「あっ、シズちゃんせんぱーい!」

 突如廊下に響き渡った声は、少し舌足らずのようにも聞こえるボーイソプラノ。それを聞いた周りの奴らがさっと、僅かに体を遠ざけたのが分かった。しかしそれはその声の主の所為ではなく、ぴくりと俺の眉が鋭く跳ね上げられたからで――…いや、元を辿ればそいつの所為なのだが。

「…何だ手前…その、"シズちゃん先輩"ってのは……」

 …ひくり、

 俺が引きつった口角を揺らせば、その極彩色の瞳を持つ後輩はにこっとその整った相貌を崩す。

「じゃあ、シズちゃん!」

「違ェだろ! そこは普通に先輩を付けやがれ!! 手前…ノミ蟲か!」

 思わず全力で突っ込んでしまった俺の眼下で、瞳と同じピンク色のヘッドフォンを常備した一つ年下のその後輩はむうっと、唇を尖らせる。

「えー? 俺、臨也くんと一緒にされるとか心外なんだけど」

「それをその顔で言うかよ…」

 力むだけ無駄だと今までの経験から学んでいた俺は、ややあってどうしようもないか、と。静かに体から力を抜いた後、はあと大きくため息をついた。


 そいつ――サイケは、俺の大嫌いな臨也とよく似ている。いや、これは似ているなんてものじゃない。瞳と好みの色が違うだけで、他はそのまんま臨也。なんと言っても俺が思わず、初対面でサイケを臨也と間違え殴りかけてしまったくらいだ。
 本人たち曰く、単なる他人の空似らしいが…それにしてもこれは、はっきり言ってやりすぎだ。

 だけどまあこいつはどこかの害虫野郎とは違っい、素直で純粋で――…いや、時々黒いような気がしなくもないのだが。取り敢えずまあ、そんなに俺が嫌いなタイプの奴ではないことは確かだ。


「…で、何の用だよ」

「あ、うん。次の時間ジャージ貸して!」

「はあ? …お前、学年で色違うだろうが」

 俺が呆れてそんな言葉を溢す。しかし、サイケには欠片も気にした様子がない。

「別に良いの〜。俺、何でも似合うから」

「…そう言う問題でもねぇだろ」

 ずれた発言をするサイケに、俺はがりがりと己の髪を掻き回す。思考回路の読めない相手を若干持て余しつつも、呆れを滲ませた声で更に言葉を続けた。

「大体、俺とお前とじゃサイズが合わねぇだろ。臨也から借りた方が良いんじゃねぇのか?」

 きっとそうすればそのジャージはきっと、サイケの為に誂えたかのようにぴったりだろう。そんな気がした。
 いや…寧ろもう、これは確信だとも言えて。

「…シズちゃんの馬鹿」

 しかし俺の言葉を聞いたサイケは途端にその顔をしかめ、拗ねるように小さくそう呟いた。

「はあ?」

「あのねえ、俺はシズちゃんのが着たいの!」

「…意味分かんねぇ…」

 困惑に眉をしかめ、俺は頭一つ分低いところにあるその顔を見つめる。サイケはそんな俺の表情を見返し、くいっとその柳眉を山なりに持ち上げた。

「彼ジャーだよっ」

「か、かれじゃー…?」

 知らない言葉とサイケのその勢いとに俺が僅かにたじろげば、サイケは尤もらしい顔をして語気を強めてくる。

「彼シャツのジャージバージョン」

「ああ、そういう…」

「ね? シズちゃんも見たいでしょ? 俺の彼ジャー」

「ああ、そりゃ……って、んな訳あるか!」

 ついつい乗せられて紡ぎかけた、訳の分からない台詞。俺は動揺する。かああと頬に熱が集まったのが分かった。
 こいつは妙に細っこいからな、と。俺のジャージを着ればその体がすっぽり収まることなどが容易に想像できた。いやしかし、どうして俺はそれで赤面しているのだろうか。

 …そして目の前の後輩は臨也と瓜二つなだけあって、そんな俺の様子を見逃すはずもなく。

「あれ? …シズちゃん、顔真っ赤〜」

 サイケはその顔ににんまりと悪戯な笑みを浮かべると、ずいとその距離を縮め俺の顔を覗き込んでくる。
 俺は己の口元を押さえ、僅かにその桃色から視線を逸らした。

「煩ぇな…! あんま見んな」

「あはは、まあ仕方ないんじゃないかな」

「ああ…?」

 しかし、突如おかしなことを慰めるような声で言ってきたサイケ。俺はその顔を見やり、くいと小さく首を捻る。意味が分からなかった。


「だってシズちゃん、俺のことが好きじゃない」


「…………は?」

 何を言ってるのか、と。俺は思わずぽっかり口を開け放つ。
 一体、何の話かと。

 しかしややあってその言葉の意味を理解した俺はハッと鼻を鳴らし、片頬をつり上げ大きく笑って見せた。
 調子の良い後輩のその、冗談に合わせてやって。

「たっく…手前は、とことん生意気な後輩だな」

 俺の返答を聞いたサイケはぱちぱちと数度、その瞳を瞬かせる。しかしそのピンクの色が驚いた様子だったのは、一瞬。その色は直ぐにほんの少しの量だけ、陰った。

「…そう……」

 ふと、吐息ともため息とも付かない曖昧な音を発したサイケ。その唇しかしはそのままの音量で小さく、「分かってないんだね」とだけ溢して。

「!」

 するり、と。

 ただでさえ直ぐ近くに立っていたサイケが更に、俺との間を詰める。それはさながらすると、鼻先が掠める近さで。

「っ、サイ…」

「――俺は生意気だよ? それは、本当」


 ――でも、そっちだって本当のことでしょう? と。


 サイケはまるで、諭すかのように言葉を紡ぐ。妙な緊張感を覚えた俺はくっと顎を引き、僅かに感じたサイケのその吐息に喉を詰まらせた。

「シズちゃんは俺のことが大ー好きで…」

「…っ」


 俺は戸惑う。だっておかしい。駄目だ、こんな言葉に乗せられては。そう思ったがしかし、俺の両方の頬はどうしてだかひどく熱くて。それはどうしようもない、事実で。
 どうしてどうして、俺の耳は熱を持つ。

 どうして俺の心臓は――…


「――…ね?」

 それはまるで、止めを刺すかのように。その眩しい桃色の瞳がふ…と、流麗なる弧を描く。


「シズちゃんはレンアイがしたいんでしょ? ――俺と」



 …視線が絡まった。

 かと思えばサイケは、にっこりと幼く、しかしどこか艶然(えんぜん)な印象を与える笑みを見せて。

 ――…くるり、

 言うだけ言って気が済んだのか、サイケの背中は拍子抜けするほどにあっさりと俺から遠ざかっていく。

「じゃあ、ロッカーから勝手に持ってくね〜」

 …ひらひらと揺れそして消えていった手のひらの残像を俺は、暫く眺めていた。じっとそこに立ち尽くす俺は、動けない。


「……んだよ、これ………」


 潜んでいたそれを突きつけられた俺は何も言えず、ただただ己の鼓動が早く治まるのを待っていた。



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