どさりと机に鞄を投げ出し、おれは音もなく小さなため息を吐き出す。つい先程まで顔をうずめていたマフラーをくるくると巻き取っていれば、ぶるり、無意識の内に背筋が震えた。 今日はまた一段と寒かったな、と。そんなことをぼんやり考えたおれの肩に、ぽんと軽い衝撃。くるり振り返った先には、眩しい笑顔があった。 「よう、ロー。おはようさん」 「…はよ」 応えたおれの声にまたにっと笑みを見せたエースは、軽い足取りでおれの直ぐ後ろの席に鞄を置く。おれはぐるりと体を捻り股の間に椅子の背凭れを挟むような体勢になると、そちらを振り返った。徐にその机の上へと肘をつけば、その目がおれの顔を捉える。 「放課後」 「ん〜?」 「探してェCDがあんだ。付き合えよ」 決定事項を告げるかのようなおれの口調に、大概の奴なら気分を悪くするのかもしれない。しかしエースは少しも気にした様子を見せず、寧ろぱっとその表情を華やがせて大きく首肯した。 「おう! いや〜丁度良かった! おれも欲しい曲あったんだよ。んじゃ、放課後な」 にししと楽しげな笑みを溢したそのそばかす顔をおれは頬杖の上で軽く首を捻りながら聞き、僅かに口元を緩める。 と、そのとき。不意におれの視線に止まったのはエースのその手首。オレンジ色が基調とされた不恰好な――つまりはお世辞にもあまり上手いとは言えない作りの――それを見つけたおれは、おやと唇を開く。 「おい、どうしたんだ? そのミサンガ」 「ん? ああ…そうだ、聞いてくれよ!」 唐突にずいと身をこちら側に乗り出してきたエースは、嬉々とした様子で話し出す。 「これ、ルフィと色違いなんだ。ほら、これはオレンジだろ? で、ルフィのは赤なんだ。友だちから作り方聞いて、おれとお揃いに作ったんだと」 優しげな瞳でそうおれに報告するエースの顔を見て、おれの心臓の辺り――…そのもっと深い部分が、じりり、何故だか妙に焦がれたような気がした。 「…そうかよ」 おれの中でどろりと黒く轟いた何かになど勿論エースが気づくはずもなく、その顔はああとまた更に嬉しそうな顔で頷くだけだった。 「…………」 解っている。 エースは弟――麦わら屋のことが、大好きだ。そして逆もまた然り。そしてその感情は純粋な"家族愛"。 おれが苛立つ意味もない。 だけど。 …けほり、 おれの唇から溢れた音は、ひどく乾いた響きをしていて。 思考はひどく冴えているのに頭の芯は変に熱く、心臓の辺りはやはりぎしぎし黒く軋む。何に対してだか判らない、妙な苛立ちが募った。 それから幾度となく背中越しにエースの鼾を聞きながら迎えた、放課後。 早速ショップに向かうかとおれが腰を浮かせかけたところで、エースからかけられた制止の言葉。 「悪ィ。おれ、日直だったらしい」 だから日誌書くまで待っててくれ、と悪びれる様子もなく言ってのけたエースに、おれは声に出さずに呆れる。そういう面倒なものは普通、昼休み中なんかで早めに終わらせておくのが常套であろう。 再び椅子に逆戻りしつつおれが大きくため息をつけば、くらり、少しばかり視界が揺れたような気がした。 「…ったく、さっさと終わらせろよ」 「おう!」 威勢が良いのは返事だけ。その手に握られたペンが走り出した白に刻まれていく文章の中には書き損じや誤字は勿論、最早文章としておかしなことになっているところも多数。ついつい口出ししたくなったものの、ここは我慢。 その甲斐もあってか全くの白紙だったそこが埋まるのには、十分とかからなかった。 しかしエースの手のひらが最後の一文字を書き込んだ途端、音を立てて震えた机の上の携帯端末。ミサンガと同じくオレンジ色のそれは、勿論エースのもの。 