今日の講義は取った時間帯が割りに遅めだった。すっかり夕暮れ色に染まったアスファルトを踏み締め、おれは一人帰路に着く。
 荷物を適当に片付けひと心地着けば、さっさと夕飯の支度をしてしまうに越したことはない。自室のドアを潜り抜け、徐に腕捲りをしつつ広くもないリビングを横断していた――正にそのとき。

 唐突におれの視界はただ一色、白に染まった。

 目が眩む。それは無彩色で密度の高い光に視力を奪われたが為だった。訳も分からず混乱しながらもおれが両腕で目の前を庇ったのは咄嗟のこと。
 やがて和らいでいった白にそろそろとクロスさせていた腕を緩め、隙間から向こうを覗く。そこには細長い人影が一つあった。
 次の瞬間、そのシルエットがはっと息を呑むのを、おれは何故だか鮮明に感じることができた。

 自宅内にて突如現れた謎の光。そして、そこ現れた謎の人物。

 騒がしい胸の望むまま、辺りに溶け始めた白の名残に己の顔面を晒せば、おれの瞳は色濃い隈に縁取られた海の眼に捕まる。

 かっと見開かれた藍の瞳はおれに一切の言葉を許さなかった。はくりと一つ喘ぐようにして動いた男のその唇はしかし何も語ることなく、気づいたときには凶悪なトライバルに飾られた両の腕がおれの眼前にまで迫ってきていた。
 咄嗟のことに何の反応もできなかったおれは、ただ引き寄せられるままその手に掻き抱かれる。


「――っ、ペンギン…!!」


 ……何故、この男はおれの名を知っているのだろうか。

 痛い程にこちらを締め付けてくるその腕。しかしそれだけでなく、男の切ない声色が何よりもおれの心臓を一気に縮めさせた。
 それは文字通り、息の詰まるような抱擁。


「勝手にいなくなりやがって…!」

「っ、な……に」

「――ああ、ここはお前の世界か…」


 ぎゅうぎゅうと、取り敢えずは気が済むまでこちらを締め付けた終えたのだろう。見知らぬ男は漸くとその顔を改めてこちら側に向けた。
 今はどこか揺らいだ色を見せるその眼光は、しかし鋭い。通った鼻筋を窓辺から差し込む斜光が滑り、存外長い睫毛をきらきらと輝かせる。それとは対照的に深く闇を放つ酷い隈を考慮に入れても、その男の顔は大層美しいものだった。

 しかし、知らない男に突如強く抱き締められる。その異常性は変わらない。


「お前はおれのクルーだ。勝手は、二度と許さねェからな…」

 戸惑いに固まるおれの様子を、一体どう受け取ったのか。嬉しそうに噛み締めるようにしてそう囁いた男は、細い指先で柔らかくこちらの頬を擽った。

「もう二度とおれから離れるな。さっさと帰るぞ」

 熱情を存分に孕んだその眼差しにおれは思わず喉の奥に全てを詰まらせたまま、その男のなすがままに己の身を預けてしまう。
 しかし遂には何か強い意志を持った様子でその指先がおれの顎先を捕らえたものだから、おれは慌てて声を張り上げる。


「お…っ前は、誰だ…!!」


 怪しむような光を放ったこちらの瞳にはたと目を止めた男は、そこでやっと熱に浮かされているような瞳を僅かに冷ました。

「――…は? 何言ってやがる」

 強くこちらの二の腕を締め付けた力が、どこか危うい。


「まさか…記憶喪失か?」


 そう言って男は自分自身の発した言葉に絶望したのか、そのかんばせを酷く強張らせた。

 何秒かの間、ぐっとその喉を固く閉ざしていた男は、しかし直ぐに堰を切ったかのように話し出す。

「……突然現れたかと思えば訳の分からねェことを言い出したお前をそれでもおれは船に乗せてやって、それからおれたちはずっと一緒に航海してきたんだろうが。先ずは甘ったれたお前の価値観を塗り替えて、そう簡単には死なねェように稽古つけて…」

 どこか遠くを見つめ切々と訴えるその顔がどんな表情であれ、おれの脳内に欠片も存在しない男との思い出を構築することなど不可能。

 こちらの片鬢にそうっと指を通してくるこんなにも慈しむようなそして切ない手付きを、おれは知らない。
 だけどこちらをただ只管に見つめてくるその目顔に、まるで睦言のようにして鼻先が擦れる程の近さで囁かれる声の甘さに、どうしてだかおれの視線は宙を泳ぎ、熱の上った頭はくらくらと意識を曇らせて。

「…照れると直ぐに赤面すんのは相変わらずだな」

 寂しげにそう呟いた男に、おれは何も言えなかった。

「元の世界を捨てたって構わないと、お前はそこまで言ってただろう…」

 目見の辺りを大きく歪め悔しそうにそう呟かれれば、感じる必要のない罪悪感がおれの内を重く渦巻く。耐えられないその圧に、おれは弁解しないではいられなかった。

「待て。おれは、本当にお前のことを知らない。…――お前は誰だ」

 なるべく柔らかく、諭すようにして呟いたつもりだった。しかしそんなおれの言葉は、男を冷静に引き戻すに至らない。

「いいや、知らないはずがねェ。おれが知ってる」

「……おれは知らない」

 力強く言い切った男の気迫に呑まれそうにはなるものの、ここで押し負けていては話にならない。おれは、語気を強めた。

「大体――航海? 稽古? 悪いが、おれには何の話だか検討もつかない。あんた、おれを誰かと勘違いしてるんじゃないのか」

 おれの唇が淡白にそう言って言葉を区切ったその瞬間、男の腕はこちらの胸ぐらをひっ掴み勢い良くおれの体を背後の壁に叩き付けた。刹那、呼吸を失ったおれは喉を引きつらせ、やがて否応なく咳き込む。あまりの苦しさに腹を折って息を切らした。
 それから幾らか呼吸が落ち着いてきた頃におれは震える瞼を億劫に持ち上げこちらを拘束する腕の伸びてくる方向を見やり、そして驚いた。


