視線の先に、見えた赤。

 サソリの旦那だ。オイラは徐に片手を上げて唇を開き――そしてはたとその赤の目の前に立つ漆黒の存在に気がついた。
 白い肌に、黒く艶やかな髪。その中で異彩を放つのは、稀有な模様の血色の瞳。
 それはオイラの大嫌いな男、イタチだった。

 何を話しているのだろう。ここからではよく分からない。
 見えるイタチの顔はいつも通り、表情に乏しい。しかし、こちらに背を向ける旦那。その微かに見える、横顔は。

「……」

 居たたまれなくなったオイラは、足早にその場を離れる。
 燃えるような赤の隙間から垣間見えた唇。そこは僅かにだが確かに――…ゆるりと、弧を描いていたのだった。





「――さっきイタチと何話してたんだ? うん…」

 その夜。

 そう言えばといった調子でオイラが訊ねたそれは、その実ひどく気になって気になって仕方がなかったこと。
 旦那にはそれが分かったのだろうか。傀儡のメンテナンスをしていた掌は珍しく止まり、その硝子の眼がふいとオイラを見上げてくる。

「なんだ…嫉妬か? デイダラ」

 せせら笑う緋。
 オイラはかあっと自分の顔に熱が集まるのを感じた。

 ここは旦那の部屋。いつもそうだ。旦那の方からオイラの元へと訪ねてくることなど殆どない。だからオイラが旦那のところへと押し掛ける。そうでもしなければ旦那は仮にも恋人であるオイラにだって、少しも構ってくれはしないのだ。

 だから、不安になる。オイラたちは本当に両想いなんだろうか。
 …オイラばかり、旦那のことが好きな気がする。

「嫉妬しィは女にモテねーぜ」

 そう言って再びその手元へと視線を落とした旦那に、オイラはきゅっと唇をへの字に引き結ぶ。明確な不満の念にむっとそこは、自然と先を尖らせた。
 そのときぱたり、まるでなにか翅のように瞬いた睫毛。男にしては長いそれらに縁取られた――その、いつもどこか憂いを帯びているように見える――紅緋色の瞳から、オイラは不意に目が離せなくなる。

 …ああ、あの瞳に映りたい。

 それは唐突な、しかしひどく抗い難い衝動だった。
 我慢ならなくなったオイラはすっと予兆もなしにその場で立ち上がると、無言のまますたすたと旦那との距離を縮める。しかし、旦那はぴくりとも反応しない。悔しくなったオイラはするりと、強引に温度のないその頬を両の手のひらで包み持ち上げた。

 がたり、

 旦那の掌から、誰のだか知れない人形(ひとがた)の腕が転がる。
 紅緋の色を有する無機質な傀儡の瞳がひたり、オイラの視線と絡んだ。

 そりゃあ全くモテないよりはオイラだって、女にもそれなりに好かれたい。
 だけどオイラが今、最も良く思われたいと思っている相手は。

「…旦那は、どうなんだよ」

 旦那のその形の良い唇は、依然としてじっと沈黙を保つ。その冷めたまでに変化の少ない表情に対して、オイラの顔には焦燥がありありと浮かんでいるのだろう。
 答えがない。そのことがひどくオイラの不安を煽った。

 今、オイラは、本当に旦那の硝子の中へと映ずることができているのだろうか。

 ほら、オイラの掌にあるもう二つ――本当は更にもう一つあるのだが――の唇までもが、まるで旦那の答えを催促するかのようにその頬へと紅い舌を伸ばした。
 べろりとそこを濡れた紅に撫でられた旦那は、ぴくとその柳眉を揺らす。間もなく眉間には僅かに皺が寄った。

 ――…しかし次の瞬間、旦那は一体何を思ったのか。

「!」


 ぱしり、


 ひやりと冷たい旦那の掌が捕らえたのは、オイラの左手。突然のことに驚き見開かれたオイラの瞳の中で旦那の唇はにやり、意味ありげな気色で歪んで見せた。

 そして唐突に、その笑みの隙間から現れた赤。


 赤い――舌。


「…っ!?」

 その赤は徐に、オイラの手のひらから伸びるそれを絡め取る。


 …くちゅり、響いた水音。


 オイラは言葉を失った。

 ――…赤と紅とが、境界をなくして混ざり合う。時折覗く八重歯の白とのコントラストが美しい。
 ふっと僅かにその唇と唇の隙に間が生まれたかと思えば、また直ぐにアカはアカの咥内の中へと消えていく。かと思えばまるで"そちらばかり狡い"とでも言うようにしきりにその輪郭へと舌を這わせていた右側のその存在にも気がついたのか、旦那はやがてそちらとも赤を絡め始める。
 口吸い合い、舐め合い、なぶり合って。


