俺は明日でやっと、あのノミ蟲野郎から解放される。

 ふとそう思った俺は、この三年間であった碌でもない出来事を次々と反芻していっていて。思うところは色々あった。それは怒りや憤りを主とはしていたものの――…それらが明日になれば全て終わるのだと考えれば、どこか感慨深い。
 そのあれやこれやを考えていた俺は、ついにその夜眠ることができなかった。




 窓際の最後列。内職や居眠りに最適な場所とはいえ、俺が三年間もの間ずっとこの席にいられた理由とは誰が言った訳でもないがつまり厄介者は視界の外へということなのだろうから複雑だ。勿論、陽当たりも風通しも良好で何かと都合の良いこの場所に、俺が甘んじて追いやられていたということもあるのだが。
 春先の、まだ暖まりきらない微妙な温度。それでも全開にした窓から吹き込んできた緩やかな風に、俺は目を細める。
 外は生憎の曇り空。遠くからは小さく、『旅立ちの日に』のメロディが響いていた。



 これが、俺の人生で最後の登校となる。そう考えた上で時間には十分余裕を持って家を出たはずの俺がしかし卒業式に間に合わなかったのは、道の途中で遭遇したチンピラ風の男たちにあらぬ因縁を吹っ掛けられた所為。そしてその男たちを上手く煽った黒幕など――もう、疑う余地もない。



――あの、害虫野郎が…。

 最後の最後まで俺を苛つかせてきたあの男は今ごろ、何でもないような顔をして式に参列しているのだろうか。
 土埃に汚れたブレザー姿で今さら体育館に乗り込むこともできずに、俺はただ静かに教室の窓から微かな歌声に耳を澄ます。しかし、やがて訪れた退屈。俺は軽く息をつくとするり机上で腕を組み、そっとその中に顔を沈めた。
 珍しい程の静寂に満ちた教室。冴えに冴えた昨夜と異なり、俺の意識は直ぐに眠りの中へと飲み込まれていった。



 …夢を見た。

 俺は、臨也といつもの如く殺し合いの喧嘩をしていて。視界の隅では門田が頭を抱えている。新羅はそれとは対照的に、楽しげにこちらの様子を観察していた。それは、普段と全く変わりのない…日常の光景だ。
 ――ずっと続くような気がしていた。別に、俺がそれを望んでいた訳ではない。ただ、漠然とこの日々には永遠に終わりなど来ないように思っていた。

 今日という日が来るまで、ずっと俺は、



 …ふわり、

 ふと感じた、少し低めの温度。
 柔らかく俺の髪を掬い上げたその感触はしかし、少しばかりひんやりとしながらも嫋々(じょうじょう)と大気を揺らす春の風とは明らかに違う。俺には分かった。

 瞼が重い。しかし、俺はやっとのことでそれを動かすと薄目を開く。

 どうやら、思っていたよりも随分と長い間深く眠りについていたようだ。しかし、俺はまだ眠たくて。薄暗い室内。逆光で、その顔には深く陰がかかっている。

――…んだっ、け…。

 ふと、俺の脳裏を過った言葉。

――誰そ彼……黄昏時…じゃなくて、もっと、

 記憶のはしっこに眠る、ある日の古典の授業。俺は、そのときに聞いた声を働かない頭でうっすらと反芻する。
 厚い雲で空が覆われている所為だろうか。辺りに夕暮れ独特の茜色は見当たらず、それは黄昏というよりはまるで、夜明け前の薄暗いときのようで。


――…かは、たれ……。


 誰だろう、こいつは。逆光の中でしかし見つけた、緋色に光るこの不思議な瞳を持つこの男は、一体。

「――馬鹿だね、シズちゃん…」

 ぽっかりと開いたそこから、小さく溢れ落ちてきた言葉。
 誰だ。誰だ、俺をそんなむかつく呼び方で揶揄する奴は。


「これで俺から、離れられたとか思わないでよね」


 ……知らない。こんな奴、俺は知らねぇ。
 こんな風にひどく優しい瞳で、俺のことを見つめる奴なんか。



 目が覚めた。

 すっかり太陽は地平線の下に隠れ、辺りは真っ暗になっていた。ぶるり、俺は冷えた体を小さく震わせ、ゆっくり己の体を引き起こす。

「――…あ……?」

 そして気づいた。下に向けられたままだった俺の視界が捉えたそれ。自分の鳩尾あたりから伸びる、短い糸。
 その代わりとでも言うべきか。本来そこにあるべきものは、俺がいくら目を皿にしようとも見つけることができなかった。何の変哲もない、いつもブレザーに光っていたはずの――学ランとは違い、第二ボタンよりも心臓に近い――第一ボタンが、何故か。

「……………」

 ちらり、俺は僅かに視線を辺りの床へと巡らせ、しかし直ぐにその形だけの捜索を打ちきる。
 ないものはないのだ。

 校章も何もない小さなただの留め具の在りかなど、俺には分かるはずもない。


彼は誰


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