男は津軽と名乗った。 それに倣って俺が自分の名を告げればしかし、津軽は「知っている」と淡白な言葉で返す。 俺はそれに対しては特に何も返さなかった。何故か、とも。…誰に聞いたのか、とも。 それから自宅であるアパートまで津軽を連れていき、そこで分かったこと。 驚いたことに、津軽には実体というものがなかった。 「そうだな…俺にも、詳しい原理は説明できない」 俺はこくりと、素直に小さく頷く。もし仮に津軽がそれを事細かに説明できたとして、俺がそれを理解するとは到底思えなかった。 「だが、ホログラムのようなもの…と言えば、分かるか?」 僅かに傾げられたその首の動きに合わせ、さらと流れる金。俺はまた、しかし今度は曖昧に頷いた。 「まあ…何となく」 「…つまり俺は、」 津軽はそこに膝を崩さずに座したまま、じっと俺の顔を見つめ、言う。 「幻影のようなものだ」 俺はただ何となくの気分で、表情のない津軽の面をじっと見つめていた。その瞳が宿す光の色に、僅かに違和感を抱きながら。 「何か質問はあるか」 「…さっき」 促されて口を開いた俺はすっと、和服姿の津軽に合わせ引っ張り出した座布団を指差す。 「お前、それに触ってなかったか?」 「ああ、」 津軽はこっくりと鷹揚に一つ頷いた後、不意にその手を伸ばす。 「っ、」 驚いた俺の唇からするり、火のついた煙草を抜き取り、それを顔の横で揺らして見せた津軽はゆったりと言葉を繋げる。 「生命を持たないものには、触れられる」 「…ふうん。よく分かんねぇ縛りだな」 青の瞳はそんな俺の感想を聞いているのかいないのか、その手の中に収まるフィルターとは反対側の――煙がゆらりと昇る――先端をしげしげと観察していた。危ないぞ、と呟いた俺はその手のひらからそれを引き抜き、煤で薄汚れた灰皿に潰す。 「要するに今、ハイテクな立体映像を見てるってことだな、俺は」 「端的に言えば、そういうことだ」 乱暴にまとめた俺の言葉をしかし、津軽は怒るでもなくあっさりと肯定して見せる。俺は、すっとその顔に目をやった。 そこにあったのは穏やかでブレない、真っ直ぐな瞳。それを見た途端俺の視線は固く、その色に捉えられてしまう。 ――すっ…、と。 思わず動いていたのは、俺の右腕。その深い海のような青の瞳に誘われゆっくり手を伸ばせば、俺の腕は何の感触もなく津軽の顔に――突き刺さる。 「、……」 「…?」 その手のひらから伝わるものは、何もない。 津軽の体は、確かに存在しなかった。 「…………」 俺は数秒の後、黙ってその腕を下ろす。津軽は、何も言わなかった。 妙な沈黙が、二つの対照物の間に降りる。 しかし俺はその空気を崩すためにと直ぐに頭を切り換え、さて、そろそろ夕飯の為に何か用意するかと考え出す。そして俺はふと、その思考の流れで一つの疑問を抱いた。 「あ…そうだ忘れてた。津軽は、飯って食うのか?」 確か戸棚の中に残っていたカップ麺は一つ。いや、それ以前にあまりにインスタント過ぎるそれを、仮にも客相手に出しても良いものなのだろうか。 「食おうと思えば、食える」 俺はゆったりと立ち上がった。ならば、予定は変更。たまには怠慢をせずに、フライパンを振るうことにする。 狭い流しの前に立ち両の手で液体石鹸を泡立て始めた俺の後ろで、津軽も立ち上がる気配がした。 「何か手伝おう」 「ん? ああ…別に、座ってても良いぞ」 「では、手伝わせてくれ」 「…、おう」 冷凍させていたご飯を取り出し、俺はメニューを決定する。他の家でどうなのかは、知らない。だけど俺の家ではごく自然に存在していたカレー風味のカレーチャーハン、レーズン入り。 「…?」 並べられた材料を見、困惑に眉を寄せる津軽。俺は笑ってにんじんを手渡しつつ、軽く声をかけた。 「レーズンは温めると、甘くて美味いんだぞ」 中華料理という概念を知らなかったらしい津軽は、それでも俺よりずっと手際が良くて驚いた。 「――…じゃあ、俺は行くぞ」 「ああ」 朝。簡単な朝食を済ませた俺は、玄関先で立ち止まる。振り返った先の津軽の瞳はひどく穏やかで、しかしその感情は読めない。 「…悪いな、留守番なんかさせちまって」 「気に病む必要はない。俺は居候の身だ」 すぱりと謝罪を断ち切られた俺は思わず、口をつぐむ。淡々と言葉を紡ぐ平坦な声だとかその表情だとかはどうやら不機嫌だとかではなく、元々津軽自身がそういう質(たち)らしい。 「じゃあ…な」 「ああ」 がちゃりと玄関の扉を押し開ければ、後ろから追いかけて来たのは「戸締まりは任せておけ」の声。 「無茶はするなよ、静雄」 俺は驚き、勢いよく後ろに振り返る。 俺の名前を初めて呼んだ津軽はふっと、どこかからかうような笑みをその顔に浮かべていた。 