いつかこうなってしまうような、そんな予感はしていた。 しかし、俺はそれをどうしても認めたくなくて――…。 探しに行かなくてはと、初めはそうも思った。しかし俺が部屋から飛び出した途端、津軽が戻ってくるのではないか。そうやって、入れ違いにでもなってしまったら困る。そう考えて俺は、下手に動かない方が得策だろうと考えた。我ながら凄く、冷静な判断ができたと思う。 ぽたりぽたりと自分の前髪から滴る水滴を拭おうともせず、俺はそれを熱心に見つめていた。飽きることもなく、じっと。 しかし、やがてそのリズムは次第に遅くなっていき、ついには止んでしまった。仕方がないので俺は次に、外の雨音に耳を澄ます。ざあざあ。ざあざあ。そして…びりり、時折俺の肌を揺さぶった震動。どうやら雷まで降ってきたらしい。響いた雷鳴は近く、津軽は大丈夫だろうかと俺はぼんやり考えてみる。 くう、と。自分の腹が何度か小さく鳴いていることにも気づいていた。だけど、俺はどうしても食卓に並べられたそれらに手を付けようとは思えなくて。津軽と一緒に食べるんだ、と。俺はまるで幼い子どものように、健気にそれを望んでいた。 津軽は絶対に戻ってくる。俺は馬鹿みたいにそう信じ込んでいた。 今までずっと家の中に閉じ籠りっぱなしだったのだ。津軽だってたまには、外に出たくなるときだってあるだろう。そう考えて。 帰りの遅い津軽を待っている間、することもない俺はぼんやりと思いを巡らせる。 ――自分はやはり、津軽に依存している部分がある。それは前から、ずっと自覚していた。だけど、それで良いのだとも思う。 何故なら津軽は俺自身。決して離れることは――ないのだから。 と、そのとき。 ……――ぞくり…、と。 突如背中を駆け上がったのは、抗いがたい寒気。俺はぶるり、体を震わせる。 どうしてだろう、別に、寒くなんてないのにな、と。俺は一人はてなと首を捻る。 …津軽は、まだ帰って来ない。 額に貼り付いていた髪の毛が、すっかり湿気をなくした頃。 俺の心にはぼんやりと少し、不安が湧き上がってきた。津軽の奴、もしかしたら道でもに迷っちまったのか?…と。 ふと、カーテンが引かれていない窓から俺は、ガラス越しに外の空を見上げた。 遠くの方から漸うと、漆黒の端っこが白んできている。いつの間にか曇天を払拭していた空はすうと透き通り、薄明かりの中にぼんやりと薄く半端な月が見えていた。 アスファルトを打つ雨音は、もう…聞こえない。 津軽、遅いなぁ…と。 俺はだんだん、拗ねてきたような気持ちになっていった。全く、こんなに遅くなるんなら一言連絡くらい寄越せよな、と。俺は唇をへの字に引き結ぶ。 帰ってきたらそうだ、こんなに待たせたんだからプリンでも作れよとでも言ってやろう。俺はむくれながらも、そんなことを考えていた。 ……そのとき。 ♪〜♪〜 「っ、」 鳴り響いたメロディ。 びくり、俺は体を震わせる。 反射的に取り出した携帯電話。そこに表示された時間は、いつも仕事があるときの起床時間で。 ――…俺は夢から覚めたような思いだった。 今日は仕事など、ない。 しかし、俺の体を走り抜けたのは恐ろしい程の焦燥。 津軽が帰ってこなかった。 朝まで動けなかったなんて、と。俺は愕然とする。津軽は戻ってくるだなんて馬鹿馬鹿しい自分の願望にすがり、俺は現実から目を背けていたのだ。 朝陽が昇って、俺は漸くと思い知る。 津軽が――いなくなった。 水溜まりから跳ね上がる滴を蹴散らし、俺は駆ける。息が上がるだなんて、一体いつぶりだろうか。 向かう場所は決まっていた。 津軽と出逢ったあのとき。あの瞬間からずっと目を逸らし続けていた、真実を知る為に。 流れた汗は、右の手首で乱暴に振り払った。荒い呼吸を静めつつ、俺は遥か上方を見上げる。途端、くらりと少し目眩を感じた気がした。 聳え立つそれは、新宿の中でも一番の高度を誇る一つの高級マンション。 俺はその一番上の階を睨み付け――…そしてずかずかとエントランスの方向へと足を運んだ。 「――…やあ、遅かったね」 それはまるで、気を許した友に挨拶をするかのような気楽さで。男は笑った。 俺はそんな胡散臭い台詞を無視し、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。 「津軽を返せ。――どうせ、手前だろ?」 …初めから、と唸るように俺が付け足せば、臨也はすっとその緋色に光る不思議な虹彩を細めた。 