「――あ、悪ィ。…待たせたか?」

「いや…」

 かんかんと黒く塗られた金属製の階段を叩く足音は聞こえていたものの、それが兄さんのものだとは気づかなかった。俺はインターフォンに伸ばしていた指を引っ込め、ゆっくりと後ろを振り返る。
 吐き出した息は白く、対照的に兄さんの鼻先は少し赤い。

「そうか、良かった」

 兄さんの瞳が薄い青のガラス越しにすっと、柔らかく細められるのが見えた。


 兄さんと会うのは久しぶりだった。やっと仕事に一段落がついたことをつい数時間前俺が電波を通して知らせれば、『じゃあ今日泊まりにくるか?』と兄さんは軽く言葉を投げ掛けてきて。俺の唇は間髪を容れず、肯定の言葉を紡ぎだしていた。


 お邪魔しますと唇の先で溢し、俺は身を屈めて靴を脱ぐ。兄さんは俺よりも先に部屋に上がっていたが、それ以上進もうとはしなかった。曇ってしまったらしいサングラスを眉をしかめて外しつつ、俺の動きを待つ。

「――ねえ、そう言えばさ」

 不意に思ったこと。気づけば勝手に滑り出していた唇の動きに逆らわず、俺はそっと問いかけた。

「それ、どうして付けてるの」

「ん? …ああ、これか」

 俺の指差す先を捉えた兄さんは軽くその青のレンズを揺らし、少し困ったように笑う。

「昔、俺の目付きが怖ぇって人に言われたことがあってな」 

 そんな話は初耳だった。俺は寧ろサングラスを掛けた方が怖く見えるんじゃ…とは言わず、更に質問を繋ぐ。

「見えにくくないの」

「別に、慣れれば平気だ」

「そう…」


 兄さんが見つめる世界は、一体どのようなものなのだろうか。

 その瞳に映る、俺は。


「あ…」

 するりとその手からサングラスを奪えば、兄さんの口からは呆けた声が溢れる。俺はそれを特に気にすることもなく、思っていたよりも軽かったそれを自身の耳の上に差し込んだ。

「お」

「…………」

「似合うぞ?」

「…ありがとう」

 一瞬で視界が全部青に染まった。当たり前だが。
 兄さんはいつもこの世界からたくさんのものを見ているのか、と考えると、俺は妙に感心してしまった。

「幽はサングラスとか、掛け慣れてるんじゃねぇのか?」

「青は初めて」

「…それもそうか」

 何で青にしたんだっけなぁと頭を掻いた兄さんを未だ一段低いところに留まる俺は見上げ、思う。

 兄さんがこの青なしに見つめる相手は、きっと限られているのだろうな、と。

「…どうかしたか?」

「、いや」

 くいっと軽く兄さんの首が傾げられたことによって、俺は意識を目の前に戻す。

 今は会いたくても中々会うことのできない兄さんが、目の前にいるのだ。
 いつもその瞳で直接捉えられ追いかけられているどこかの情報屋に、悋気(りんき)を起こしている場合ではない。

「…兄さん」

「うん?」

「プリン買ってきた」

「おおっ…! 甘味屋の!」

 俺が差し出した紙袋を見てぱあっと輝いたその表情は、昔から少しも変わらない。俺は静かに頬を緩めた。

「ありがとうな、幽! これ、手に入れるのすっげぇ大変だったんじゃねぇのか?」

「まあ…」

「うぉおおありがとう!」

 きらきらとその瞳を輝かせる兄さんを見つめた俺は、ふと思いつく。やっと俺が足元の段差に足をかけ兄さんの直ぐ目の前に立てば、その目がすっと俺に移って。


「――お礼なら、」


 くいっ、


 俺は緩くその襟付近のシャツを掴み、軽く伸び上がって兄さんの頬に口づけた。


「――…これで、十分」

「、なっ…」

 ぱくぱくとその唇を開閉させる兄さんは、いつまでも純粋で――…やっぱり、何故かちょっと嬉しい。
 今は俺が見つめる青く色のついた世界の中でも、兄さんのその頬が真っ赤に染まっていることが分かって。


 こんな兄さんの顔を見れるのは俺だけ、と心の中で呟き、俺はふわと目尻を下げた。




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