「――…んじゃあ、今日はお疲れさん」 「っす」 「通常の業務終了時刻、五分前。解散ですね。認知、了解しました」 視界に見える青信号が、ぴかぴか瞬きを繰り返す。その光が赤へと変わるところを俺が確認したのと同時に、トムさんが不意にふっと口を開いた。 「そう言えば最近、ロシア寿司食ってねぇなぁ…」 "ロシア寿司"。その言葉を聞いたヴァローナの眉がぴくりと、珍しいことに僅かな反応を見せる。その顔はしかし、なんとも微妙なもので。 一人心地で呟かれたトムさんのその台詞はしかし、次の瞬間にはぱっと明確な誘いの言葉へと変化していた。 「――うん、今は財布にも余裕あるし、お前ら二人分くらいなら奢ってやれるからよ。久しぶりに食いに行くべ」 柔やかな表情で発せられたその言葉にヴァローナはその眉間を寄せて、如何にも渋々といった様子でしかし頷く。「…これも日本ではよくある"付き合い"という名の義務的勧誘だと判断。受理します」といつもの如く、まどろっこしい言葉を並べて。 俺は言葉に詰まった。 「よし、じゃ行くか」 「っあ…」 小さく溢れた俺の声。ぱちり、不思議な顔をした四つの瞳が勢いよく、こちら側を振り返る。俺は無意識の内にくっと、己の背筋を伸ばした。 「…あの、」 折角トムさんが誘ってくれたのだ。その上ロシア寿司。俺だって行きたくない訳ではない。だからこそひどく、断り難い。 だけど、 「すみません…俺、今日は遠慮しておきます」 意を決して口を開いた俺に、トムさんは不思議そうに首を傾げる。だけども直ぐに快く、「用があるんなら仕方ねぇな」と言ってひらり手のひらを揺らしてくれた。 「っ本当にすみません、ありがとうございます…!」 家でちょっと気になる奴を置いてきちまったんです、と俺が言葉を付け足せば、トムさんは俄におやっとした顔を見せて。 「――じゃ、ヴァローナもまたな」 「はい、それではまた明日(みょうにち)に」 しかし俺は後輩に向かって軽く手を上げると、タイミングよく車の流れが止まった目の前の車道へと己の身を投じる。 見上げた信号の色は、今朝の空と同じ――青。 俺はその色の瞳が待つ家へと、一直線に駆け出した。 和服が似合うあいつにいつか、ロシア寿司を買っていってやろうと心に決めて。 「――津軽!」 ばんっと部屋の扉を引き開けた俺は、見えたその光景に思わず体の動きを止める。 安アパート二階の端。玄関から部屋を遮る壁など存在しないこの空間では、俺に背を向けそこに立つ津軽が一番に目に入ってきて。 「静雄か。…お疲れ様」 首だけで振り返った津軽のその手には、茶碗。そしてその体の前面を覆う布は、辛うじて見覚えのある――いつだったか幽が半ば押し切るようにして寄越してきた――エプロンで。それが着流し姿に合わせられているのだから、どこか間違い探しのような光景だ。 「な……に、してんだ?」 俺は戸惑い、呆然とその場に立ち尽くした。 「ああ…」 俺の言葉に津軽は軽く瞠目した後、困ったような様子で僅かに眉を下げる。 「済まなかったな。勝手に食材を使わせてもらった」 「や、そういうことじゃなくてよ」 俺は慌ててかぶりを振りつつ部屋に上がり、津軽へと近づきながら申し訳なさを滲ませ声を掛ける。がしがしと、俺は自分の頭を掻き回した。 「んなこと、別にしなくても良かったのに…」 俺が怒っている訳ではないと、津軽は直ぐに理解したようだった。表情に乏しく常にのっぺらな口元を津軽は不意に緩め、そのときを思い返すかのようにしてその瞳はどこか空中を捉える。 「夕べの"かれちゃ"は、中々に美味かったからな。そのお返しだ」 「………」 拙い発音で昨夜俺が発したその料理の略称を呟く津軽のその姿は、何というか和む。 気づけば口を閉ざしていた俺の目の前で、津軽はすっと居間の小さな食卓用テーブルを示した。 「もう用意はできている。今運ぶから、そこで待っていてくれ」 木製の円卓に所狭しと並べられたそれらはどれも、見目麗しく健康に良さそうな和食の品々で。 その全てが驚くほどに美味く、俺は一々感嘆の声を漏らしてしまった。対して「ああ」だとか「うん」としか答えない津軽は、どこまでも寡黙で。 しかし俺にはそんな返答が――そして何よりも俺のことを津軽が迎えてくれたというその事実が、何よりも温かな思いをくれた。 近々割烹着でも買ってくるか、と俺は固く心に誓う。これくらいのお礼ならばいくらしてもしたりないくらいだと思った俺は、ふっと不意に唇を開く。 「ありがとな、津軽」 その言葉を聞いた――まるで俺の姿をそっくりそのまま鏡に写したかのような姿の――津軽はふわと、ひどく優しい瞳で微笑む。 やはり今まさに俺の目の前に座る津軽は、今の俺自身だ、――と。 俺は内から湧き上がってくる柔らかな感情に任せ、穏やかに笑った。 111202 |