novel

top >> 今宵闇に散ろうとも



某御方に賄賂として贈ったブツです。
自分の趣味全開過ぎて眩しい(いろんな意味で)
モジュール設定のあいすおちゃんです。

大丈夫な方のみどうぞ!


・・・・・






月の明かりに憑かれたのは、誰の影でしょう。
貴女の影でしょうか、それとも僕の影でしょうか?

何度考えても解かりません。けれど、それでも僕は月を見るたびにこの問いを考えています。
誰にもわからない問いを、今も僕は繰り返しています。
答えのないこの問いを、僕は今も繰り返しています。

貴女が忘れてしまっても、僕は考え続けているのでしょう。
どちらが先に憑かれたのか。どちらかは未だ憑かれていないのか。
それとも、どちらとも既に月の明かりに憑かれてしまっているのか。
貴女と僕が、僕と貴女が。もう、どちらとも。


嗚呼、もしそうならば。僕は、僕は。





・・・・今宵、闇にろうとも




「てっちゃーん!」


僕の一日は蘇芳ののびやかに響く声と共に朝を迎えます。
目を覚ますのは、残念ながら蘇芳の声ではありません。何故なら僕は蘇芳の朝ごはんを用意しなければいけませんから。
それでも、僕の一日はまだ始まっていないので問題は無いのです。
僕の一日がはじまるのは蘇芳の声を聞いてからです。その前は…そうですね、蘇芳が一日を思い切り過ごせる為の準備の時間ということにでもして貰いましょうか。


「あうう、やっぱりもう起きてるっ」
「はいはい、お早うございます、蘇芳」


僕がいつものように台所で朝ごはんの支度をしていると、蘇芳はそこへひょこりと顔を現しに来ます。
蘇芳の訪れた気配に振り向くと、蘇芳は今日も悔しそうな表情を浮かべていました。
どうやら、最近蘇芳は僕より早く起きようと必死に努力をしているようなのです。
そんなこと、する必要もないのですけれどねぇ。まぁ、悔しげな蘇芳は大変可愛らしいのですが。
先日蘇芳がお友達の御家からお借りしてきた本にのっていたそうです。
「女性が男性のために朝早く起きて準備をするのがよい」だとか、「男性を優しい声で女性が起こすと、男性は一日を張り切っておくれる」だとか。まぁ、沢山。
僕にはいまいちよく理解できなかったのですが、蘇芳はその言葉に影響を受けてしまったみたいで。

前まではご飯が出来る時間に目覚めていた蘇芳も、今ではご飯の前に台所へとやってくるようになりました。
…たかが本如きに影響されるなんて、蘇芳は本当に素直というか。なんといいますか。
僕としては、蘇芳のためにご飯をつくるのは幸福以外の何物でもないのですけれど。
まぁ確かに蘇芳の声で目を覚ますことが出来るなら、それは本当に本当に本当にしあわせでしかたがないことでしょうが。
起こして貰うということは、彼女の手を煩わせてしまうということです。そして、彼女に態々僕の部屋へと訪れてもらわなければいけない、ということです。
いいですか、態々、彼女が僕の部屋を訪れてくれるのです。しかも、朝、朝です。そんなこと…僕には耐えられるはずがありません!
だから、僕は今のままで全く構わないのですが。
そこは蘇芳です。一度こうと決めたことは、彼女は意地でも曲げません。誰の言葉でも。
今日で一週間たちましたから、そろそろ飽きるころではないかと予想しているのですが。さて、どうなることやら。


「あっ今日のお味噌汁はお豆腐と大根なのね!」
「ええ、あと油揚げも入っていますよ」
「わーい!もうよそっっていーい?」
「そうですね。ではお椀を」
「うん!」


おっと、いつのまにか蘇芳が台所の前から僕の元へと近づいていたようです。
後ろから覗き込み、御味噌汁の具に歓声を上げる蘇芳。はしたなくは有りますが、まだ朝です、大目に見ましょう。
それに御味噌汁の具でそんな嬉しそうな声をあげられてしまったら…いけませんね、何故か僕まで嬉しくなってしまいます。
お椀をとりに棚へと駆け寄る蘇芳の後姿を見送ってから、よし、そろそろ火を止めてもよいでしょう。
それに蘇芳が近くにいるときに無暗に火を使っていたら危険ですし。ああ、蘇芳は料理は上手なのですが、少しばかり注意力が足らない時があるのです。一度彼女のしろい指先に細く揺らめいていた薄赤色の触れてしまったときは…一瞬の間で手を離したことにより赤く爛れずにはすみましたが。あれは本当にもう、寿命が縮まるかと思いました。本当に。

