ぼちゃんと、飛び込みました。柔らかい水はわたしとセシルさんの体を容易に受け止めて、優しく包み込みます。予想に反して暖かく、つまんでいた鼻を解放しても普通に呼吸が出来ました。鼻孔に水が進入することも、制服が水で重くなることもない、不思議なプールでわたし達はゆっくり降下していきます。途中セシルさんと繋いでいる手のすぐ近くをニンテンドーDSが泳いでいきました。何だか名前ちゃんらしい光景でした。


ずっと沈んでいくうちに金属音が鳴り響き始めます。全ての歌を拒絶し、破壊するその音にわたしとセシルさんの表情は曇りました。いざとなれば歌おうと思っていたのをたった今封じられてしまいました。


底に足がつき、わたしとセシルさんはまず周囲を見渡しました。ニンテンドーDSに混じって白いハンカチが頭上で泳いでいて、視界にはピンクと紫の混じった靄がかかっています。


とても大きなテーブルが少し進んだ場所にあって、そのテーブルの上にはたくさん大小様々のケーキが並べられていました。食欲を無くすような青いケーキがあると思えば、その横には普通の美味しそうなショートケーキがあって、種類はともかくどのケーキにも赤文字でeat meと書いてありました。食べろと書いてあるのだから食べた方がいいのでしょう、手を伸ばしたわたしをセシルさんが止めました。


何があってもテーブルの上のものには手を出してはいけないそうです。


とてもとても大きなテーブルですが、椅子は二つしか今のところ見かけていません。セシルさんに連れられて先に進み、ついにテーブルの末端に着くとようやく人が椅子に座っていました。白い素敵なドレスを着た女の子でしょうか?顔はわからないけどもりもりケーキを食べています。


「名前ちゃん?」


女の子がいる場所だけとても暗いし、制服ではないのでわかりませんが何となく名前ちゃんかな?と思って声をかけると女の子は食べるのをやめてわたしを見ました。


「七海?」


名前ちゃんの声です。無事のようです。セシルさんの前に一歩出て、涙を堪えて返事をする前に女の子の手からフォークが落ちました。テーブルの隅でフォークが跳ねて女の子が立ち上がった拍子に椅子が倒れます。


「私よ私私なのよ七海私を見て私を見て私を見て」


ガラスのヒールが、底を踏み潰しながらやってきてわたしの前で止まりました。
女の子は両手で頬を押さえてくねくねとしています。


「いいなのくたいちにしだたしぬたいほどすきい」

「あの・・・。」

「あなたの全てを私にちょうだい」


高く積み上げていたケーキが一個落ちて、わたしの足元でぐちゃぐちゃに潰れてしまいました。
それに気を取られているうちに手を女の子に掴まれました。


「名前ちゃん!?」


女の子の顔は、まだわかりません。


「私を食べて私を愛して私を好きになって私と話して私を飼い殺して私の傍にいて」


確か名前ちゃんは怪我をしています。聖川様の隙を作るために奮闘していた名前ちゃんは割れた花瓶の破片で手にぱっくり傷を作り、その上に大きな絆創膏を貼っていました。今目の前にいる女の子には、それがあります。


「ね」


その時ぱっと、わたしと女の子の頭上が明るくなりました。


「だから私を見て」


真っ直ぐ直視した女の子の顔は、昔お家でよく遊んでいたリカちゃん人形そのままでした。きらきらの瞳のなかには小さな青い光があり、睫毛も長く、でも髪の色や体は名前ちゃんで、リカちゃん人形の顔を名前ちゃんの体に無理矢理嵌め込んだような歪な女の子にわたしは絶叫しました。
口の回りについている赤いクリームが血のようで、女の子から顔を逸らして発狂するわたしに女の子は詰め寄ります。


「大丈夫よ私が守るからだから私を見て」

「離し・・・!」

「ずっとずっと尊敬しているからだから私を見て」


絆創膏の貼られた掌が強くわたしの手を圧迫します。恐怖でどうにかなりそうになった時、セシルさんが女の子の手にフォークの先端を振り落としました。
それが名前ちゃんの手に突き刺さる前にわたしと女の子の手は離れて、次の瞬間セシルさんは女の子に思いっきり蹴飛ばされていました。

お腹に入った蹴りはセシルさんを底に叩きつけます。女の子はその後をすぐに追いかけてセシルさんの上に何回も踵を落としました。


「邪魔しない帰れ邪魔しないで死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえセ逃げて死んじゃえ」


ずっと流れている金属音で何と言っているのかわかりません。早くセシルさんを助けにいかなくてはいけないのにわたしの身体は震えるばかりで動いてくれません。
魔法を使う隙もなく頭を庇うセシルさんを容赦なく蹴る女の子の手には何度見ても絆創膏があって、わたしの瞳から涙が零れました。考えが甘かった。名前ちゃんはとても強い子なのです。
名前ちゃんは優しい子だからと、期待していたのを誰が否定出来るでしょうか。


セシルさんを蹴り続ける女の子は絆創膏を貼っていない方の手でずっとフォークを弄んでいます。
弄びながらセシルさんの髪を乱暴に掴んで、彼をテーブルの上に投げました。


先程まで食べていたケーキがセシルさんの背中で潰れて、お皿に乗せられたセシルさんは健在だったケーキの代わりのようで。動けないセシルさんを女の子が組み敷いて。フォークがセシルさんの目のなかできらきらと光っていて。