終わったと伸びをして喜んでいたエースはゆったりと二つ折りのそれを開き、――…そしてその表情を凍らせる。 「…――は?」 バイブレーションを響かせたときそれに点ったランプは、赤。 おれには分かっていた。そのメールの相手が。 「…どうした」 じりり…じりり。 再度焦げ付き始めた心臓の音におれは眉を寄せながら、そっと唇を開く。 その途端にがたり、エースは勢いよく立ち上がった。 それにおれが驚く間もなく、エースはぽいぽいと俄に机の上に広がっていた私物――シャーペンやら消ごむやらiPodやら――を鞄の中に放り込み始めて。 「…おい、ポートガス屋? 何して――」 「悪ィ、ロー」 目の前ですっと持ち上げられた二つの黒の双眸からは、ただただ焦燥だけが感じられた。 「ルフィが怪我したらしい。だから、おれは行く」 この高校からは少し離れた中学校。そこへ迷いなく向かうと、そう言ったときにはもう、エースの意識は既にここ以外――…おれのいない場所へと飛んでいっていて。 「だから本当に悪ィ。今日はCD、無理だ」 おれの顔を見てそう言ったエースの瞳は、おれを映していなかった。 ざわり…、 それを見た途端、おれの中で燻っていた何かが一気にその勢いを増す。 弟が。 ルフィが。 ルフィルフィルフィ。 今まで幾度となく聞いてきたエースの声がおれの奥で反響する。 目眩がした。おれは、ぎりりときつく奥歯を噛み締める。 エースは既におれの目の前から駆け出さんと、大股の一歩目を踏み出していた。 おれは咄嗟にその腕を掴もうと、手のひらを伸ばす。しかしするり、すり抜けた手。おれは胸の内につい先ほどエースの瞳の中に見たものよりもずっと、息苦しくて気持ち悪いまでの焦燥を感じた。 じり、りりりり…。 焦 げる。 おれは伸ばした手のひらをそのままに、思わず腰を上げる。全てがスローモーションに思えた。 おれの太股に弾かれた椅子が後方に傾く。おれは更に手のひらを伸ばす。エースは止まらない。その背が、教室の引き戸の外に――――消える。 …ぐらり、 それを見届けた瞬間、不意に失せた平衡感覚。自分の体が傾いでいくことは認識していても何故か、おれはどうすることもできなかった。 視界が、真っ白に染まる。 …遠くで、何かが倒れる音が響いた気がした。 ふわり、目の前の漆黒が波打ち揺らぐ。 ああ、エースだ。 おれはどうしてだか唐突に悟る。 辺り一面闇に覆い尽くされた背景の中、光源のないそこでしかしエースの姿ははっきりと目で捉えることができた。エースはこちらを向いていない。おれは首を傾げつつその顔が向いている視線の先を辿る。 そして見えた。エースと同じ、漆黒の頭髪。 例え血が繋がっていなくとも――…寧ろ繋がっていないからこそ、おれにその絆を見せつけるかのような同じ色。 ぎゅうと、喉の奥が締まる。 おれは息を詰めた。 「―――…」 はくと、無理矢理口唇を開いてみる。しかし、おれのそこからは何の音も溢れなかった。 エースは、おれのことに気づかない。 不意に一歩、エースは足を踏み出す。向かう先は明らかだった。おれは、動けない。動けないままぎゅうと固く手のひらを握り締める。 エースの、広い背中。 遠ざかる。遠くなっていく。 離れていく。離れていく。離れてく。 おれの意識は途方もない絶望と共に、徐々に白に染まっていき――… 「――あ、起きたか」 おれは、体を硬直させた。 「なんか、ただの風邪による熱だってよ」 おれを見下ろし暢気にそんなことを告げてくるエースはふっと安心したような笑みを見せ、ゆっくりとその顔をおれの横たわるベッドの上から遠ざけた。 「……ポートガス屋?」 