…今でも思い出しただけで嫌な汗がつたってしまいます。さっさとご飯の支度を進めましょう。
最近は蘇芳が早く起きてしまうようになったので、準備はとても滑らかにおくれるようになりました。
ああ、これをいうと蘇芳が早起きを続けようと張り切ってしまいますから内緒ですけれどね。


「てっちゃん!もってきたよ」
「有難うございます。では、」
「私がよそう!だからてっちゃんは準備をしてて」


お椀をとって帰ってきた蘇芳はにっこりと微笑み、僕に手を差し出してきました。
これはつまり、お玉を渡せということでしょうか。御味噌汁をよそうために、僕の仕事を減らそうと。
蘇芳はきっと僕の為を思って言ってくれているのでしょう。僕には痛いほどわかります。彼女の言動に他意は含まれてなどいないのでろうと。
しかし、…浮かんでしまうのです。彼女が怪我をしてしまったときの様子が。
彼女のそのまっしろなすべすべとした肌に、薄赤色の火の柱がひりつくその様子を思い出してしまうのです。ぼんやりと仄かに揺らめきやさしくお鍋を温めていただけの火が、彼女の指先に触れるか触れないかまでに近づいた瞬間、その火は彼女の指へ纏わりつき染みひとつない指先へぬめりと襲い掛かる恐ろしい凶器と化した瞬間を。
嫌になるほど鮮明に、思い出してしまうのです。


「てっちゃん?」


思い出して、しまうのです。
固まってしまった僕の目の前で、手を差し出したままきょとんと首をかしげる蘇芳。
僕へと差し出された手が所在なさげに揺れています。蘇芳は、お玉を欲しているのです。ただそれだけなのです。
ああ、でも、だけれど。…ッ!


「い!いけません!!御味噌汁は、御味噌汁だけは!」
「て、てっちゃん?」


思わず叫んでしまった僕を、蘇芳は元から大きな瞳をさらに真ん丸に見開いてみつめています。
そりゃあ、きっと可笑しいと思うでしょう。変だと思うでしょう。訳が分からないと、そう思うでしょう。
でも、駄目なのです。思い出してしまうのです。
彼女の白く美しい指先を、舐めるように蹂躙しかけた火のことを。そして彼女の指に消えない痕を残しかけた出来事を。
赦せるはずがありましょうか!彼女に、彼女の体に痕を残そうとしたしてしまったものなど。そしてそれを防ぎきれなかった僕自身を!


「そのっその!す、すすすおうにはお浸しを取り分けるのをお願いしても宜しいですか?!」
「てっちゃん、どうしたのー?」
「いえ、その。その…ッ」


自分で様子がおかしいと重々自覚しているだけに、変に慌ててしまい口がうまく回りません。
ああ、なんだか変な汗もかいてきたように思えます。妙に疲れたようにも感じます。
そんな僕の様子をみて何かを感じ取ってくれたのでしょうか。
蘇芳はまじまじと僕を見つめると、ふわりと衣の裾を翻しながらおひたしの置いてあったまな板のところへと向きを変えました。


「むぅ。わかったー。」
「有難うございます、有難うございます…」
「てっちゃんったら朝から元気だねぇ」


少々口を尖らせてはいますが、蘇芳も怒ったりはしていないようです。
本当に、本当によかった…。心の底から安堵のため息をついていると、蘇芳がくるりとこちらへ振り向いて笑いました。
ああ!蘇芳ってば、御台所にいるときは手元をきちんとみていなければいけないと何度もいっているというのに!
ハラハラと蘇芳の様子を見守りながら、僕こそもっと早起きを心がけようと心に決めました。



