思い出したが私を彼方に突き放す程きつい目線でなかったのですぐに消え失せて口のなかにあるものを飲み込む。
動く喉、その向こうから聞き慣れた足音がやってきた。


「名前」
「あ」


名前を呼ばれた。今度は私が振り返る。
巡回中の息子さんが私を見つめている。


「マトウカリヤと仲良くなったのか」


マトウカリヤとはなんだろうと考えて、その単語に反応したある男の名称であることに気づき、私は頷いた。


「はい」


シロツメクサをしっかり握っている彼こそがマトウカリヤさんなのだろう。それにしてもかっこいい氏名である。
息子さんは一瞬妙な顔をしてから薄く微笑んだ。


「な るほど」


良いことでもあったらしい。息子さんの表情が変わる。珍しい。ましてや笑顔などレア物以外の何者でもない。
セロハンみたいな笑顔がマトウカリヤさんに向けられる。


「マトウカリヤ」
「何だよ神父」
「なるべくその子と仲良くしてやってくれ。可哀想な子でな。家族に虐待され自分を牛だと思い込んでいる」


詳細は聞こえない。読み取れない。今息子さんが口に出した言葉の至る箇所に黒線が入っていて私には読み取れない。セロハンのままな息子さんと驚いているマトウカリヤさんがいる。


「家族」


呟くマトウカリヤさん。去るセロハン。立ちすくむ私とマトウカリヤさんを残して帰っていく息子さん。
続く道の真ん中から端に寄り、マトウカリヤさんは居心地悪そうに右目を動かした。


「お前、家族は?」
「お母さんとお父さんとおじいちゃんとおばあちゃんが」
「全員牛なのか?」
「牛は私だけ」


そう、牛は私だけなのだ。


「私は頭が悪いのと尻が軽いのでその罰として私だけは牛になったから」


一分以内に許してくださいを千回言うこと、熱した鉄で出来た靴をはいて踊ることなどの家族との約束に間に合わなかった私は家族からの忠告どおり悪魔に牛にされてしまった。
私が牛になってからも良心的な家族は私を娘扱いしてくださり私は良い家族に恵まれたものだと今でも感謝をしている。その辺の話をするとマトウカリヤさんの顔の上に線が一本増えた。


「お前……いいや。君は女の子だったのか……。というかその年でビッチだなんて。自分を大切にしろよ。葵さんを見習ってさ」
「おばあちゃんにも多分ほぼ同じことを言われたよ。おじいちゃんとお父さんは我々も悪魔に含まれるのかあははって裏庭で笑ってたけど」
「は?」


人間は悪魔にはなれない。善も悪も両方なくせないからこその人である。私はアホだから詳しいことはよく知らないが私の父も祖父も絶対悪魔でなかった。本物の悪魔はもっと冷酷で、おばあちゃん曰く私によく似た生き物のことである。お前が自分を大切にしないから悪魔に憑かれたのだ。弱い心を犯して弱った身体はよってたかって食べられる。その繰り返し。私の回想を断ち切るようマトウカリヤさんはすっとんきょうな声をあげた。


「まさか君、ジジイと父親に!?」
「牛だから仕方ない。嫌なことは嫌だって言ってはいけないのですよー。死にたくないなら対価を払わないと」
「…………。」


私の目はどこにも向いてない。どこか別の時間軸を巡ってなんとか思い返さないようにしているらしい。なんとなく全部見てしまったらまた戻ってしまうような気がする。何に戻るのか?知らない。今はうまいこと私の口と下半身にモザイクがかかっているし痛覚も遮断しているので向こうの私がどんなになってもここまで届かないのである。ギリという音がして、マトウカリヤさんの唇から血が一滴落ちる。シロツメクサの花がひとつだけ赤くなり、マトウカリヤさんの唇に食い込んでいた犬歯は離れる。とても痛そうであるが私は何もしなかった。そのうち彼は舌で傷ついた唇を拭う。私などが手を出さずとも人間様は私と違って賢いので大丈夫なのだ。
黄色い太陽が私の頭を熱するなか私の耳元をあげはちょうが掠めて先へ飛んでいく。


「あ」


野原を美しい虎が駆けていこうとする。しかし美しい虎はよく目立つ自慢の羽のせいで葉の影に隠れ潜んでいた捕食者にやすやすと捕まってしまった。手を伸ばせば届く場所にて小さな棘のついた鎌が柔らかな羽に食い込み、ばたつく本体の首にかまきりは顔を埋める。大きな目は忙しなく動き回り、触覚が左右に振られている。食い千切る。本体の頭が折れて、切り離された胴体からかまきりが食べられない部分、不必要な羽が落ちる。いよいよかまきりが胴体に手をつけようとしたところでかまきりは潰れた。袖口から飛び出した細い、骨と皮で出来た手が容赦なくかまきりを掴んで締め上げて潰している。指の間から薄い緑色の羽が飛び出し、黒い油のような体液がぼたぼたとこぼれ落ち彼の手を汚す。隙まみれであった捕食者は突然の来訪者に対応出来ず儚い命を散らしたのである。マトウカリヤさんは今しがた殺したかまきりの残骸をその辺に投げ捨てた。かまきりと蝶であったものは夏の原っぱの中へ消え失せてしまう。
息を切らして目を白黒させているマトウカリヤさんを放っておいたまま、私は唯一葉の上に残った蝶の羽根を指で拾い上げた。


太陽に透かせば生前の煌めきが甦る。夏の空を彩り、見るものの目に喜びと悲しみ、時には恐怖を植え込むそれを掌でそっと包み閉じ込める。私は祈った。どうか今は殺さないで。マトウカリヤさんは多分このあげはちょうを守りたかったのだ。救いたかったのだ。どうにかしたかったのだ。だから。どうか。その代わりに。元に戻れ。


祈る。何に。とにかく祈る。いつも祈れば命だけは助けてもらえる。私はそれをよく知っている。熱い日差しが私の首を焼く。マトウカリヤさんがこわばった顔で私を見ている。滲み出た汗が下にある三つ葉におちる。


聞いてもらえた気がして、手を開くと私の手から繋がった羽が羽ばたいていった。マトウカリヤさんが望んだ通りにあちらこちらをひらひら飛んで、こちらに戻ってくる。
一応元気に飛んでいるそれにマトウカリヤさんはとても恐ろしいものでも見たような声を出しておそるおそる口をあけた。


「……君は何者だ?」
「牛ですよ」


即答を合図にマトウカリヤさんの足元すぐに羽が落下した。落ちた羽にはごくわずかに蝶だったものの肉片がこびりついている。それをきちんと知っていたのか、連なるシロツメクサの葉の下からたくさんの蟻が這い出してきてく群がり始めた。マトウカリヤさんの手からつまれたばかりのシロツメクサの葉や茎、花も落ちる。私はそれにも蟻がたかっていたのを知っていたし、もしかしたら蟻ごと食べてしまったかもしれないのもよくよく理解していた。
己とは別の力で動かされる羽を見下ろす。


「ああなったらどうあがいても逃れられないんですよねぇ」


私は悪魔様の加護で縫い合わせることは出来るけど、待ち構える運命を変えることは出来ないのである。
マトウカリヤさんが私の隣でごくりと喉を鳴らした。


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