見下ろした街に、立ち並ぶビル。小さくてまるで作り物のような人々。おれはぎゅっと両の手のひらを握り締めた。ここから見える景色が、憎い。あっちがいつも、おれからご主人さまを奪うんだ。衝動的にその憎たらしい世界を映し出す目の前の大きなガラス窓を叩き割りたくなったが、我慢。きっとあの赤い瞳の両端が、悲しげに下げられてしまう。おれはきりりと奥歯を噛み締めた。

 かちゃり、そのとき不意に空気を揺らしたのは、小さな小さな扉の音。おれはぴくりと耳を立てると同時に、一目散に駆け出した。
 早く早くと急かす心に縺れそうになる足を動かして、おれはぴょんとそこに身を躍らせた。

「いざや!」

 靴脱ぎかけた状態でふと、その顔が持ち上げられる。その綺麗な赤い瞳がふわりて緩められるのが待ちきれず、おれは勢いよくそこに飛び込んだ。

「いざやおかえりっ!」

「わっ、と…」

 その体には回りきらない両腕をそれでも思いきり突き伸ばしておれがそこに抱き着けば、いざやは危なげなく一回りも二回り何回りも小さなおれの体を受け止めた。
 ぱたぱたと千切れんばかりりおれのお尻で尻尾が揺れてしまうのはもう、どうしようもない。

「ただいま、シズちゃん」

 そう言っていざやが笑ってくれるからもう、おれにはそれだけで他はどうでも良くなってしまうのだ。尻尾なんて別になくなってしまったって構わない。いや、だけどそしたらいざや、悲しむかな。それならおれ、やっぱり嫌だな。
 急にしゅんと耳を折り曲げたおれを見て、いざやは何か別のことを思ったのだろう。

「今日はね、ハンバーグだよ。帰るの遅くなってごめん」

 お腹減ってたよね、と言ってその二つの眉をちょこっと下げたいざやはおれの気持ちには気づいてくれなかったようだ。だけど、おれはおれでぴくりとその言葉の方に気を取られる。

「ハンバーグ?」

「そ。ちゃんとチーズも乗っけてあるよ」

「ハンバーグ!」

 ぱあっと途端に両目を輝かせたおれは、自分でも単純だと思う。だけど、嬉しいんだから仕方がない。

「ね、ね、いざや! プリンは?」

「プリンも買ってきたよ」

「やり〜!」

 おれはウサギのスリッパに足を突っ掛けたいざやの周りをぱたぱたと駆け回り、しかし直ぐにその手を掴むとぐいぐいとリビングへと引っ張り声を上げる。

「早くっ、いっしょに食べよういざや!」

「はいはい」

 苦笑いを溢すいざやの顔はやっぱり優しくて、おれは嬉しくて嬉しくてへへっと頬っぺたをちょっと熱くして照れ臭さにはにかんだ。





 熱々のハンバーグにかぶり付いて、つるんと甘いプリンを味わって、いざやに洗ってもらった髪をまたいざやにふいーんと音のなる機械で乾かしてもらっている途中。手持ちぶさたになったおれはゆらゆらと二つの脚を揺らしてみる。お風呂でぽかぽかと上気した体。ぽわんと赤く色づいているこれまた二つの膝小僧を見つめて、おれはぼんやりといざやの柔らかな手つきに神経を集中させる。しかし、それも次第に飽きてしまった。

「…なあいざや?」

「んー?」

「おれ……さみしい」

 ぽつんと溢れた言葉は、ずっとおれが胸の内に隠していた思いだった。しかしそれは思っていたよりもずっと悲しそうな声で出てしまったことに、自分でも驚く。ぴたり、いざやの手のひらの動きが止まった。だけど、一度言ってしまえばもう後には引けなかった。
 おれはゆっくり、後ろを振り向く。

「いざや、もうおれ、一人ぼっちで待ってることしかできないの…やだよ」

「シズちゃん…」

 ふいーぃ…ん。

 賑やかな音がいざやの手のひらから鳴り止んだことにより、広い室内にはしんと耳が痛くなるような静寂が満ちる。
 その静けさになんだか責められているような気分になったおれの視界は、直ぐにじわりと熱く揺らいだ。そしてあっと思ったときにはもう、ぽろりとしょっぱい滴が落ちてくる。

「…ごめんね、シズちゃん」

 小さく囁いたいざやの声に、おれはおそるおそる視線を持ち上げる。

「俺だって本当はずっと、シズちゃんと一緒にいたいんだけど」

「…ほんと?」

 不安でそっと見上げた先。そこで、いざやはちょっと困ったような顔をして笑っていた。すっとおれの頭の上に伸びてきた手のひら。それがそっとおれの耳を後ろに押し流すようにして頭を撫でてくれたから、おれは思わず尻尾を持ち上げる。だけどやっぱり寂しいことには変わりがないから、先っぽはちょっとへこたれた。中途半端で変な位置に、おれの尻尾はふにゃりと止まる。

「本当だよ」

 いざやの声は凄く、おれの喉の奥の辺りがきゅうっと苦しくなるくらいに優しかった。

 いざやいざや。おれの耳はあのウサギっていう動物みたいに長くないし、毛もふわふわじゃなくてもふもふしてるけど、いっつも寂しくて淋しくて死んじゃいそうなんだよ。

「ごめんねシズちゃん」

 いざやはもう一回謝った。
 だけどね、ねえいざや、違うよ。そんな悲しい顔して笑わないで。





 次の日の朝。いざやはいつもの真っ黒なコートを羽織るとやっぱり外に出ていった。尻尾と耳の両方を下げたおれの頭を、いつもよりも凄く念入りに撫でてから。だけど、おれはやっぱり寂しかった。心臓の辺りにぽっかり開いた穴の中に、ひゅうひゅうと冷たい風が吹き抜けるようだった。

 だからおれは、考えた。いっぱいいっぱい考えた。どうしたらおれは、こんなに苦しい気持ちにならないで済むか。どうしたらいざやはあの赤い瞳を崩して嬉しそうに笑ってくれるか。

 そしておれは、思い付いた。とっておきの方法を。

 おれは抱え込んでいた膝から手を離し、柔らかなソファから飛び降りる。うきうきの気分を隠せずに、おれは尻尾を揺らしてリズミカルに歩いた。直ぐにたどり着いたのは玄関。真っ暗だったけど、電気のスイッチがある場所は高い。それに、おれはいざやが帰ってきたときに差し込むあの目映い光も好きだった。その光はまるで、いざやがおれのことをこの暗い世界から助け出してくれる救世主のように見せてくれたから。
 だけど、そんな気分も今日で終わりだ。おれは息を潜めて大好きな大好きなご主人さまの帰りを待つ。ぺたりと完全にお尻を床につけて、きちんとお座りして待つ。入り口に近いそこの床はどうしても僅かにひんやりとして冷たかったけれど、今のおれには少しも気にならなかった。その瞬間を思い描いてみれば、自然と尻尾も揺れる。おれはふにゃりと頬を緩めた。

 いざやいざや、おれ分かったんだ。どうして気づかなかったんだろう、今まで。おれはただ、いざやのその両足を噛み砕くだけで良かったんだ。ね、ね、そうでしょ。だってそうしたらおれたち、ずっと一緒にいられる。初めはいざやもちょっとは痛がるかもしれないけど、その内それも分かんなくなるだろうし……いざやも、行きたくもないところに行かないで済むって、俺とずっと一緒にいられるって分かったら笑って許してくれるよね。
 ああ、早く帰ってこないかな、いざや。いざやいざやいざやいざや。早く会いたい。


 喜んでくれるといいな。




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