「――積み重ねてきた毎日をてめェの勝手な判断で、簡単に勝手になかったことにすんじゃねェよ…!」

 そこにあったものは怒りに震える唇。瞳の中で燃える青白い炎。
 しかし苦しそうに顔を歪めた男からは、悲痛なる哀切が見えた。


「……悪かった」


 重苦しく降りた沈黙の中に落としたおれの小さな呟きは、男の悲しみの色をただ濃くするのみだった。





 男は、ローと名乗った。

 俄には信じがたい話だが、男はこことは違う世界で海賊団の船長をやってるらしい。
 おれが憮然とそちらを見やったところで、ローはしらっと口火を切る。

「世話になるぞ」

「他に行く当ては…」

「あると思うか?」

 我が物顔で部屋の隅に設置されていたソファに腰掛けたローは、ぞんざいに長い手足を投げ出す。
 改めて見てみればローがその身に纏う黒のコートは甚く季節外れで、見ているだけでも暑苦しいものだった。

「早く記憶を戻せよ。で、さっさと帰るぞ」

「帰り方なんて分かるのか?」

「いつの間にか来てたんだ。その内帰れるだろう」

「…………」

 あまりに楽観的なその物言いに、心配する気も失せた。元いた世界のことが大層気掛かりだろうといった気遣いの思考を止め、おれは瞼を伏せて床の一点を見据える。
 男を気にしなくても良いのならば、考えごとがしたい。――少し、引っ掛かることがあるのだ。

 
「――…何か、妙じゃないか?」

「あァ?」

 訝しげな瞳を向けてきたローに、おれはとんと軽く己の米噛み辺りを指先で叩いて見せる。

「記憶喪失っていうのは普通、ある部分の記憶がごっそり抜け落ちることだろう」

「……ある特定の人物に関しての記憶のみ、失うケースだってある」

 おれの言いたいことに察しがついたのか、否定的な言葉を返してきたローに、しかしおれは言い聞かせるような思いで緩やかに首を左右に振る。

「それでも妙だ。おれが持つ記憶の中に、何の綻びも見つからない。記憶喪失になったと思えるような"記憶の空白"が、少しも存在しないんだ」

「………」

 黙り込んでしまったローはまるで数秒前までのおれのようにして、唐突にその眼差しを伏せる。
 それからふうとまるで流れるような動きで伸びてきた手のひらが、緩やかにおれの腕を取った。

「――そう言えばペンギン。お前、刺青がねェな」

「は…?」

「刺青。数日前に入れただろうが。両腕に、おれと同じもんを」

 露ほども覚えのない"過去"を語られてしまえば、今度はおれが黙り込む番だった。
 沈黙を受け継いだおれの様子に構わずローの眼差しは再び下方に落ち、その唇は小さく吐息のような言葉の羅列を落とす。

「……待てよ。ならこれは記憶喪失でも、況してやただのトリップなんかでもなく……」

 しかしおれが怪訝に首を捻って見せれば直ぐにその意識を浮上させたのか、湖の深淵のようなローの瞳は降りた瞼に隠される。

「いや…、何でもない。結論を出すには証拠が少なすぎる。――忘れろ。」

 それ以上の追及を許さぬ声色で呟いたローはキノコのような形をした帽子から伸びるもこもことした鍔を深く落とし、その目許ごと表情を隠してしまった。





 大きな鍋をたっぷりと満たした白色。その色と空気との触れ合うあわいに、ぷくぷくぷくぷくとあぶくが生成される。
 柔らかなその音が鼓膜を打つのが心地よい。おれは黙々と包丁を動かしていた。


「――何をしてる」


 平生通りキッチンに立っていたおれの背後にいつの間にやら気配もなく現れたローは、こちらの手元を徐に覗き見る。

「シチューか」

「ああ、クリームシチューだ。……食えるか?」

 軽く顎を持ち上げ鍋の中身を示してやったおれの横顔に擦り寄るようにして近づいてきた短い藍の髪は、軽くおれの頬を掠めた。その擽ったさに軽く身を捩りかけたところで、ローはふっとその唇を綻ばせる。


「お前の作る飯の中でおれは、一番好きだ」


「…………」


 柔らかく完璽したローの眼差しにおれは、戸惑う心を密かに奥歯に隠し込む。
 黙ったまま包丁を握り直したおれの隣からは、おれ一番の得意料理が芳ばしい匂いを漂わせていた。





 
 もの憂いの表情だった男に、今や少しの寂寥も見当たらない。
 ぺろりとシチューを食べ終えたローの満足げな表情を見ておれは、自己中心的なこの男とも案外上手やっていけるような気がした。 


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