俺は浮かれていた。 

 四個入りパック196円。コンビニの袋に入れられたそれを、俺はゆらゆらとガキのように大きく揺らす。
 赤文字が踊るそれを買ったのは、津軽への土産のつもりだった。基本的に和食しか知らない津軽。しかし俺と味覚の好みは全く同じの甘党。
 根元が黒くなり始めている俺のものとは違いって艶やかなあの金糸とその袋の中の黄色を脳内で重ね、俺はふわっと表情を緩めた。






 そう、俺は浮かれていたのだ。

 家に帰れば、夕飯を作ってくれてる人が――待っていてくれる人がいる。俺の苦しみを分かち合ってくれる、唯一無二の存在がいる。俺を恐れず一緒にいてくれる奴が。気づけばそれが当たり前になっていた。気づけば、それは日常となっていた。
 これでもう一人じゃない、と。俺はひどく浮かれていたのだ。

 ……根本の問題は何も、変わっていなかったというのに。





 …がちゃり、

 物言わず俺がゆっくりとドアを開けば、振り返った青。俺の姿を見とめた津軽は、おやとその眉を潜めた。

「それは――…」

「…ただいま、津軽」

 その唇の動きを強引に止めたは良いものの、何も言えずに俺はどかりと居間に腰を降ろす。津軽の側に向けた右の頬の辺りにじっと、視線を感じた。ややあって立ち上がった津軽は何を思ったのか、部屋の隅に置いてあった小さな――また例によって、幽からの贈り物である――裁縫箱を手に取り、自然な動作で俺の隣に腰を降ろした。

「静雄」

「…………」

「ベストが破れている」

 だから貸せと言わんばかりに差し伸ばされた手のひらをちらりと見やり、俺は小さく呟く。

「良いんだこんなの。……いや、良くねぇけど」

 投げやりに紡いだ俺の返答を聞き、津軽はその表情を曇らせる。そしてゆったり紡ぎ出された声はいつもと何ら変わりのない、しかしどこか諭すような響きのトーンで。

「弟からもらった、大事なものなんだろう」


 ふと脳裏に描いた、つい十数分前の光景。俺は煌めいた出刃包丁の輝きを思い出す。
 珍しく臨也が差し金ではなかったらしい――俺への復讐を叫んでいたその男たちはおそらく、俺を本当に殺す気だったのだろう。


「………津軽」

 ぽつんっ、と。

 静寂という名の池に投げ込まれた俺の声はさざ波のように部屋中に広がり、そして吸い込まれるようにして消える。
 津軽はまるでその空気の震え一つ残さないといった様子で、ただ黙ってじっと俺を見つめたままでいた。


「――……また、傷つけちまった……」


 言って僅かに自分の声が掠れたことに気づいた俺はくっと、フローリング張りの床に向かって項垂れた。


 気づけば地に伏し呻いていた男たち。
 俺を射抜いた恐怖に染まった視線。

 数秒前には軽々と振り回していたはずの"止まれ"と書かれた赤の標識がずしりと重みを増したような気がしたところで、俺はやっと我に返ったのである。怒りに塗り潰されていた頭の中にすとんと降りてきたのは、恐ろしく静かな感情で。
 だらりと俺は、右腕を下げる。

 次にふと意識を浮上してきたのは、既に自宅前に至ってからだった。


「…そうか」

 頷いた津軽ふうっとその青の視線を逸らし、それっきりその唇を閉ざす。

「……………」
 
 そこに言葉はなかった。
 だけど俺はそこにはっきりと、津軽の存在を感じ取る。


 俺はふと唐突に、今までのことを思い返してみた。
 害虫駆除の最中に、初めてただの通行人を傷つけてしまったとき。喧嘩に巻き込み、ただの一般人に対して危うく殺してしまうところだったかもしれない大怪我を負わせてしまったとき。

 俺は一人だった。

 後で友人に弱音を溢すことはある。気落ちした俺の様子に気づき、トムさんが飯に連れ出してくれたこともある。
 だけどいつだって自分自身の力に恐怖を覚え、がたがたとどうしようもなく震える己の体を抱き締め真っ暗な部屋で身を竦めていた俺は――…一人だったのだ。


 だけど今は明確に、これまでとは違う。俺は一人では、ない。痛いほどに優しい津軽の存在を、肌で感じていた。

 津軽に依存している、――と。頭の中でひどく冷静に自覚した俺はしかし、それを止めようとは思わなくて。止めたいとは思えなくて。

「………何で、」

「……」

「何で手前には、体がないんだよ…」

 その肩に寄り掛かりたかった。

 黙って傍にいてくれる、その存在が嬉しくて。津軽の体に身を寄せて、今だけは自分の体を心置きなく預けてみたかった。

 するりと俺は緩やかな速度で、津軽のその肩を殴るモーションを見せる。
 すかり、と。当然すり抜けた俺の拳。青の衣は薄れもせず確かにそこにあるのに、しかし俺は触れられない。