「違うよ、シズちゃん」 いつものように激昂し、道路標識を片手に殴りかかっていくようなそれではない。静かに沸々と燃え盛る青い炎のような俺の怒りの感情はしかし普段のそれよりも格段に危ういものだと、俺は解っていた。 おそらくそれは、臨也も同じだろう。――…しかし、俺の目の前で悠々とシックなデスクの上でその細い指を組んで見せた臨也は、俺のいつもの怒りを煽るかのようにゆったりとした口調で言葉を紡ぐ。 「君がまず言うべきことは、それあじゃない。"津軽をくれてありがとう"――だ」 「………どういうことだよ」 対面するその二つの瞳を射殺さんとばかりにきつく睨み付け、まどろっこしいもんはなしだと言外で脅しつける。それを見た臨也はすっと、呆れた様子で肩を竦めた。 「津軽は、俺がこの世に生み出したんだ」 臨也は多弁だった。勿論、こいつは普段から饒舌な奴ではあった。しかし何の対価もなしにこうも包み隠さず話し出すとは考えていなかった俺は、訝しい思いでそんな臨也の姿を見つめる。 「俺だって初めはそりゃあもう吃驚したよ。無限に広がるネットの世界の中でもまさか、自我を持った存在があるだなんて。SFでもなければ普通は、誰も考えないからね。…俺はただそれを呼び起こしただけ。そうしたら津軽はこの現実世界に、誰にでも見える姿で現れたんだ。データの集合体として」 「…データ?」 臨也の言っていることはよく解らなかった。しかし、それも仕方がないのだと思う。これは俺の憶測に過ぎないがおそらく、臨也も実際問題"津軽"という現象を完全には理解しきれていないのだろう。 それは余りに突飛で――常識を逸していた。 なんと危うい存在と俺は生活を共にしてきたのだろう。その奇跡のような出来事を改めて感じた俺は、なんだかうすら寒いような気分だった。 漸くと意味の分かる言葉を掴み鸚鵡返しをした俺に、臨也はその柳眉を呆れた様子で引き寄せた。 「何だシズちゃん、何にも知らないの」 「ああ…?」 「…今津軽に何が起きてるのかも、知らずにここに来たんだね」 はあ…と臨也はその瞼を伏せ、深くため息をついた。俺が苛立ちを滲ませその様子を見つめていれば、ややあって臨也はその姿勢をすっと正した。 「"津軽"という人格を形成し保っている為には、その分膨大なデータが必要。…それくらい、シズちゃんにだって想像はつくよね?」 「…………」 俺は声を出さなかった。ただ、無言で先を急かす。 俺を見つめる緋色の双眸はすうっと、見えるその姿を鋭く細めた。 「"津軽"は存在そのものが奇跡だ。あり得ないんだよ。…だからこそ、そんな椿事(ちんじ)は――続かない」 「は…?」 臨也はその眉の両端の高度を、すっと下げる。それはまるで、誰かに同情するかのように哀れさを滲ませて。 「津軽はもう、自分のデータを保ちきれなくなっているんだ」 臨也の言葉が分からない。こいつは、何を言っているんだ。 俺は戸惑った。分からない。分からない分からない。だけど何故だか次に臨也がその唇を開くことが、ひどく恐ろしいということだけは分かった。 津軽は、データの集まりだ。それはつい数十秒前に、目の前の男の口から発せられた言葉。 じゃあ、それを保つことができないということはつまり――… 「消滅するんだ、津軽は」 ……俺は、呼吸を止めた。 しかし俺はなんとか一つ息を吸い込むと、喉を震わせ――臨也に掴みかかる。 「ふ……ざ、けんッ――」 「――シズちゃん」 がたん…ッ、 大きな音を立てて、臨也が腰掛けていたキャスター付きの椅子が倒れる。 しかし俺を射抜く赤は、一ミリたりとも揺れはしなかった。 「嘘じゃないよ、シズちゃん。俺はふざけてもいない。現実を受け入れなよ」 「っ手前は津軽の何を知ってんだよ…! 津軽は、津軽は昨日だってちゃんと笑って――…」 臨也は憐憫の情を滲ませた瞳で、俺をじっと気の毒そうに見つめていた。…いや違う。臨也の瞳は、俺を通して――… 「可哀想に。津軽はシズちゃんに綻びを見せまいと必死だったんだね。だからこそ限界を悟って――…シズちゃんの元を離れた」 そんな津軽の努力を、まだシズちゃんは認めてあげないんだ――と。 その静かな言葉は深く、俺の心に突き刺さった。 ……俺は津軽を、苦しめていた? ぐらり、世界が揺れた。違う、俺の体が揺れたのだ。ふらりとよろめいた俺の姿を見ても、臨也は表情を変えなかった。 