ばさり、外套を翻し、狭く薄暗い通路を行く。一人分の足音だけが広く、その場に響いた。
 S級の犯罪者たちが集うアジトは、今日も陰気臭い。

 立ち止まった場所は見慣れた扉、オイラの城へと続く唯一の入り口、その前。
 自身から漂う戦闘後独特の香――鉄や硝煙、そして血液などが混ざり合った――に、オイラはきゅうと僅かに眉をしかめた。
 任務を終えたばかりの恒例、延々続くような錯覚を起こさせる日常の一瞬だ。

 肩先からぐいと自室に押し入ったオイラは軽く息をつき、ぱたり静かに背後の戸を閉める。

 しかし。


 ――ばんっ、


 間髪を容れずにひどく荒々しい音を立て、乱雑な所作で開け放たれたそこ。
 オイラはくるり、後ろを振り返る。


「………」

「――…旦那」

 オイラの、小さな呼び掛け。それにチィ…と低く舌打ちで反応した赤毛の主は、オイラのパートナー。

 サソリの旦那がこの部屋に来るであろうことをオイラは、ここに立ち返る前から既に分かっていた。


「巫山戯けてんじゃねーぞ」


 旦那は基本、クールだ。
 しかし旦那のそれはオイラが望むものより実際、些か行きすぎたもので。
 オイラはいつも不安な思いに襲われていた。
 それは、次々と訪れる日々を憂いなしではいられない程。自分でさえも時折、馬鹿馬鹿しいと思ってしまうくらいに。
 ひと欠片の睦言も溢さなければ、濃やかな何かがある訳でもない。芸術に関して喧嘩をするのは、最早日常。考えれば考える程にまるで、両想いなはずのこの関係は、オイラの片想いに過ぎないような気がして。


「…あんな奴相手に、殺されそうになりやがって」


 だから、これから与えられるであろうこの罰は好きだった。事実、今日もその為だけに馬鹿をやらかしたようなもの。

 ほら、…もうぞくぞくする。

 ずかずかとこちらとの距離を縮めてくる旦那の瞳は、無。
 伸びてきた手のひらによってオイラは背後へと、粗野な動きで押し倒された。頬の横を掠めてひらり、前方へと靡いた山吹の色は間もなく、柔かな白の波に散らばる。オイラの背中を受け止めたものはベッド。しかしその勢いの所為もあってか、体に走った衝撃は大きい。息に詰まったオイラはひくり、喉を引きつらせ、軽く噎せた。
 こちらを見下ろす旦那の瞳は鋭く、その視線だけでも人を射殺せそうな程に冷たい。――が、なに、死ぬことはない。
 終わり方はいつも同じ。

 そしてオイラはそれに堪らなく――愛を感じるのだった。



 細く美しいその精巧な指先が――する、ぽこりと浮き出たオイラの喉仏をなぞる。しかし次の瞬間、少しも温度のないその手はがしり、オイラの首に掛けられた。
 徐々にそこを締め付けていく圧力。体重をかけ思い切り鷲掴まれたオイラの気管はやがて、いとも容易くその空間を失った。

 上手く息ができない。苦しい。

 だが、こんなものはまだ序章。オイラが待ち望む"そのとき"へと繋がる始まりに過ぎない。
 かつては胸の内でだけひっそりと"それ"を期待していたオイラ、オイラの体はしかし、いつしかそこに至るまでの過程――その苦しさを快感と捉え間違えることが常となっていた。

 とくとくとく。

 期待に、自然と胸が高鳴る。息は勝手に上気し、喘ぎ、眼球の表面は僅かにだが潤った。
 重症だ。

 オイラは今――…欲情している。



 そのとき、ふっ…――と。



 突如としてオイラの耳元に彷彿と蘇ってきたのはある日の、静かに何か宣するような――…そんな旦那の微言。
 何時のことだったかは忘れた。だけど確か、爆死以外の理由で死ぬなら、という話をしていたのだと思う。


『――好きな奴の手によって殺されるってーのが案外、一番良い死に方だと思わねーか?』


 永遠を求める旦那らしからぬそんな言葉に、オイラが驚いたのは一瞬。

 それは、決して旦那が旦那自身に当て嵌め口にした言葉ではなかったのだ。


『もしお前が自爆以外で死ぬようなことがあったとしたら、その原因はオレだ』


 …うん? と。

 言われてぐるり、困惑に首を傾げたオイラの抜け作な姿。それは、そのとき間違いなく、旦那の緋の眼のその中に囚われた状態にあって―――…。




 ふ、と。

 その形の良い唇が薄く、オイラの目の前で開かれる。
 記憶の中の唇の動きと今オイラを締め上げる旦那のそれとが、寸分違わずリンクした。



「お前を殺すのは――この、オレだ」


 …脳髄まで痺れるような、そんな感覚。


 至上の―――愛の言葉だ。


 言われて、オイラは小さく瞬く。こくりと一つ首肯する代わりのつもりだった。
 しかし、相対する頗る付きに美しい緋色の瞳は、それに気づかない。

 オイラの意識を繋ぐのは今、糸のように細い息のみ。しかし、オイラはまだまだ納得しなかった。


 駄目だ、こんなんじゃあ。
 もっと。もっとだ。


 じわじわと興奮を募らせた肺腑の、もっとずっと奥。そこからじくり湧き上がるものは、危険な熱情。
 それに引き摺られた所為だろうか。ぎちぎち、憚りなどまるでない様子で、徐々にオイラ自身が硬くなってゆくのが判る。

 果たして旦那は、それに気づいているのかいないのか。
 我慢ならなくなったオイラはもっと強い情愛の縛を催促せんと、薄く唇を開きそこを震わせる。


「――…だ……、な…」


 吐息にも似た、声。そんな微かなもので小さく呼び掛けの言葉を紡いでみればぴくり、旦那の美しい柳眉は跳ねて。


 ――ぐっ…、と。


 その手の力は静かに、しかし確実に増やされる。


 ああ…イイ。
 もっと。もっと。


 下腹部が苦しかった。太股の内側辺りには、独りでに力が入る。倒れたオイラの上に跨がる旦那との筋目がその臀部だということに気けば、尚も熱は高まった。
 オイラははくり、上唇とその下のものとの丁度真ん中辺りに細く、僅かな隙間を作り出す。知らずにふるり、小さく小さく震えた、微かなあわい。


 旦那、―――…と。


 オイラは再び、今度は唇の動きだけを使って、己の眼前でその緋色を危うく光らせる最愛のひとに呼び掛ける。

 伝えたくなったのだ。もう直ぐオイラが満たされるであろう、その至福に対する礼を。
 今オイラの胸を占める、この想いを。




「   」




 声にならない、声。
 だけどオイラは確かに、それを告げた。

 瞬間、この身を繋ぎ止めていた細い細い糸が、遂に―――途切れる。



「オレもだ」



 薄く、その唇をひずませて笑みを形作った旦那は、至極満たされたような表情をしていて。
 ゆるり、滑らかな弧を描いた透き通るディアマンの瞳はじっと、愛おしげにオイラを見つめる。


 刹那、すっと重力に従わせ前髪をオイラの額に被せながら、近付いてきた端麗なかんばせ。


 もう何も吐き出さなくなったオイラの唇を、温度のない旦那のそれが音もなく―――そして柔らかに、塞いだ。


提出:彩愛
120211
 
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