潜水艦に取り付けられた窓は、小さい。 おれはふうと視線を持ち上げる。そこから垣間見た月は妙に顔色悪く、ぼおっと蒼白い光を放っていた。 おれはそこから一つの顔を思い浮かべ、ふ、と。小さく苦笑いを溢す。 いや、あの人の血色は実際、それほど悪くもないのだが。 ―――がちゃり。 そのとき。 ノックなどはなく、当然の如く突然開け放たれた扉。 しかし、おれがそれに驚くことはなかった。かつかつとこちらに近づいてくるそのショートブーツの足音には既に、いくらか前には気がついていたのだ。 稀に気配まで消して来ることもあるのだから、今回の場合はまだ事前の察知は容易かった。 おれの部屋に易々と侵入を果たしたその存在は、この船絶対の権力者。無遠慮にいくつか歩を進めたその人は、左脇にインクの入れ物がぽんと乗せられているだけの机の近く――そこにある人の椅子の上にどさりと、如何にも偉そうな様子でふんぞり返った。 その目縁の下にうちの戦闘員とは色の違うクマを飼うこの人は、我等が船長。この船の長。 実際、偉いのだ。 「――最近、楽しそうだな」 開口一番。一体何の用かと内心僅かながらも動揺していたおれはしかし、ほっと肩の力を抜く。 取り敢えずおれが何か船長の気に障るようなミスをやらかした訳ではないようだ。 しかし、問題はまだ終わっていない。 船長の言葉はまさか、そのままの意味ではあるまい。その証に『特にペンギン』、と――…。その目をじっと見つめていたらそんな言葉が、おれの内に伝わってきたような気がした。 おれは、船長の真意を理解する。これは可愛らしい妬心の表れだろう。おれは口端を緩める。 「大丈夫っすよ」 おれはにっこり、大袈裟な程に顔を綻ばせて見せた。 「おれはちゃんと、船長のことも愛してますから」 そうしてへらり、なまなかに笑って見せれば、その藍――海と同じで深く神秘的な色――の瞳はすうと、宙を流れ歩く。 「――そういえば、ペンギンがツナギをなくしたとか言ってたな」 そしてひたその瞳が捉えたものは、白。 おれの手によって壁際に掛けられた、清潔を象徴する洗いたての――ツナギの白。 「…へえ」 全く、やはりこの人は油断ならない。おれはひっそり背中を湿らせた。 考えていることが読みづらいと思わせておいて、その実、案外分かりやすい。と見せかけてやはり、船長は一番理解しがたい人なのだ。 口の上手さを自負しているおれですら、染々思う。全く以てやりにくい。 「なあ、バン」 にやりとシニカルにその口端を持ち上げた船長は、態とらしくその首を傾げて見せる。 「あれは、何だ?」 「――替えのツナギっすよ」 おれの答えは、即答。淀みなく言い切った。 胸の内を荒らす大きな動揺はおくびにも出さず、隠して。 しかし。 「―――汚したのか?」 「………」 相手は船長。そんな誤魔化しは効かない。 おれは口をつぐんだ。 「初歩的で且つ、カギ臭ェミスだな…」 小さくそう呟いた船長の中ではもう、"それ"は既に決定事項なのだろう。 流石に再度否定することのできない、忠誠から来る自分の善良が口惜しい。 と、そのとき。 徐に船長の指先がそのパーカーの裾をがしりと掴んだかと思えば、その下に隠れていた腹をぐいっと一気に―――晒す。 「!」 見えた肌の色。 その陰影。 すうと引き締まるウェストのラインが危うい。 しかし、細いながらもきちんと目に見えて割れた筋肉の様はじりり、おれの網膜にまではっきり焼き付いた。 船長がその黄のパーカーを完全に脱いだ、と思ったときにはばさり、それは勢い良くおれの顔面に向かって投げ付けられて。 戸惑いに両の目を白黒させながらもおれは、それを軽く手のひらで受け止める。ややあってその布をゆっくりと体の前にまで下ろせば、船長はすうとよく通る声でそれを命じた。 「それも――汚せ」 …おれは、絶句する。 「今だけ、特別に許してやる」 上半身を惜し気もなく晒した状態でそう言い退け嘲笑った藍の眼に、おれはどうにか当惑の一音を発した。 「は…?」 しかし勿論、それで見逃してくれるほど、うちの船長は甘くない。 不機嫌そうな様子でくしゃりその柳眉を歪めた船長の唇はふうと、ややあって低く低く言葉を紡ぐ。 「…何だ、それとも今、ここにペンギンを呼ばれたいのか?」 …――降参、と。 おれは軽く顔の横辺りにまでホールドアップするとゆるり、静かに瞼を閉じ、一つ大きく嘆息した。 「…分かりました、やりますよ」 くるりと踵を返して数歩足を進めたおれはどさり、間を置かずに流れ作業でベッドに腰を降ろす。 手間を厭いながらも仕方がない。それが"ツナギ"と呼ばれるものであるが為、おれは手早く前の合わせを肌蹴るとするり、肩口から素肌を晒し、ややあって下腹部、――そこを寛げる。 と、そのとき。 ふわり、不意に揺らいだ濃藍の頭髪。 徐にすっとその場に立ち上がった船長は、ゆるりゆるり、おれの直ぐ目の前にまで音もなく歩み寄ってきた。 「――こっちを見ろ。そのまま、やれ」 濃く影が落ちる顔。それはまさに極悪面。 しかし、そこには妙に艶があるものだから困る。 「…悪趣味っすね」 おれは正直な感想と共に、小さく苦笑いを溢した。 「はッ」 船長はそんなおれの言葉を、軽く鼻先であしらう。 「そんな奴相手に盛ってんのは、」 その言葉が不自然に途切れた、その次の瞬間。 ――ぐっ…、と。 「…っ、」 緩やかな動きで突き出されたのものは、その膝。船長のそれは無遠慮にしかし絶妙な力加減で、おれの股ぐらを狙って刺激してきたのだ。 「…――どこのどいつだ?」 嗤笑にその色を歪ませた海の瞳。その、傍若無人さ。 おれはすうと僅かながら目を細めると、湿り気を帯びた熱吐息をはっ…と唇の先から逃がしながら、嗄れ声で小さく言葉を紡ぎ出した。 「そうしたのは、船長じゃないですか…っ」 眼球の上に薄く、震える水分の膜が張る。おれは緩やかに瞼を伏せ、もどかしい感覚にゆるりと自身の手のひらを持ち上げた。既に軽く熱を持ち出していたそこに、おれがその――船長のパーカーが被さった――手を添えんとした、正にそのとき。 愉悦に浸った表情でおれを見下ろしていた船長が不意に、その長く細い指先でおれの顎を掬った。 捕われた視線。 鼻先が掠れた、かと思えば、まるで獣同士が甘噛むかのようにして重ねられた唇。 おれは特に抵抗することもなく、黙ってその舌を受け入れた。 ――…今は、まだ良い。 しかしいつものように、身長差で言えばほんの少しながらもおれの方が船長よりも勝っているのにも関わらず、ぐうと壁に押し付けられその技巧と勢いに翻弄されながらしとどにキスを受けるのは我ながら、些か情けなく悔しいものがあった。 だからせめて今だけは、と。 おれは絡まる舌先の動きに意識を集中させ、下手をすれば持っていかそうになる主導権を何とかかんとか守りに入る。 そのとき。 ――こんこん。 突如転がり込んできたノックの音。 おれはびくり、体を震わせる。 船長に気を取られていたとはいえ、何たる失態。更にはそのように分かりやすく動揺を示した自分にまで失望した。 「…――バンダナ?」 しかし、扉越し控えめに掛けられたその声。それにおれは納得する。 それは気紛れな船長とは違い、気配を消すことを常としているここの副船長、――ペンギンのものだったのだ。 しかし、おれはまた同時に動揺する。何故ペンギンはこのタイミングで珍しくも、おれの部屋を訪ねてきたのか、と。 しかし、直ぐに気がついた。 ――これは、船長が呼んだな…。それも勿論、態とに。 計られた、のだ。 おれの吐息の上でにやりと緩やかに弧を描いたこの唇が、何よりの証拠。 「…居ないのか?」 そんな暢気な――ここのところずっと気になって仕方がなかった人物の――声に、おれの焦燥は益々その嵩を増す。 この部屋には今、鍵がかかっていない。ペンギンの手によってもし少しでもその扉が開けられてしまえば、この濃厚な口づけの明細はあっさりと露見してしまうだろう。 「ん…ッく」 慌ててもがき出そうとしたときにはもう、おれには酸素が足りなかった。必死なおれとは対照的に、船長にはまだその余地がある。 くらくらと思考が惚けた。逆上せた息は驚くほどに…熱い。 …――返事がないことに諦めをつけたのか、数秒の間を置いてペンギンの足音は静かに去っていった。 おれは死に物狂いで掻き消していた気配を漸くと現せることに安堵し、自身の咥内をなぶり続ける目の前の男へと意識を戻す。 噎せ返りそうになるほどに滾滾と喉の奥から湧き出てくるものはどちらのとも知れない液体と成り、唇と唇の隙間から溢れた。それにどうしようもなく羞恥を煽られたおれはからくも、船長の方から意図的に送られてくる――滑やかで甘やかな――唾液をこくり、喉仏を震わせることによって、どうにかこうにか嚥下する。 それに満足したのだろう。船長は不意にその唇をするり離すと、まるで啄むようなキスをおれの唇に一つ落とし、ゆるり、体勢を整えた。 息も切れ切れなおれの――体で一番に熱を放つ――それは、原色のパーカー、おれの手、そしてその上から重ねられた船長の手のひらによっておれの意思とは関係なしに高められていて、既に十分な強度を得ていた。 薄布越しに先端を悪戯にぐりと刺激されてしまえば、自然とおれの腰は跳ねる。圧し殺した嬌声が、おれの喉の奥に反響した。 「――善さそうだな…」 おれの痴態を揶揄した船長は、くつくつと至極愉しげな様子で声を漏らして笑う。 悔しくなったおれは表面上だけでもとにやり、余裕の笑みを浮かべて見せた。 「おれのことを"抱こう"なんて考える物好き…、船長くらいですよ」 そんなおれの顔を見留めた船長は突如ふと、その顔から全ての種類の笑みを消し去った。 「丁度良いじゃねェか」 …するり、 今はまだ固くアスタリスク型に閉じたその周辺をなぞるように、ねっとりとした動きの指が這う。おれの両足は我知らず、僅かながらもうち震えた。 「他の奴を受け入れたりしやがったら、どうなるか分かってんだろうなァ…?」 深く底が見えない青はゆらり、ひどく危険な光を放っていて。 「…はーい…」 凄まれたおれは大人しく、そして素直に頷き苦笑した。 さてさて、揺れるやじろべえのようなイニシアチブの奪い合い。しかし、これは完全なる釣り合い人形ではない。いずれはどちらかの方向に…倒れる。 向こうにそれを譲る気はさらさらないようだが、こちとて少しも遠慮はしない。 おれはその斑模様のズボンに手を伸ばしながらちらり、今まで無敗の船長を窺い見る。 果たして、今日こそ下克上なるか。 全ては神のみぞ――いや、おれと船長だけが知る。 120207 ハートの底に君はいないけど |