インターフォンの呼び掛けに応じるまま扉を開け放てば、麻紀(まき)ちゃんがその先にふわふわと柔らかそうな毛玉が揺れる細長い棒を片手に玄関に突っ立っていた。
「……何、それ?」
私は一目見た瞬間からその正体を分かっていながらも、おそるおそるそう問い掛けてみる。
「猫じゃらし。ルイくんの為に買ってきた」
「猫……うんまあ、あの人たまににゃんて鳴くけどさ」
「あの人って」
麻紀ちゃんはそう言うとその大きな黒目がちな瞳を細め、小さく肩を揺らした。ちらり、その唇の間からは白い八重歯が見える。
私はそんな麻紀ちゃんの顔を見、ゆっくりと口端が持ち上がってくるのを自覚した。
私は、レズなのだろうか。
これは私の中にひっそりと長年佇んできた、大きな疑問である。
今までに恋をした相手もどきりとしてきたのも、男。しかし私は女の子に対して大好きだなぁと思う感情を抱くことが多々あった。友情という言葉で片付けるには、些か難しいくらいの妬心なども付属させて。
例えば不可抗力で男の子の体が目に入ってくば私は気まずく思い、さっと視線を逸らす。しかし私は階段を上る短いスカートから伸びる足や満員列車で直ぐ目の前にある白い項には目を奪われ、そこに吸い付き痕を残したいという欲求に襲われるのだ。
そんな欲望は、まだ良い。所詮私のそれは、抑えられる範囲のものでしかないのだから。それよりも問題なのは、先にも述べたような激しい嫉妬の心。――…私はその思いの所為で何度麻紀ちゃんと一緒にいるのが辛いと思ったか知れない。
私はそれほどまでに、麻紀ちゃんのことが好きだった。
理由なんて分からない。ただ気が付けば何となく引かれていて、少しずつ仲良くなっていけば彼女への興味は膨れ上がり、友人となるまでに私が麻紀ちゃんのことを知ったときにはもう既に手遅れ。
理由なんて分からない。だけどこの思いを認識しだしていくきっかけとなった出来事は明確に覚えている。しかし今その話をするのは止めておこう。
辛いのだったら、離れてしまえば良い。苦しいのだったら、その想いを忘れてしまえば良い。
だけど私はそうすることができないからこそ、こんなにも苦しく辛く切ない想いに身を焦がし喘いでいるのだ。
フローリングの床にぺたり、人一人分以上の間を空けてゆったりと二人並んで座り、私たちは傾いてきている西陽をガラスと薄いレースのカーテン越しに浴びる。
ひらりひらり、揺れるそのふわふわの白の動きに思わず私の瞳も揺れた。しかしルイはその尻尾にたくさんの力を込めて嬉しそうにぴんと張りながら、私以上にその小さな体を左右に翻弄されていた。麻紀ちゃんのその手に握られた、猫じゃらしによって。
その種の名の由来ともなる大きな耳の下の飾り毛が、ひらひらと踊る。
「――…って。だからまあ、楽しいよ」
「へえ…」
緩く相槌を打ちながらも私はちらりとその横顔を窺い、そっと口を開く。
「じゃあ、特に嫌なこととかはないんだ」
「うん」
「…本当に、愚痴っても良いんだからね?」
「うんありがとう」
降り注ぐクリーム色の光を浴びても尚、麻紀ちゃんのその髪は変わらずに黒い。艶やかなその色が眩しいくらいにその光線を跳ね返す。私はすっと目を細めた。
麻紀ちゃんは辛いことがあっても、それを口に出さない。一人で抱え込みその結果体調を崩すことなどつい最近までそれはもう、頻繁にあったものだ。
せめてものガス抜きになればと思い私はこうして声を掛け続けているが、これはただの私の自己満足であって麻紀ちゃんにとっては余計なお節介でしかなのではと臆病な自分はいつもうだうだと考え込んでしまう。
その私と同じくらいのメンタル面での弱さ。それすらも私にとってはひどく愛おしいものだが、もっと頼ってくれたら良いのにとついつい拗ねたような感情を抱いてしまう。全く困ったものだ。