・・・・



「いただきます!」
「はい、召し上がれ」


朝ごはんの準備は僕がしますが、ご飯を食べるのは一緒です。それは僕ら二人が生まれた時からずっと変わらない約束事なのです。
ですから、どちらか一方が仕事の時でも僕らは一緒にご飯を食べます。お互いが収録の時くらいしか朝顔を見合わせない、と青さんがお話になったとき僕は吃驚してしまいました。そんな僕の様子に、青さんも驚いてはいましたが。
そもそも蘇芳と僕は毎朝起きる時間に変化は有りません。ああ、最近の蘇芳は早起きさんですが。そのようなことを除けば、僕らはいつも同じ時間に起きています。いえ、起きてしまうのです。
これは何処の御家でも同じものだと思い込んでいたのですが…色々な方がいらっしゃるのでしょう。


「うみゅー!やっぱり御味噌汁に油揚げが入っていると豪華だね!」


蘇芳がにこにこと嬉しそうに御味噌汁の入ったお椀に口をつけています。
ああ忘れていました。今日の朝ごはんは、ほうれんそうのお浸しに昨日からことことと煮詰めて味のしみたきんぴらごぼう。先ほどの大根とお豆腐と油揚げの御味噌汁、そして脂ののった塩じゃけにたいたばかりのご飯です。
好き嫌いなく、均等にを頭に置いてごはんの献立を考えるようにしています。
蘇芳は本当に好き嫌いなくなんでもおいしそうに食べてくれるので、作りすぎてしまうのがすこし盲点ですけれど。
しかし油揚げで豪華とは、こんどもっと豪華なごはんを作った方が良いかもしれませんねぇ。


「そうですかねぇ」
「そうよー!毎日油揚げの御味噌汁でもいいなぁ」
「それではきっと飽きてしまいますよ」


うっとりと御味噌汁を片手に呟く蘇芳に、僕は思わず苦笑を零してしまいました。



「御馳走様でした!」
「はい、お粗末さまでした」


二人で頭を下げ、朝ごはんの時間を終えました。大体いつもと同じ時間です。蘇芳のお仕事の時間までもまだあります。
お椀を重ねていると、蘇芳がお盆を持ってきてくれました。
ご飯の後は、たいてい二人で一緒に後片付けをします。水洗いは僕はあまり蘇芳にしてほしくは無いのですが。
だって考えても見てください。蘇芳のやわらかく繊細な肌に長時間冷たい水を晒し続けてしまうことを。彼女の細く形の整った指先が、冷たさで赤く染まってしまう様子を!ああ、僕にはそんなことをしてほしくはありません。

しかし蘇芳も負けてはおりません。なんと蘇芳は同じことを僕に意見してくるのです。てっちゃんの指ばかりが可哀想だと。私だってきちんと仕事をしたいのだと。
涙目で言われてしまっては、僕に勝てるすべなどありません。そんな理由もございまして、今では僕と蘇芳は共にお皿洗いをしているのです。


「今日ね!クロちゃんとの収録なのー!」
「おや、黒さんですか。くれぐれも粗相のないように」
「はーい。もー大丈夫だよぅ!」


お皿洗いをするときは、水の音とお皿の音が邪魔をしてしまい蘇芳の声が聞こえにくくなってしまいます。
それは蘇芳も同じことでしょうに、彼女はぴっとりと体を寄せて楽しそうに話をしてくれます。
蘇芳のおかげでこのご飯の後のお皿洗いが僕の密かな楽しみになったことは、誰にも、勿論蘇芳にも言えない僕の秘密です。


お皿洗いも終わると、あとは水洗いを終えたお椀たちから水気を丁寧にふき取ります。
ああそんなことをしているうちに、蘇芳はお仕事の時間が迫ってしまいました。
いつもならもっとゆっくりなのですが仕方がありません。今日は黒さんとご一緒ということで、蘇芳は黒さん青さんのお宅へお迎えに行くのです。
朝の弱い二人組のために考え出した僕たちの必死の案は、最初こそは遠慮されましたが今では習慣になりつつあります。


「いってきまーっす!」
「いってらっしゃい」


本日は、蘇芳だけがお仕事が入っており、僕は何もない、所謂ふりぃの日です。
朝から今までずっと元気いっぱいだった蘇芳を送り出して、お茶をいれ直しでもしましょうと居間へと足を進めました。
するとどうしてでしょう。なんだか、足の進みが遅く感じてしまうのです。
今日は朝から具合が悪いとは感じませんでした。
蘇芳の指先の危機は在りましたが、それ以外はいつも通り。蘇芳とご飯を食べて、蘇芳を送り出しました。
はて、どうしたのでしょう。