 すかり、すかり、すかり。

 何度か同じ動きを繰り返す内に、俺はふと自分の行動の滑稽さに気がつく。端から見れば、なんと馬鹿馬鹿しい光景だろうか。

 …ふ。

 湧き上がってきた小さな笑みは力のないものではあったものの、俺の口角を持ち上げて。

 すかっ、すかっ、すかっ。

 何だか可笑しい。俺はくつくつと肩を揺らし、一人この奇妙でそして無意味な行動を馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。不毛に殴り続ける自分自身の手を笑いながらも、しかし俺はその動きを止めなかった。


「済まないな」


 ぽんと柔らかく、そんな俺の頭に降ってきた言葉。俺は項垂れたまま揺らしていた肩を止め、ゆったり顔を持ち上げる。

「済まない」

 くしゃっとその眉間に軽く皺を寄せ、津軽は苦笑いを溢していた。
 まるで聞き分けのない小さな子どもをあやすような、そんな口調。…しかしそれとは裏腹に一体何の加減か、津軽のその表情はどこか苦しげなようにも見えて。

「、津――…?」

「飯にしよう、静雄」

 しかし次の瞬間にはすっくと、津軽は不思議と俊敏な動作でその場に立ち上がっていて。俺は腑に落ちないながらも、ぼんやりと津軽のその姿を眺める。
 ただほんの一言、話を聞いてもらっただけ。しかし俺の気持ちは不思議と少し軽くなっていた。
 また床へと視線を落とす途中で、俺は自分の手のひらを認める。

「…………」

 ぎゅっと五つの指を握り締め、開き、…また開く。じっと穴が空きそうなくらいにその平を眺める俺の瞳はしかし、焦点を合わせてはいなかった。

 ――…ふと、思った。
 もし俺が津軽のように、落ち着いた人間だったら。怒りに感情を飲み込まれることもなく、無感動に自分自身を見つめることができたなら。
 …津軽が羨ましくなった。自分がひどく、情けない存在に思えてきて。俺はぐっと俺の手のひらを握りしめ、そこに爪を突き立てる。
 俺は愚かだ。誰かを傷つけるのはもう、止めたいと思う。二度としたくないと思う。しかし、そう思っていられるのは今だけだ。また繰り返してしまう。
 解っている。だからこそ不安になる。俺はいつか、誰も傷つけずに済む日がくるのだろうか。俺はいつか、この人並み外れた力と折り合いをつけ、心から笑って生きていけるような日が――…。


「…――大丈夫だ」


 ふわと、空気が揺れる。

 鼓膜に触れた静かな音に、俺はぱっとそちらを見やる。
 津軽は俺に背を向けていた。台所へとゆったり歩を進めるその足は止まることなく、俺はただその青を纏う大きな背中を眺める。

「今、ここには確かに、苦しむ静雄が存在した。それは、俺が証人になろう」

 沈む俺を過去にした津軽はふうと顔だけでこちらを振り返り、言う。


「だから大丈夫だ」


 俺と同じ顔に浮かぶ穏やかなその笑みは、どこまでも優しかった。

 …だから俺はまた少し、羨ましくなったのだけれど。





 深く落ち込みそして少し立ち直った後にある、和食の素朴な味付けの不思議。
 それはひどく温かで、何か滲みそうになってしまう。

「…美味い」

 深い鍋で煮込まれたたくさんの具材をしかし俺が底まで漁って盛りつけたその皿。
 自分の分を既に食べ終えた津軽の目の前で、しかし俺はまだその味に浸っていた。

「そうか」

 ずずっ、と。湯飲みを傾ける津軽はそんな俺の向かいで、静かに座っている。その様子を箸を動かす途中でちらりと上目で窺った俺は、ふとその存在を思い出した。

「あ、そうだ津軽」

「?」

 俺はがさりと床に落ちていたビニールの袋を引き摺り、その中から一つそれを取り出した。
 とんとその湯飲みの直ぐ隣に並べられたそれを見つめた津軽はぱちりと、その青の双眸を静かに瞬かせる。

「何だ、これは」

「プリンだ」

「ぷ…」

「プリン」

 …ぷりん、と確かめるようにその唇で呟いた津軽は、おそるおそるといった様子でその黄色に埋められたカップを手に取り持ち上げる。

「デザートだ。美味いから食ってみてくれ」

 お前に食って欲しくて買ってきたんだ、と。
 少しも隠すことなく素直な思いを告げた俺の言葉に、「…では、」と津軽が立ち上がる。一度台所へと向かった津軽が戻ってきたときには、どこから持ち出してきたのかその手には茶碗蒸しで使うもののような木製の匙が握られていて。

「…いただこう」

「ああ」

 ぺこりと頭を下げた津軽はその手の匙をプリンに触れさせ、その滑らかな弾力に驚いたようだった。豆腐…?と呟く声が可笑しい。


 ――戸惑う青の瞳がぱあっと輝くのは、それからほんの数秒後。

 今度は皿への落とし方でも教えてやるかな、と。俺は小さく口元を緩めるのだった。
 



111203
 
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