 …――ああ、確かにオイラは旦那の言う通り、ひどく嫉妬深い質なのかもしれない。

 腸が煮えくり返る。これほどまでに自分の掌を疎ましく思ったことは、他にない。

 …なのに。

 頬が熱い。体も熱い。
 自然と、息が上がる。

 悔しい。悔しい。
 悔しいのに。

 顔全体は変わらず熱かった。しかし、更に生まれたもう一つの熱。次第にその新たな熱の集まりどころを自覚せざるを得なくなったオイラはもぞりと、居心地悪く両の膝を擦り合わせる。じんわりと熱を持ったそこは、もう苦しい。
 はっ…と喉の奥から気持ち少しだけ、熱を吐き出してみる。しかし、どうしようもなく視界は潤んだ。旦那の端整なその顔が、オイラの欲望に歪む。
 時折こちらを窺うようにして見上げてくる――ひどく挑発的な――眼と目が合うたび、思わずごくりと喉が鳴ってしまった。

 オイラはただただ目の前で繰り広げられるその淫靡な光景に唖然とし、身動きさえ忘れその赤の動きをじっと食い入るようにして見つめていた。

 しかしその唾液に濡れた行為は、唐突に終わりを告げる。

 それぞれがそれぞれの唇を存分に饕り合った後、ふっ…と旦那がオイラの掌を解放したのだ。
 いつの間にか変に力が入っていたオイラのそれらは、ゆるゆると不自然な速度で落下する。
 掌をどろどろに唾液が伝うその感触は、ひどく異質だ。そこと、そして何よりオイラの目の前でてらてらに光を反射する唇を以てして妖美で不敵に笑って見せる旦那のその様が、妙に艶かしい。

「――……な…」

 漸く震えたオイラの喉から溢れ落ちたものは、たったのその一音。
 しかしその声が妙な静寂の中に染み入ってしまう頃には、ふつふつとオイラの中では何か激情が湧き上がってきていて。

 眼前にはしっぽりしとどに濡れた唇。妖しく光る赤。
 オイラの中でざわりと、何かが音を立てた。

――旦那とキスだなんて、オイラだって数えるくらいしかしたことないのに…!

 それに駆られるまま、オイラは今度こそ旦那の顔を捕まえる。


 …――そのときにやと旦那がその唇に弧を描いていたことを、オイラは知らない。




 仕掛けたのはオイラ。しかし、やはり直ぐにイニシアチブは旦那の方へと流れて行ってしまった。

「……っ…」

 引き出されたオイラの舌は、旦那のそれによって蹂躙される。絡めかき混ぜていたはずそこは気づけば絡めかき混ぜられていて、オイラの意識は熱に侵された。きつく舌を吸われたかと思えば、気紛れに歯を立てられる。今オイラの歯列をなぞる赤はつい先程までオイラの掌と口づけを交わしていたのかと思えば微妙な気分にもなったが、そんな思考もやがては旦那の舌の動きに溶かされていく。

「っ、ふは…ッ…」

 そして漸くまともに呼吸を許されたかときにはもう、オイラの息はままなかなかった。
 酸素を求め喘ぐオイラを至極楽しげな様子で眺めつつ、ふらり、旦那は部屋の隅へとその歩を進める。どさと据え付けられたベッドの上に腰を下ろしたその気配を感じたオイラは、滲む視線でへたり込んだ床からその色を見上げた。

「…だ、んな……」

「―――来い」

 すうとさし伸ばされた掌。

 オイラはそれに誘われるまま、力の入らない両足に鞭打ちふらふらと歩み寄る。
 そう。それはまるで、旦那お得意のチャクラ糸に操られるかのように。オイラの体は自然とそちらの方へと引き寄せられてしまったのだ。

――ああ…そうかもしれねーな、うん。

 オイラは、唐突に悟る。

 ここは旦那のテリトリー。オイラの心と体はもう、既にそこら中を張り巡らされていた糸の中に、絡め取られてしまったのだろう。


 だけどオイラは、それでも良い。

 いつかはその糸の中から赤色の"それ"を見つけ出し――…繋がれたいと望むのだから。



120120 蝶と糸、そんなイメージで。

Dear冬草さん with love! Byソウ

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