「仲…良い人いるもんね。うん、大丈夫か」
「うん」
小さな毛玉に飛び掛かるルイを上手くあやす麻紀ちゃんの声は、少し生返事気味。
試すような物言いをしてしまった私はそんな麻紀ちゃんの短い声だけでも、ずうんと胸の奥に重たいものを感じてしまう。ならばこんなことを聞かなければ良いのにとは思いつつ、私は毎回これを止められない。ただ虚しくなるだけとは、分かっているのだが。
「そう言えば麻紀ちゃんさ…なんか、こう言うとちょっと誤解を招きそうなんだけど」
「え、何」
「いやうん、私から見てだけど」
「良いから話してよ」
すっと私は目を伏せる。何となく麻紀ちゃんの顔が、見れない。
「麻紀ちゃん最近、可愛くなったよね」
麻紀ちゃんは、特にモテなかった。
私の贔屓目を除いて見ても、麻紀ちゃんは普通に可愛いと思う。だけど麻紀ちゃんがモテないのはきっと、その態度の所為だと思う。彼氏なんかいらない、というその態度。気取らないと言えば聞こえは良いがつまりは男の子に好かれようと努力をしないという訳だ。私が麻紀ちゃんと出会ったころにはもう殆どその影は窺えなかったが、小学校の頃の麻紀ちゃんはしょっちゅう男子に混ざって遊びそのズボンを奪うなどのこともやってのけたという。当時の麻紀ちゃんを知る男子は、それだけで麻紀ちゃんを恋愛の対象として見なさないのも頷ける。
しかし麻紀ちゃんは、特定の女の子にはひどく好かれた。一人、高校時代にそれこそ麻紀ちゃんからノートを借りればぎゅっと大切そうに抱き締めてしまうくらいの麻紀ちゃんファンもいたが、私がその子の真意を探ってみればなんてことはない。それはあくまでも友情や尊敬の念の延長線上でしかなかった。…私の思いも、そうだったらどんなに楽だっただろうか。
それはさておき、つまり麻紀ちゃんは女の子にモテる訳ではない。どこかのタチな女ったらしとは違うのだ。
実際に麻紀ちゃんにこんな気持ちを抱いているのはきっと、私くらいのものだろう。
麻紀ちゃんと私は、高校時代に出会った。それから私は大学へ。麻紀ちゃんは専門学校に通いトリマーへと。動物好きな麻紀ちゃんに、その仕事はぴったりだった。
つい最近、麻紀ちゃんは私の通う大学からも程近いペットショップで働き始めた。そこには麻紀ちゃんの小学生時代からの友だちがいたらしく………麻紀ちゃんはひどく、楽しそうだった。
麻紀ちゃんにその気がないことは分かっている。勿論、相手側の友人の方にも。だけど私はぐるぐると渦巻く息苦しい感情を消し去ることはできなかった。
駅から大学へと通う道すがら。覗き込んでしまったその子と話す麻紀ちゃんのショップでの笑顔に、私は胸が引き裂かれる思いだった。
不意に自然な仕草でひょいとその足を組んだ麻紀ちゃんは、慣れた様子で胡座を掻く。
ぱっと見でスリムだとは思えないが、その実麻紀ちゃんは細い。その程よく肉のついた細っこい太股が膝裏でするりと引っ込む括れ具合に、私は何故だか少しはらはらしてしまう。
麻紀ちゃんは小さい。それはまあ身長的な意味も含め、色々と。ああだけど、お尻はそうでもないと思う。なんて、こう言うと非常に変態くさいのだが。
それを最早開き直りつつも、やはり気にはしているらしい麻紀ちゃん。時折垣間見えるそんな彼女の女の子らしい面を、私はひどくいとおしく思っていた。
お腹を丸めるようにして足を組み合わせるその流れの中で、さらりと揺れたその艶やかな髪や、パンクなロゴが入ったTシャツから見えた滑らかな肌。私はただ何となく、その様子をぼんやりと見つめていた。
「…シオン」
「っ、うん?」
ふと掛けられた、麻紀ちゃんの声。私はぴくりと肩を揺らしその顔に目を向ける。