重たい瞼を無理矢理に持ち上げれば、見えた清潔そうな白の天井がおれの目を刺す。状況が掴めないままぱちぱちと暫く瞬いていれば、ひょこりと再び顔を覗かせた黒の癖っ毛。 それを見瞬時に数十分前の出来事を思い出したおれは、驚きのあまり大きく目縁を見開いてしまう。 「何で…」 どうして、エースがここにいる? 何故、弟の元に向かわなかった。 しかし、聞かされた答えは単純。 「ルフィの奴、『めちゃくちゃ痛ェ』だなんて抜かしやがるからどんな大怪我したのかと思えば、ただ六時間目の家庭科で指を切っただけなんだとよ。二通目のメールにそう書いてあった」 「ああ…」 一瞬でも"何か"を期待してしまった自分を嘲り、おれは薄く笑みの形に口端を歪ませる。 そんなおれを見て、エースは至極不思議そうな様子で首を傾げていた。だがしかし直ぐに分からないことは気にしないことにしたのか、その顔に浮かぶ困惑の表情は瞬時に吹き飛ぶ。そしてその口は再び動き出した。 「たっく、人がローの看病してるってときに、なあに気の抜けるメール出してくんだってなァ?」 「……は?」 そこが紡ぎ出した言葉に一拍遅れておれが疑問符付きの一音を吐き出せば、 「うん?」 エースは暢気に首を捻る。 「待て、ポートガス屋。その順番はおかしいだろ」 「順番?」 「メールが来て、それからおれをここまで運んできたんだろ?」 エースの言葉の間違いを指摘しながら、おれはまたじりりと小さく焦げる心臓を感じていた。 ひどく苦しい。虚しい。 しかしきょとんと丸く瞳を見開いたエースの唇から放たれた新たな言葉に、今度はおれが口も目も丸くする。 「いや、違うぞ?」 「は?」 訳が分からない、と困惑の証を眉の間におれが刻めば、エースは益々首を捻る。終わりの見えない無言のやり取りに痺れを切らしたおれは、目の前の少しおつむの弱い男にも理解できるようにゆっくりと唇を開く。 「てめェ、弟が怪我したってんのにそれを放っておいて、赤の他人の世話を焼いてたのかよ」 問い掛けた言葉に、エースはふいと唐突におれの目からその視線を外す。 「赤の他人……ってか、」 それを訝しく思ったおれはその横顔をじっと見つめ、そして気づく。 「――…仕方ねェだろ。ルフィが大事なのは勿論、ローだっておれにとっては大切な奴なんだから」 うっすらとそばかすの散る、その頬。そこは通常と比べると仄かにだが確かに、赤く色づいているように見えた。 …――いつの間にか消えていた胸の焦げ付き。 おれはゆるり、唇の両端を持ち上げる。 「…なあ、エース」 「、うん?」 「CD屋行くぞ」 「はあ?! 行くったって、ついさっき立ち眩んだ癖にどうやって…」 「肩」 「は?」 「肩貸せよ」 おれは口元にゆるりと弧を描き、その顔を窺いながら気分良く唇を開く。 「その方が暖けェ」 焦げる、焦がれる その熱は おれを引き摺るその温もりに、おれはふっと口元を緩める。 「…っに笑ってんだよ」 するとじろり、恨めしげな目で軽く睨んできたエース。おれはその顔を見やり、隠すこともなくゆるり唇をにやけさせた。 「いや?」 「…?」 白い息を僅かに弾ませる横顔に向かって、おれは無責任に唇を開く。 「頑張れ」 「………、おう」 しかし、エースはやはりお人好し。 おれはにやりと悪く笑うと、調子に乗って言葉を重ねる。 「おし、そこのコンビニでダッツ買ってくか。奢れ」 「はあ?!」 案の定噛み付いてきたエースをしかし、 「病人は労れよ」 おれは一秒で鎮める。 「……くそっ」 その癖っ毛に顔を近づけ緩く笑えばその隙間から見えた耳はやはり淡く、夕陽とは別の赤で色づいて見えた。 120106 |