「連れていかないであっちに行って逃げて置いていけ全部頂戴邪魔しないで死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ」


「名前ちゃんやめて!」


食べられてしまう。そうなる前にわたしは名前ちゃんの足にすがり付きました。
彼はケーキではありません、わたしの大切な人です。


「逃げて死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ」

「お願いだから」


ガラスの冷たい靴にお腹を押し付けてわたしは必死に懇願しました。
女の子はわたしを見ていません。ぶつぶつ金属音と何かを呟きながら振り上げたフォークが、


「・・・春歌は」

「逃げ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ死んじゃえ殺してやる」

「アナタを」

「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺して逃やる」

「アナタを友達だから助けると。だから」


言葉を紡ぐセシルさんの目を、


「逃げない」


貫く。テーブルが大いに揺れて、大粒の涙が名前ちゃんの足を滑りました。間に合わなかった。
名前ちゃんの足から、ガラスの靴が抜けてぐすぐすと泣くわたしの横に落下しました。


いつのまにか金属音は止んでいてテーブルの上も静まりかえっています。女の子はまだセシルさんの上から降りていません。
見上げた先で確認出来たセシルさんの手はまだ動いていて軽く拳を握っていました。


「絶対アナタを連れて帰る」


セシルさんは体を起こしてフォークをテーブルに突き刺して固まっている女の子をしっかり見つめました。鼻血を出している以外特に外傷の見られません。
ただ鼻血を流しながらにっこりと微笑んでいました。


「歌が完成しました。皆でサタンを封印しましょう」


女の子はまだ動きません。


「マサトだってアナタを待っている」



女の子は暫くの間セシルさんを見たままでしたが、少し間が空いた後、太ももに回していたわたしの手をそっと離しセシルさんの上から降りてぺたんと底に足をつけました。


わたしに背を向けて女の子はガラスの靴を拾い上げます。桃色と紫に染まった半透明の靴は上から射し込む光できらきらと光っていてとても素敵なものでした。


「・・・七海もセシルも馬鹿ね」


お人形さんではない、いつもの名前ちゃんの口調です。


「こっちはもうどこもかしこも壊れてんだからそんなこと言われたところで駄目よ」


名前ちゃんはそう言って、ガラスの靴を自分の足に嵌めました。ぴったりのその靴は何だか足枷のようにも感じました。
それでも背筋を伸ばして立っている名前ちゃんを見るわたし達に彼女は振り向かないまま、


「早く行けば?」

「えっ」

「今なら大丈夫」


上を泳いでいた白いハンカチを捕まえて、わたしの方に投げます。
それを受け取りセシルさんに手渡せばセシルさんはそれで鼻を押さえました。


「七海連れて上にあがるって本気で思ったら絶対成功する」

「アナタは?」

「私は後で行くから」


名前ちゃんはこちらを見ません。
わたしはセシルさんの傍から離れて名前ちゃんの背中の後ろに立ちました。白いドレスの裾がクラゲのようにふわふわと揺れています。


「名前ちゃん」

「何?」


名前ちゃんはわたしを見てくれないまま返事をしました。
彼女の背中に手を伸ばすと届かないように一歩離れてしまいます。手を伸ばすのは諦めて、わたしは名前ちゃんのドレスを握り締めました。ふわふわのドレスは掴むとすぐに千切れてしまいそうでしたがわたしは止めませんでした。


「一緒に」

「駄目よ、私今人間じゃないから」


反論しようとした言葉をなお名前ちゃんは否定します。


「すごいブスだから今の私」

「それでも」


顔の良し悪しなんて関係ありません。身分の差だってどうでもいい。
わたしと名前ちゃんはお友達です。何人たりとも邪魔の出来ない繋がりです。名前ちゃんが名前ちゃんである限り、わたしはこんなところにお友達を残してはいけない。
ドレスの裾がわたしの手から抜け出しました。


「ねえ七海」


名前ちゃんがそっとわたしの目を手で覆い隠します。


「サタン封印したら海に行きましょう、渋谷とか聖川とか一十木とか四ノ宮とかあとそいつと先生連れて皆で」

「・・・神宮寺さんも一ノ瀬さんも翔くんも皆誘いましょう」

「バナナボート?そういうの乗りたい」

「うん」

「だから絶対サタン封印してね」


首を横に振るわたしの瞳から涙がまた流れ始めました。わたしの役に立たない涙は名前ちゃんの絆創膏に滲みます。


「こんなことしか言えないや」

「いいよ!それでもいいから傍に」


目の前にある手を掴もうとしたら肩を強く押されてしまいました。後ろに倒れそうになったわたしをセシルさんが受け止めてしっかり抱き締めます。


「じゃあね七海、セシル早く行って。私怒るよ」


いつもなら嬉しいかもしれません。でも今は駄目。名前ちゃんをここから連れ出さないと名前ちゃんは消えてしまう。大切なお友達が消えてしまう。名前ちゃんが消えたらわたしが音楽を守る意味だってなくなってしまう。友ちゃんだって泣く。暴れるわたしをセシルさんはしっかり抱き抱えてどんどん上にあがってしまいます。


もう届くわけもないのに手を必死に伸ばして、指の隙間から見えた名前ちゃんはリカちゃん人形では勝てない、見たことないぐらいとても綺麗なお姫様みたいに微笑んで手をぱたぱたと左右に振っていました。



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