「ルイくん可愛いけど、毛玉凄いよ」
今度うちに連れてきな、と微かに笑んで続けた麻紀ちゃんに、私はそうっと胸を撫で下ろした。
「ああ…うん。ルイはブラッシング大っ嫌いだから」
「へえ。うちのは私がブラシ持ったら近付いてくるのと逃げるの、半々くらいだけど」
「良いなぁ。大人しくブラッシングされれば可愛いのにね」
猫じゃらしに飽きたのか、するりと私の横太股の辺りにその白と黒がメインの体を擦り付けてきた美麗な愛犬の喉元を、私は指を尖らせてこりこりと掻くようにして撫でてやる。美麗という言葉は親馬鹿ならぬ犬馬鹿ではなく、事実。ルイはひどく綺麗な顔立ちをした美人、いや美犬だった。日に当たったその真ん丸の瞳が、すうっと瑠璃色に透き通る。いつもは茶色の虹彩しか見えないはずなのに、やはりこれだけはいつ見ても不思議だ。
「麻紀ちゃん」
「何?」
私は麻紀ちゃんの顔を見照れを誤魔化すようにして小さくはにかみ、それを告げる。
「私、やっぱり麻紀ちゃんが好きだわ」
「うん」
麻紀ちゃんは何てことないような顔をして、真っ直ぐに私の瞳を見つめ返す。多分その黒には曇ることなく、麻紀ちゃんの姿が写っているのだろう。
「知ってる」
そう言って麻紀ちゃんは、その目をふっと細めて柔らかく笑った。
『好き』だなんて言ってくれない。『私も』とすら。
だからと言って麻紀ちゃんが私のことを好きではないという訳ではないのだろうけれど。
"麻紀ちゃん"。すっかり言い慣れたその名前はきっともう、私は呼び捨てで呼ぶことなどできない。
麻紀ちゃんに呼び捨てを拒否された、あのときに戻らない限りは。
麻紀ちゃんが私の『好き』という言葉に決まって『知ってる』と返すのはおそらく、それと同じくらいどうしようもないことだ。
「――で?」
目の前で猫のようにその瞳を細めた従姉妹が、さらりと声を発した。
「志緒はそれを私に聞かせて、私にどう言ってもらいたいの?その"麻紀ちゃん"も私たちと同じこっちの方に引き込んじゃいなよ〜、って?」
「私たち、って…。麻紀ちゃんには全然、"倫"の方に来る気なんてないよ」
律儀に倫の言葉を訂正した私の目の前で猫のような瞳がきょとんと、真ん丸に見開かれる。
「あれ?志緒は私と同じ側じゃないの?」
「……それを倫に聞いてみたかった」
私は目の前のコーヒーカップをひっくり返さないようにとそちらに注意を払いながら、しかしぐっと身を乗り出した。
「私って、レズなのかな?」
分からなかった。だから人に聞いてみたかったのだ。例えば、自分を同性愛者だと言って憚らないこの目の前の猫のような存在に。麻紀ちゃんに声を掛けられるだけで浮上する私のこの想いは、そしてこの嫉妬という醜い感情は過度の友情からくるものなのか…それとも。
私の向かいの席に腰掛ける倫はゆるりと小首を傾げ、その長い髪が重力に従ってさらり流れた。
「それを、私に決めさせていいの?」
私はひゅっと喉の奥が締まるような感覚に襲われた。言葉に詰まる。
対する倫のその表情は、いかにも楽しげで。
「ごめ…ん」
「ううん。良いの」
分かれば…ね、とゆっくり笑った倫に、私は思わず小さく顔を伏せてしまう。
しかし、私は直ぐにまた口を開く。誰かに聞いて欲しかった。このぐだぐだした行き場のない思いも、誰かに聞いてもらえるだけで随分軽くなるのだろうから。
私は麻紀ちゃんが好きだということ。
麻紀ちゃんと一緒に色々なことを――性的なことをしたいと思ってしまうこと。
好きすぎて麻紀ちゃんと仲の良い子相手に嫉妬の思いを抱いて仕方がないということ。
私も大好きな友人が麻紀ちゃんと仲良くするならまだしも、今麻紀ちゃんと一緒に働いている女の子相手ではいたく胸が苦しくなってしまうということ。