ゆっくりと頭をもたげた俺は茫然と臨也の顔を見、そっと唇を開く。 「……何で、」 ぽつり、と。やっと動かしたその場所から溢れた声は、思っていたよりもずっと冷静なもので。 「何で手前は、津軽を生み出そうと思った? 何で津軽を俺に寄越したんだ」 俺の言葉を聞いた臨也の表情はひどく、穏やかなものだった。 「…喜ばせたかったから」 「……は?」 数秒の間の後、溢されたその静かな声に俺は耳を疑って。 「俺がシズちゃんを喜ばせたかったからって言ったら、……信じる?」 珍しく嘲りの色もなく真剣な表情で発せられたそれは、馬鹿げた問いだった。 「…はッ、信じる訳ねぇだろ」 俺はそのノミ蟲らしくない言葉に僅かながらいつもの調子を取り戻し、鼻で笑って口端をくいと引き上げた。 それを見た臨也は満足そうに――…しかし、どこか悲痛を押し込めたような表情でニヒルに、その唇を笑わせる。 「――…いつかこのときが来ることを分かっていて、それでもシズちゃんに会ってみたいって言ったのは、津軽だよ」 臨也はその不思議な表情で、俺の瞳を見据える。 相手があのノミ蟲だというのに俺は何故だかひどく落ち着いた思いで、その声に聞き入っていた。 「俺と同じで孤独に苦しんでる奴がいるんなら、そいつに会ってみたいってね」 「…孤独」 広い広い電子の世界。そこで生まれた奇跡はだけど――…たった一つ。 だからこそ奇跡だ。 津軽は一体どんな思いで、そこにいたのだろうか。 行かなきゃなんねぇ、と。 俺は唐突に悟る。視線を持ち上げればもう、迷いなど何一つなかった。 「あいつ…――津軽はどこだ」 はっきりとその音を刻み発したその名前に、臨也はすっとその目をどこか眩しそうな様子で細める。 「…今、ここにはいないよ」 チッと俺は短く舌打ちを一つ。そしてくるりと素早く踵を返す。 「ならもうここには用はねぇ。邪魔したな」 「待ちなよ」 呆れ返った様子の声に、俺は引き留められて。億劫ながらも俺が顔をしかめて振り返れば、臨也は言い聞かせるようにして言葉を繋いだ。 「探さない方が"あれ"の為――…って、少しは考えないの?」 俺は黙ったまま、睨むような視線で臨也の両の目を見据える。 「津軽は、自分の意志でシズちゃんの元から離れていったんでしょう」 ぐっ…と。突如俺を襲ったのはまるで、胸が締め付けられるかのような圧迫感。苦しい。息が詰まる。 どうして津軽は俺の元から離れてしまったのだろうか。 それはまだ俺にも、分からない。 だけど、 「――…分かったんだよ」 「え?」 少し目を伏せて小さく呟けば、返ってきたのは不思議そうな臨也の声。 俺はゆっくりと己の顔を持ち上げ、その赤を射抜く。 「あいつはポーカーフェイスが上手ぇから、俺は今までずっと気づけなかった。だけど――あいつ、今にも泣き出しそうな顔して俺のこと見てたんだよ」 俺を玄関先で見送った薄い笑み。 あの青はきっと、本当は微笑んでなどいなかったのだ。 ――だから行く、と。 まるでそれが誓いの言葉か何かのような気分で、俺はひどく厳かな思いでそう宣言した。 「…馬鹿だね、シズちゃん」 臨也は僅かにその唇の端を持ち上げ、眉をしかめて下手くそに笑う。 「津軽はそれがシズちゃんだからこそ、その傍を離れたんでしょう」 「そんなの知るかよ。俺が泣きそうなあいつの傍にいてやりたいんだ」 言葉にすればするほど、気持ちが逸る。 早く、早くあいつに――津軽に会いたい。 「――…さっき来たよ。一度だけ」 「は…?」 「礼を言うって言って、深々一礼。…俺をこの世界に生み出してくれたことに深く感謝する、だって。――…笑っちゃうよね」 そう言った臨也の口元は確かに笑みを形作っていたがしかし、その声は少しも楽しそうなものではなくて。 しかし、俺はそんな臨也の様子よりもその言葉の内容に心を奪われる。 「ッ…――あいつ、今どこだ!!」 「だから、俺は知らないって。と言うか――…"津軽"のことは寧ろ、シズちゃんの方がよく解ってるんじゃないの?」 はっ…と、俺は大きく目を開く。 そしてすうと大きく息を吸った後――俺は弾かれたかのように、勢いよく走り出す。 後ろは、振り返らなかった。 …俺が飛び出したその背後に、歪な唇で笑いその顔を片手で覆って項垂れた情報屋がいたとも気づかずに。 ――待っててくれ、津軽。…と。 俺はただひたすらにあの深い青を求め、前だけを見つめて地面を蹴りだしていた。 111205 |