「…なんだか、部屋が静かすぎますねぇ」


ぽつりと零れた僕の声が、やけに大きく、そして空しく部屋の中へと響きました。
ああ、どうしましょう。やらなければいけないことはたくさんあるのに。
お洗濯に、お皿洗いに、お掃除に。ああ、お仕事で疲れ手帰ってくるであろう蘇芳の睡眠のために、お布団も干したいですね。
そうだお皿は…蘇芳が一緒に洗ってくれたんでしたっけ。
ああ、どうしてでしょう。
最近忙しかったからでしょうか?何もする気が起きないなんて、なんて脆弱な僕なんでしょうか。

ゆるゆると瞼を閉じると、あの光景がちろりちろりと浮かび上がってきました。
これは、なんの光景でしょう?この光景のせいで、僕はこんなに気の抜けたようになってしまっているのでしょうか。
その光景をより鮮明に思い浮かべようと、僕はきつくきつく目を閉じました
そして、思い出しました。

あの満月の夜の日の光景です、と。



・・・・



あれはいつの日のことだったでしょう。
ほんの数日前のことだったような気もするし、随分と前のことだったようにも思えます。
久々にふたり揃っての収録の日で、蘇芳がとても喜んでいたのを覚えています。
その収録の帰り道、収録が長引いてしまい帰るころにはとっぷりと日が暮れいました。真っ暗闇と称するほど暗くは無いけれど明るくはない、そんな暗がりの中を僕らはゆっくりと歩いていたのです。
粘度のあまりないさらさらとした闇、その夜の暗闇はそう称するのが一番適していたのではないでしょうか。

そんな暗闇の中を、蘇芳と僕は歩いていました。時折今日あった出来事について話しながら、笑い声をあげながら。蘇芳も僕もいつもと変わらない様子だったと思います。けれど、もしかしたら少し異なっていたかもしれません。
その日のお月様が、あまりにも美しかったから。

その日の夜空は雲が多く揺蕩っていました。もわりとした夏特有のの雲ではなく、薄く空全体を覆う雲が。そしてまんまるに輝く満月をやさしくやさしく包み込むように、雲は空に揺蕩っていました。
知っていますか?あの、真夜中ほど遅くはなく、夕方ほど早くもない時間帯のお月様を。ご覧になったことがありますか?あの、掴めてしまいそうなほど近くに堕ちてきているお月様を。
手を伸ばせば届きそうなお月様が、その日の空には浮かんでいました。でも、くっきりと光ってはいませんでした。薄い雲に抱かれて、ぼんやりぼんやりとお月様は僕らを照らしてくれていました。
あのときの月のひかりが、きっとなにかおまじないをかけたのです。ぼくらに。もしくは僕に。


「てっちゃん、しってる?」


確か、蘇芳はそう僕に問いかけてきたんだと思います。
そのときはふたりで歩きながら月を眺めていた時です。綺麗だねと言い合って、いつのまにか蘇芳が静かになっていて。どうしたのかなと思っていたら、唐突に口を開いたのです。


「このお月様もね、夜が終わると消えちゃうんだよ」


こおんな綺麗なお月様なのに、朝が来ると消えちゃうの。今はこんなにひかっているのに、朝になるとお月様はどこにもいなくなっちゃう。
蘇芳は何度も小さく呟いていました。夜が終わると、消えちゃうの、と。
どうしてそう言いだしたのか、僕にはさっぱりわかりませんでした。いつものことです。頭の固い僕には、柔軟な頭を持つ蘇芳の考えにはいつもいつもついていけません。でも、だからこそ僕は沢山の発見を蘇芳に貰うことが出来ます。蘇芳のおかげで、たくさんの扉を開くことが出来るのです。
ああ、だから。今回も蘇芳のせいなのかもしれません。彼女が、僕に新しいことを手渡してきたのかもしれません。


