全身の細胞が叫んでいた。
 早く。早く早く早く。

 そして何故だか俺には分かった。津軽が今、どこにいるのかということが。寧ろ今までどうして分からなかったのかと不思議に思うくらいに、それは当然のように感じられて。
 心に急かされるまま、俺は焦れったい足を縺れさせまいと必死で駆ける。

 五十メートル先に見えた歩道橋の、その上には――…





 金の鬣が、ふわりと風に浮かぶ。
 昨日の大雨がまるで嘘のように清々しく晴れ渡った青空の下、柔らかな陽射しに照らされたその姿は何だか透き通って見えた。

 自分の荒い呼吸が耳につく。それを無理矢理押さえつけつつ俺がゆっくりと歩を進めれば、ふっと自然な動作でその青は俺を捉えた。

「――…あまり、お前にはこんな姿を見られたくなかったんだがな…」

 そこに立つ津軽の姿は希薄だった。本当に陽射しに透けているのだ。
 触れられないわりにはっきりと見えたその体はもう薄ぼんやりとしていて、ともすればその後ろの景色が分かる程。

「…だが静雄、お前に会いたくもあった」

「――津軽…っ!」

 ふわとひどく儚い夢の中の人物のように笑ったその眼に、俺は堪らず駆け寄った。
 本当はその体に抱き着きたかった。しかしその袖を掴んだはずの俺の手のひらは、呆気なくするりと太陽の光に満ちた空気をすり抜ける。

 俺は動揺した。そして、どうしようもなく切なくなった。

「津軽…俺、俺は……」

何か言わなければと、焦燥ばかりが気を逸らす。そのときの俺の表情は、さぞ悲痛なものだったと思う。
 しかし、津軽はそんな俺の顔を見てひどく愛おしげに笑った。

 その瞳を見ただけで俺はもう、何も言う必要がないと悟った。何故なら全てが伝わって来たからだ。津軽の考えていることが、全部。

 そこには少しの悲しみや苦悩などはあったものの、津軽は…――ひどく幸せそうだった。

 俺は触れられない津軽の手のひらに重なる己の甲をちらりと目で見やる。不思議な感覚だった。それはまるで、俺の手が重なる津軽の幻像から津軽の想いが流れ込んでくるようで。多分、津軽も同じなのだろう。

 だけど俺は言葉を紡ぐ。どうしても津軽は声で伝えたくて仕方がなかった。

「俺は…お前に会えて、良かった」

「ああ」

 津軽は鷹揚に頷いた。その顔はどこまでも、優しい瞳で笑っている。

「こんなこと言うと…もう、一生会えねぇみてぇで嫌なんだけどよ…」

「ああ、解っている」

 津軽の声は穏やかだった。

「お前には悪ィけど、俺はお前が長い間ずっと一人で苦しい思いをしてきたことも…有り難く思ってる」

「ああ」

 そしてなんとも自己中心的な発言を溢した俺の顔にさえその相貌を崩して、それはそれは嬉しそうに――…笑う。

「俺も今ならそう思える」

 俺の全てを受け入れて。

 ふと、沈黙が降りた。それはまるで俺たち二人を包み込むような、そんな柔らかなもので。

 こちらを見つめる青がどこまでも優しいから、俺はその雰囲気を壊したくなくて静かに息を詰める。
 津軽もそれに逆らわず、ただ黙って沈黙を保った。

 それから、何十秒かが経ってからだろうか。

「――…時間だ」

「…え?」

 津軽が唐突に告げた、タイムリミット。

 目を見開いた俺の目の前でさらさらと何か半透明な英数字のようなもの――津軽を形成する情報が、ゆっくりと流れていく。津軽の姿が、希薄になっていく。
 目を見張った俺の前で、津軽は困ったように苦笑いを溢した。

「…そんなに切ない瞳で、俺を見つめないでくれ」

 俺はぐっと、唇を噛み締めた。切ない顔をしているのは津軽も同じだろうが、と。言いたくてももう、俺の口からは言葉が出てこない。
 津軽の青の衣がふわと、光り輝いた。…違う。津軽の体が太陽の光に明確に透け出したのだ。すうとその先がクリアになる。津軽の立つ、その向こう側が見えた。誰もいない、橋の向こう側が。


「――――」


 俺はぱくと口を開いた。声は出なかった。

 津軽はそんな俺の顔を見つめてふわり、その目じりを下げる。


 ――…ぱぁああ、と。


 今度は確かに、津軽のその体が光を発した。

 薄くなる。

 津軽が…いなくなってしまう。

「――――…あ」

 やっと俺の唇が震えたときには、もう手遅れだった。
 津軽はふっと、まるで俺の肩の上に頬を寄せるようにしてその身を傾ける。

「もし俺が次に生まれ変わって、静雄のような完全な人間になれたなら」

 俺の耳朶を打ったその声は、ひどく柔らかく。


「――…俺たちはずっと、一緒にいられるかな」


 触れられない体。しかし確かに俺たちの体は重なり合った。

 足音などは存在せず。しかし体が重なり交わった状態でなお、津軽が更に一歩足を踏み出すのが俺には分かった。幻であるその体は当然閊えることもなく、するりと津軽の存在は俺の体に見えなくなる。

 何故ならそこには、何もないのだから。

 存在しない津軽の体は、しかし俺の中に入り込み――…まるでそこにあるのが当然のように馴染んだ気がした。

「…俺は消えてなくなりはしない。いつもお前と共にあると誓おう」


 ――ああそうだ。津軽は他でもない、俺自身だった。…と。


 俺はひどつ懐かしい事柄を思い出した気分で、ほうと霞む津軽の動きに見惚れる。

 津軽は最後にひょこりと俺の顔を覗き込み、それはそれはたおやかな表情で――笑った。

 俺は思わずすうっと、両の手のひらを何もない前の空間に差し伸ばす。





「―――…津軽……」





 粒子となって掻き消えた青の姿はもう、そこには見えない。

 俺はちっぽけな橋の上、一人佇む。


「………、…」



 しかし何もなくなった空間に取り残された俺の腕に何故だか、ふわと人肌の温もりを感じた気がした。


 …俺の頬を静かに流れた雫と、ちょうど同じくらいの温度の。




111209
 
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