全部を話した。
全部、取り敢えず倫に話せることは、全部。
倫はじっとそんな私の様子を見つめていた。まるでどこかのおとぎ話に出てくるピンクと紫色の縞模様の猫のような、真ん丸な瞳で。
ややあって倫は、そっとその唇を開いた。
「――にしても…志緒、あんたも大概変な奴よね」
「…何が?」
私は冷静に訊ねる。倫のそこから放たれるであろう質問にはそのとき既に、大体の検討がついていた。
「何でその小学校からの友だちってだけの女相手に、嫉妬する訳?」
私は答えない。
「だってその麻紀って子――…今、彼氏いるんでしょ?」
――…何故なら、その答えは簡単だからだ。
「だってあんな男相手に、麻紀ちゃんがたぶらかされるはずないよ」
…あのときの私の愚かさを、私は今でも後悔している。
沈黙を保って、十数分。
目の前に誰かがいるということを軽く忘れて、私は静かに手元のグラスの中味をかき回す。
ぽつり、溢した言葉は、最早一人言のつもりだった。
「……麻紀ちゃんにね、私、言っちゃったの」
倫は何も言わない。それは、私が返事を求めている訳ではないと気づいていたからだろう。
「麻紀ちゃんは普通に結婚して、子どもを生みたいって言ったの。だから私、『私は子どもを生まないから、そのときは麻紀ちゃんの子ども、抱かせて』――って」
私はふと、唇の端でだけ小さく笑みを溢す。
視線を下に向けるのは、過去を思い浮かべているから。そこにあるのは――麻紀ちゃんの静かな笑顔。
「そしたら麻紀ちゃん、『うん』って言ってくれたの」
――麻紀ちゃんの、未来。そこに、私もいる。いさせてくれる。
そのときの私は麻紀ちゃんのその言葉を、勝手にそう捉えた。
それだけで十分だと思えた。
この先の麻紀ちゃんの近くにも、私がいる。それだけで。
私は麻紀ちゃんの為なら、何でもしてあげたい。いくらでも尽くしたい。
だけど、
私は麻紀ちゃんに、女としての幸せを与えてあげられない。
結婚もできない。
男女として交わることもできない。
子どもも作ってあげられない。
だけど、一緒にいられる。
それだけで十分だ。
十分。――…だけど、
「…ねえ、倫」
光に透けた静かな猫の瞳が、私を射抜く。
私は力なく、おそらくは情けない顔で…泣きそうな思いで、それでも口の端を持ち上げた。
小さく笑って、言う。
「私、どうしたら麻紀ちゃんのこと…諦められるかなぁ?」
――どうしたら麻紀ちゃんのことが好きだってこの想い、忘れられるかな。
そう言った私の声は僅かに、震えていた。
「…そんなの、」
倫の瞳がふと、僅かに伏せられる。
その仕草は静かに、過去を反芻するときのもの。
「こっちが知りたいよ」
今倫の瞳には誰か、愛しい人の笑顔でも浮かんでいるのだろうか。
「――だけど、ね。私は、」
…諦めない。
そう断言した倫の表情は、ひどく強気なものだった。
しかし、私には分かる。それが所詮、強がりでしかないと。
「一生報われなくったって、私は私の好きな子が好きなの」
それでも笑うこの猫は、なんて強いんだろう。
私は微笑んだ。倫もふわと、その表情を緩める。
――私も、麻紀ちゃんを諦めることなんて…できない。
私のこの苦しみはきっと、なくならない。だけど、答えは出た。
清々しい思いで、私は笑う。
笑って、倫に向かって宣言してみせた。
「倫」
「ん〜?」
「私ね、麻紀ちゃんが好きなの」
猫は笑った。
それはそれは、愉快で仕方がないといった様子で。
「知ってる」
――その言葉は何よりも、私の想いを受け入れてくれているように思えた。
11.11.12
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