「でも、また夜が来ればお月様にお会いできますよ。何度も何度も、夜になれば」


僕はこんなことを蘇芳に返しました。ありきたりな返答過ぎて今思い出しても恥ずかしいですね。
僕は頭が固いですし、それは仕様がないと思っています。けれども、こんなときばかりは気の利いたことの一つも口に出せる人になりたいと良く願います。
蘇芳もそんな僕に呆れていたのでしょうか。いつのまにか僕より数歩前を歩いていた蘇芳は、僕の言葉にぴたりと立ち止まりました。
そしてくるりと軽やかに体の向きを変え、僕の方へと振り向きました。暗闇の中で、僕の色をもつ彼女の帯がひらりと円を描いて僕の前から消えてゆきました。
そして、僕をじっとみつめる蘇芳の顔。
お月様によって逆光となり、蘇芳の表情がどうなっているのか上手く読み取ることが出来ませんでした。


「ねぇてっちゃん。もし、もしもね」


其処まで口にして、蘇芳は一度迷ったように口をつぐみました。
そして流れる静かな薄闇。さらさら流れ落ちる様と形容したくなるようなそんな闇。その中で、僕は蘇芳の言葉を待っていました。
いつのまにか、僕の足も歩くことを止めていました。


「私がみえなくなっちゃったら、どうする?」
「なっ?!」
「もし、もしもよ。もしもの話。もし私がてっちゃんの前からいなくなったら」


てっちゃんは私のことを、忘れないでくれるかなぁ。
小さく小さく、蘇芳は呟きました。そう呟いて、ふにゃりと顔をゆがめました。
あれはもしかしたら笑顔だったのかもしれません。僕があまりに怖い顔をしていたから、言葉もなく蘇芳を見つめ続けていたから。だから取り成すようにほほ笑んだつまりだったのかもしれません。

それくらいに、僕に蘇芳の言葉は衝撃でした。
蘇芳が見えなってしまう?蘇芳が消えてしまう?蘇芳が、僕の元から、消えてしまう?
考えたくもない。それが一番正直な気持ちでした。考えたくもない、想像したくもない。蘇芳がいない世界など、考えることすら苦痛でしかありませんと。
そんなことを言い出した蘇芳を恨みたくなっていました。それほどに、彼女の言葉は衝撃でした。
どうして蘇芳が突然そんなことを言い出したのか。僕は必死に考えを巡らせました。どうして、どうしてと。
きっと、理由なんてなかったのです。お月様のせいだったのです。


「てっちゃん?」


お月様の、せいだったのです。その日の出来事は、すべて、おつきさまのせい。

僕は無意識に蘇芳へと手を伸ばしていました。彼女の僕の名を呼ぶ声が、あまりに心細げにきこえたからでしょうか。普段はそんなことはないのに、僕は蘇芳の細くすべやかな手をそっと掴んでいました。
いいえ、そっとではなかったかもしれません。ただただ、掴みたいと思ってしまったから。僕は手を伸ばしていたのです、彼女の手を掴んでいたのです。
蘇芳の大きな瞳がいつもより随分近くにありました。蘇芳の手を掴んで、蘇芳の近くに迫って初めて、彼女が泣きそうな顔をしているのに気づきました。今にも泣いてしまいそうな、それを堪える様な。そんな顔をしていました。


「…んて」
「てっちゃん?」
「消えるなんて、赦しません」


絶対絶対、赦しません。
震えそうになる声をなんとか押し出して、僕は間近に迫っていた蘇芳の耳元でささやきました。ささやかずには、いられませんでした。
僕の言葉に、小さく蘇芳は体を震わせました。僕は蘇芳の瞳を覗き込みたいと思いました。彼女の大きな大きな瞳を、じっくりと見つめたいとそう思いました。
でも、出来ませんでした。本当はもっと声に出したかったのに、それも出来ませんでした。
もっともっと近くに迫って、二人の間にあるものを全て排除して、そうして抱きしめたいと思ったのに。僕にはこれ以上体を動かすことはできませんでした。出来なかった。

本当は言いたかったのです、僕に蘇芳のことがみえなくなるなんてありえないと。
本当は言いたかったのです、万が一にでも見えなくなったら、何処までも探しに行くと。見つけるまで探しに行くと。
本当は言いたかったのです、蘇芳が消えるときは、…僕が消えるときなのだと。

だから、そんなことは考えなくていいのだと。そんなことで悲しむ必要など全くないのだと。僕は言いたかったのです。
でも、言えませんでした。出来ませんでした。
僕は言いたいこともしたいことも、何もできませんでした。許さないと言っただけ、彼女の手を掴んだだけ。僕にできたのは、ただそれだけでした。
それだけでした。
それだけなのに、


