気だるい身体を捻り、おれは静かに視線を持ち上げる。小さな円形から差し込む月影が、眩しい。おそらく海上の月は満ち満ちているのだろう。 水の音がする。しかし、それは聞き慣れた波の音ではなかった。 存外、筋肉が付き引き締まった背中。そこに浮かぶ肩甲骨が、僅かに揺らぐ。すうと横を向いたトラファルガーが、サイドテーブルの上にピッチャーを置いた。ちらりとその視線がこちらを向いたような気もしたが、その手はそのままグラスを煽る。…そもそも、こいつは人に水を注いでやるような奴ではなかった。 おれは月明かりに照らされ青白く輝くその艶やかな喉仏が上下する様を、じっと見つめていた。 ふと、おれは手のひらを持ち上げた。ベッドに身体を横たえたまま、おれは天井を背景にそれを見る。 欠けた黒から見えた自分の爪。剥げたマニキュアほど間抜けなものはないな、と、おれは僅かに眉を寄せ考えた。ぼんやり、そこにある五つの爪の一つ一つを眺める。 それからふっと動いた気配に、おれはまた視線をトラファルガーに戻した。目が合う。月光に照らされたその男は、相変わらず不健康な顔をしていた。いや、寧ろ拍車が掛かっているようにも見える。 どこか彫刻を思わせるその腕が、真っ直ぐこちらに伸ばされた。いや、彫刻と言うには些か、そこに彫られたトライバルの刺青は凶悪過ぎたが。 「――貸せ」 「…は?」 「マニキュア」 深刻な隈が縁取るその深い海の色は、やけに強い光を放つ。 おれがそれを持っていることを確信しているようなその声色は、傲岸不遜という言葉が相応しい響きだ。 「塗ってやるよ」 おれの手首を掴んだその力からも、やはり傲慢さを感じた。いつも俺を組み敷く手のひら。その細い、しなやかな指の感触を、俺は妙な思いで受け止めていた。 伏せられた睫毛は、その頬に長く影を落とす。おれはベッドの上に胡座をかいて座りながら、ぼんやりとその陰影を見つめていた。流石に医者なだけのことはあり、トラファルガーは器用だった。おれより手早いくらいのスピードで、そこを黒に塗り潰していく。そのとろみのある液体を斑なく重ねる小さな刷毛がこそばゆい。視線を落としているがために時折向けられる濃紺の髪が流れる旋毛は、ひどく見慣れなかった。 「…気持ち悪ィ」 ぼそりと。思わず漏らしてしまったのは、紛れもなくおれの本音。しかし、自分でも何故そう思っているのか理由は解らなかった。ちらり、トラファルガーは僅かにその瞼を持ち上げただけで、特に何の反応も見せない。勿論、その手の動きも止まらない。チッ…と、おれは小さく舌打ちを溢した。沈黙が降りる。 どうしてだか落ち着かない思いのおれは苛々としながらも、しかし直に終わるものだと自分を宥めなんとか堪えることにした。 「…いつもはユースタス屋が奉仕する側だからな」 「あ…?」 ぽそりと唐突に呟かれた声からは、僅かにおれを揶揄するような笑み含んでいるように感じられて。ぴくりとおれは蟀谷を震わせ、眉間に深く皺を刻む。 しかし一拍の間を置いてその言葉の意味を反芻したおれは、思わず憤りの念を収めてしまう。成る程、しっくりきた。だからこそおれはこんなにも、尻の据わりが悪いのか、と。 だがしかし一度はひどく納得してしまったものの、おれはどこか腑に落ちなかった。 「…できた」 ――ふうっ…、と。 そこに緩く息を吹き掛けてきたトラファルガーはにやりと底意地悪く、おれの顰めっ面を見上げてきて。 「…、」 腑に落ちないのではなく、落ちたくない。それは翻弄されてばかりの自分を、おれが認めたくはなかったから。 海の色がさあ早くそう認めろと、おれを言外で責付くものだから、おれはそれを嫌でも認識させられてしまう。 こいつはつくづく嫌な男だ。腹が立つ。 「…さて、」 塗りたてのエナメル液で包まれた爪を上手く避け、ぱしりとトラファルガーはおれの手を取る。 「まだヤるぞ、キッド」 「は――…」 疑問の感嘆詞を上げきる前に、おれの身体は広く真っ白なそこに沈められた。 とん、と。緩い力で波打つシーツの上に縫い止められた手首。おれは爪に乗った色をそこに付けまいとして、さながら獣が爪を剥くようにして五つの指を折り曲げる。おれの手を押さえるその枷は直ぐに離れて行ったがしかし、おれはそこから腕を上げない。初めからその気だったらしいこいつに今さら抵抗したとこれで無駄だということはもう、今までの経験から分かりきっていた。 間髪を容れずに顎を捉えられたかと思えば、噛み付くようにしてトラファルガーの唇が重ねられる。こいつはおれの息の根を止める気なのか、と。不意を衝かれて直ぐに訪れた酸欠にいかれた脳で、おれは朧に考える。悔しいことにキモチイイ。俺は眉をしかめた。 「後で口紅も塗ってやろうか?」 散々人の咥内を乱しておいて離れた余裕そうな唇が紡いだ台詞。トラファルガーは憎たらしいほど絵になる顔で笑っていた。 いつの間にかおれの両足を割り入っていたトラファルガーのその膝が、ぐいぐいとおれのモノを刺激してくる。 おれも笑った。荒れる息は圧し殺して。自分の思う限りで一番凶悪な顔を作り、口端をつり上げてにやりと、牙を剥き出し笑って見せた。 全部認めてやろう。おれは、そう思った。 「早く抱けよ、ロー」 ただしおれを制限するこの黒が完全に乾いたときには、その背に深く爪を立ててやろうと決めて。 111210 そしてまた剥げる。 |