おれは胡座をかいて、見た目はひどく細っこい背中をじっと見つめる。ぴらり、ローの細い指先が分厚い本のページを捲る様を、おれは熱心にベッドの上から眺めていた。こんなの、よくあること。
 船でのおれは所謂末っ子ポジションという奴らしく、何かと騒ぎを起こしてはマルコや親父から拳骨をもらう。だがしかし、おれだって毎度毎回毎日煩い訳ではないのだ。当たり前のことだが、弟の前で格好付ける以外でだって大人しくすることはできる。
 しかし、それにしてもこれはあんまりではないだろうか。

 じとっとしたおれの視線にも気づかず、ローは本を読む。読む。読む。そろそろ五時間は経っただろう。それを黙って見たままでいられる自分を、おれは盛大に称えてやりたい。
 しかしちらりと視線を移し、おれはおやっと首を捻る。小さな窓の外は茜色。もう直ぐその陽は地平線に沈むだろうというところに、ぽかりと浮かんでいるのが見えた。…丁度、五時間前と同じところに。はてなとおれは首を捻る。もしかしたら案外、そんなに時間が経った訳ではなかったりするのだろうか。他人からすれば『ああ、やっぱりエースはエースだ』と思われるような間の抜けたことととは露知らず、おれは真剣に疑問符を飛ばす。

 そのときはあ…と、大きく動いた背中。それは当然この部屋にいるおれ以外の唯一の人間、ローのもの。
 おれは驚き、軽く目を見開いた。

「…どうかしたのか?」

 見ればローの開くその本はまだ、かなり初めの辺り。いつもなら一つの本を完全に読み終わるまでは飲むことも寝ることも食うことさえも放棄してしまうローが、珍しい。
 机の上でぱたりとその本を閉じたローはゆっくりとおれの座るベッドまで歩み寄ってくると、ぎしりと軽くそこを軋ませ静かに腰を下ろす。
 体調でも悪いのかと心配になったおれがその顔を覗き込もうと軽く腰を浮かせかけた瞬間、くるりとこちらを振り返った深い紺の双眸。

「煩ェ」

 おれはぱちぱちと瞬いた。

「………」

「………」

「………」

「………」

「は?」

 漸くとその言葉の意味を掴んだおれの脳は、そんなひどく間の抜けた一つの音をおれの唇から紡ぎ出させる。ローはそんなおれの顔を見つめたまま呆れた表情を作ると、ややあって再度言い聞かせるような調子で言葉を続けた。

「煩ェ。…そんなにおれが本ばっか読んでんのが、嫌か」

 おれはむっと、眉を潜めた。再度じと目を発動させると、隈で縁取られたその瞳を軽く睨み付ける。
 ローがそれを大切なことだと思っていることだとおれは解っているからこそ、健気にそれが終わるのを待ち続けていた。誰にだって、それをするときには集中したいということがある。例えば、おれで言う食事の時間のように。あの時間だけはローに誰にだって、邪魔はさせないぞ、と。そんなことを内心で呟きつつ、おれは口を開いた。たっぷり、不満を滲ませた声を出して。

「何だよ。おれ、ちゃんと静かにしてただろ」

「雰囲気が構って欲しそうなんだよ」

 瞬間的に切り返された。違うとははっきり言い切れないおれは、黙って口をつぐむ。
 するりと、不意にローのその腕が伸ばされてくる。おれはその動きを避けるでもなく、ただじっとローの顔を見つめていた。

 ふわり、と。

 その手に引き寄せられ唇に落とされたものは、まるであやすようなキス。おれは目を見開き……そしてきっ、と。ローは見ていないとは知りつつも、苛立ちに任せ視線を尖らせた。

 畜生、おれの方が歳上なのに。

 悔しくなったおれは咄嗟に、その薄くてひやりと温度の低い唇に犬歯を突き立ててやる。がりっ、酸っぱくてしょっぱくて、ちょっと甘い…気がする。鉄みてぇな匂い。血の味が滲んだ。悪くない。不味くは、ない。
 おれはするり、その唇から顎を引き下げた。

 ローはおれの鼻先三センチ手前でぺろりと、滲んだその赤を自身の舌で舐め取る。無表情なその顔は、ひどく危険な色香を放っていた。やけに爛々と輝くその海の色の瞳に、おれは嬉しくなって頬をつり上げる。

 ざまあみろ。


「…ポートガス屋…」

 小さく、唸るような声を発したローの瞳を見返し、おれはからりと悪びれもせずに笑う。

「ロー、似合うな。赤」

「…当たり前だ」

 さてローはひどく苛立たしげにおれを睨み付けてくるものの、あっちは超人系(パラミシア)。こっちは自然系(ロギア)。どちらに分があるのかは言わずもがな。おれは余裕の表情でにやりと口元を緩め笑って見せる。

 と、不意にローは怖い顔をしたままベッドの下へと手を伸ばしたかと思うと、ごそごそと何かを探すようにしてそこ漁りだす。おれが首を傾げていれば、ぴくりとローの柳眉が歪んだ。その腕の動きも止まる。

「…ロー?」

 ひどく気だるげな様子で、ローはその体をゆっくりと起こした。その顔はどこか、しんどそうに見えて。おれは戸惑い、おそるおそる手のひらを伸ばす。ふと、ローの瞳がおれの二つの手を捉えたのが分かった。


 ――…かしゃん。


「……は?」

 おれの口から困惑に満ちた声が上がったのも、当然。呆然と己の両手首を見下ろせば、そこにはどこかで見たような形の手錠が。

「海楼石だ」

 冷静なその声が耳に届くのと同時に独特の倦怠感に苛まれたおれの体はくらり、揺れて。対照的に数秒前の具合の悪そうな顔はどこへやら、ローは飄々とした態度でおれの顔を見、笑った。

「形勢逆転だな」

「…ッ…」

 次に伸びてきた腕はあろうことか、おれの首をがしりと鷲掴んで。おれが思わず息を止めた瞬間、ぬるりとその舌がおれの唇を押し入ってくる。おれが慌てて酸素を求め大きく息を吸い込んだときにはもう、そこに隙間はなかった。規則的に並ぶ白の土台となっている歯肉を舐られ、奥へと逃げ込んだおれの舌は無理矢理に絡め取られ吸われ引き出され、はッ…とその激しい咥内の貪り合いの中で見つけた酸素に息を喘がせれば、そんなおれの様子を観察していたのかローの青がふっと笑った気がした。
 膜を張った滴に、屈折した世界が映る。
 そして唐突に一瞬離れたローの唇がちゅっと啄むようなキスをおれのそこに落としたときにはもう、おれは自身の舌を戻すことすら儘ならない状態で。


 ――ガリッ…、


「ッ!?」

 そこを噛み付けたのは当然、目の前のこの男。おれはびくりと、思わず眉をしかめてしまう。実体化を余儀なくされたおれの舌からはじわり、熱い液体が滲み出してきて。

「っ、てェ…」

 思い切り舌に噛み付くなんてとおれが非難がましくその青を睨み付ければ、ローは涼しい顔をして笑った。おれはどうにかこうにか息を整えたあと、未だに力が入らない体を揺らして唇を開いた。

「…てめェな…下手したら、死ぬぞ」

 ぐったりとしたおれの様子を見下ろし、ローはそれはそれは愉快で堪らないといった表情のまま再びおれの唇との距離を詰めてくる。


「それも良いな」



bloody kiss



 絡めた温もりからはくちゅりと水音が溢れ、如何にもこいつらしい味がおれの舌を刺激した。




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