まだ、あの日のお月様は僕の頭を離れてはくれません。
あの、夜のお月様が。夜の、蘇芳が。
離れてくれないのです。

彼女の声が、彼女の手のひらの感触が。


「…ちゃん!てっちゃん!」


あの月に照らされた、彼女の姿が。


「てっちゃん!」
「!」


突然間近に聞こえた蘇芳の声に我に返ると、予想通りに蘇芳の顔がとても近くにありました。
思わず声も出せずに目を見張ると、蘇芳は安心したようににっこりとほほ笑みを浮かべました。
状況がわからず、僕はゆるりと部屋を見回します。今日は確か蘇芳だけがお仕事の日で、蘇芳をいつものように送り出しました。そうして今へと戻って、お茶を注いで。…どうしたことでしょう。それ以降記憶があやふやとなっています。
覚えているのは、ある考え事をしていたこと。それだけです。


「てっちゃんってばどうしたのー?お部屋全部真っ暗なんだもん!びっくりしたあ!」
「はい…へっ!?」
「?真っ暗よ。あーてっちゃん今日はお洗濯ものしなかったのねー?」


真っ暗?まさかそんな…だって今日僕は一日ふりぃの日で、蘇芳だけがお仕事で。僕は掃除洗濯を済ませてしまいついでにお布団も干してしまおうかと考えていたというのに、のに。
茫然と障子の向うへ視線をやれば、そこには真っ暗な夜が広がっていました。
真っ暗な闇が。あの日の夜のような、そんな闇が。


「蘇芳、」


気づくと、僕は蘇芳の名を口に出していました。
夜を見ると、僕はあの日のことを思いだしてしまいます。あの日の蘇芳を、思い出してしまうのです。
でも、蘇芳はどうなのでしょう?
蘇芳も僕と同じなのでしょうか。それとも、蘇芳は思い出さないのでしょうか。
もしくは、蘇芳は忘れてしまったのでしょうか。あの日ことを、あの日彼女が口の端に乗せた言葉たちを。


「てっちゃんお疲れ?具合悪くない?大丈夫?」


あまりに僕が間抜けな顔で茫然としていたからでしょう。御家の中を見回っていた蘇芳はとことこと僕の元へと近づいてくると、心配そうに僕の顔を覗き込んできました。
ねぇ蘇芳、貴女は覚えていますか。あの日のことを、貴方が自分で呟いた言葉を。
今も僕を悩ませ続けているその言葉を。


「蘇芳」
「なーに?」
「すおう、その…」


もごもごと口を動かすけれど、一向に言いたいことは口から出て行きません。そのときの僕は愚鈍な間抜けとなり果てていました。
蘇芳に聞きたいことがたくさんあるのに、たくさんたくさんある筈なのに。
僕の口は何の役にも立ちません。ただ、彼女の名前を壊れたように繰り返すだけです。
伝えたいと、願っている筈なのに。


「なんでも、ありません」


ああ、やはり僕には出来ませんでした。
今日も僕の口は役に立つことなく終わりました。
本当は伝えたいのに、伝えたいと願っているのに。そんな思いとは裏腹に、僕の口は頼りない笑みを浮かべるばかりです。
貴女に、聞きたいのに。

そんな僕をみつめて、蘇芳はきょとんと瞬きました。そして彼女は口を開きます。


「へんなてっちゃん! 」


くすくすと笑う蘇芳は、いつものあの純粋無垢な蘇芳です。全く変わりない、いつもの彼女です。
ああ、変わったのは僕だけなのでしょうか。変わってしまったのは、僕だけなのでしょうか?
わかりません、僕には僕のことすらわからないのですから。

でも、一つだけ確かなことがあります。僕にも断言できることが一つだけあります。
蘇芳は言いました、忘れないでほしいと。もし自分が消えてしまったとしても、僕に覚えていてほしいのだと。
そんなこと、当たり前なのです。
僕は忘れないでしょう、たとえどんなことがあろうとも。僕自身が消えてしまう時でさえも、蘇芳のことだけは覚えているのでしょう。そして必ず、彼女の元へと戻るのでしょう。























(月明かりが僕を変えた)
(月明かりは君を変えた?)






おわり

・・・・・・


2013/05/23 キョウチクトウ 
2014/04/08 再編集

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