バイト帰りに立ち寄ったタイムセールに揉まれ、獲得したピーマン・玉ねぎ・挽き肉などをいっぱいに詰め込んだ袋は重たい。気怠い両の足を引き摺りつつ、漸く辿り着いた場所はアパート二階の角部屋自宅。
 そこでおれを出迎えたものは、カップラーメンの容器などでぱんぱんに膨れ上がった一つの巨大なビニール袋だった。

「――…」

 己の米囓み辺りで、何か危ない音が聞こえたような気がした、が……それはこの際、良い。

 おれが迷うことなく大股で向かった先は、狭いリビング。薄暗い室内には不規則にテレビ画面の光のみが瞬き、その目の前を陣取ったボリューミーなシルエットが薄ぼんやりと床に伸びる。籠った空気は蒸し暑かった。

 さて、今すぐそこに突進して行きたい気持ちをぐっと堪え、おれは足早に台所へと向かう。肉を腐らせてしまっては大変だ。逸る気持ちを抑えきれず少々粗野な扱いをしてしまったものの、冷蔵庫の中にスーパーの袋を放り込んでしまえば、準備は完了。

 早速リビングへと引き返したおれは静かにしかし大きく片足を持ち上げ、ぼさぼさを通り越し最早もさもさになった金髪に覆われる寝そべった水玉の背中を加減なしに――強く、踏み付ける。


「うぐっ」


 くぐもったその声などに、罪悪感は湧かない。

 限界までつり上がった口端を一つ痙攣させ、それからおれは何とか怒鳴りたい声を押し殺す。

「キラァー…」

 地を這う音でおれが腹の底から唸り声を上げれば、漸くとその顔はテレビからこちらへと振り返った。

「おお…キッドか、お帰り。今週のジャソプは、ちゃんと買ってきたんだろうな」

「――…てめェ、他に言うことはねェのかッ!!!」

 こうして人の努力も虚しく、おれは今日も今日とてぐうたらな同居人に雷を落とす。

 これは最早、日常茶飯事だった。


「何をそんなに苛々している…ああ、労いの言葉が欲しかったのか? ――ご苦労、キッド」

「んなことじゃねェよ…ってか、労うにしても言い方ってもんがあるだろうが!」

「ほう、例えば何と言えば良い?」

「なん……"お疲れ様"?」

「ああ、狩りの首尾は上々だ」

 気づけばおれの右足は傷んだ金の茂るその頭部を、容赦なく踏み潰していた。
 ふぎゃんだかぎゃふんだか聞こえてきた悲鳴など、おれの知ったことではない。


「…一体、おれが何をした……」

「最低限ゴミ出しくらいはしろって、前々から言ってんだろうが! また忘れやがって…」

「外は嫌だ」

「ふざけんなよ引き籠り」

「花粉飛び交う地獄の中に、自らの身を投じろと」

「………」

 タイミング良くずびびと音を鳴らしたキラーの鼻の頭は、擦れに擦れて真っ赤っか。
 キラーは花粉症だ。くしゃみを繰り返すその目は常にうっすらと涙ぐみ、垂れてきた鼻水に濡れ、ティッシュに拭われ続けた鼻下の肌は酷く荒れてしまっている。
 折角の綺麗な色した髪も手入れを怠慢しているが為にぼさぼさだということも相俟って、その見て呉れは今や悲惨。

 しかし寡黙キャラを装い、稀に今は中退してしまった大学へと顔を出せば女に持て囃されるのだから腹が立つ。

 その実態はただの、甘ったれたニートだと言うのに。


「…ならゴミ出しは良いから、せめて寝癖くれェは梳かせよな…」

「ん」

 しかし、ちーんとまるで小学生の如く音を立てて鼻をかんだキラーに、おれも大概甘かった。

 長く幼馴染みをしてきてはいたが、キラーのこの駄目駄目っぷりには大学に入学するのと同時にルームシェアを開始するまで、おれは全く気づかなかった。
 知らないままでいられたのなら、どんなに楽だったかと思う。幻滅もした。
 しかしおれは何故だかキラーを、何と言うか放っておけないのだ。

 ため息と同時におれが深く肩を落とせば、未だ鼻腔を僅かにひくつかせたままのキラーが不意にこてりと首を傾げてくる。

「ところでキッド、今夜の飯は何だ?」

 抑揚の少ないその声の中にも期待するような響きを見つけたおれは、僅かに苦笑いを溢した。

「ちゃんと昨日言ってた通り、カルボナーラだ。好きだろ?」

「うむ、ピーマンはくれぐれも完膚なきまでに細切れで頼むぞ」

「ほざけニート」

 人が少しは穏やかな気持ちになれたというのに、途端にこれだ。
 引き籠りの分際で何故こいつはこんなにも一々偉そうなのか。常々不思議に思う。


 同居生活を始めて二年余り。一等最初、ほんの少しの間ではあったが、キラーがまだ己を取り繕っていた頃は良かった。しかし今や掃除・ゴミ出し・洗濯・買い出し。全ての仕事はおれ一人でこなされている。
 朝は声をかけなければいつまでも眠りこけているキラーを起こすところから始まり、本屋に寄れば好き嫌いの激しいキラーの為にと料理の本を立ち読む。おれはお前のお母さんか、とたまに本気で頭を抱えたくもなるだろう。
 今は親からの仕送り、そしておれのバイト代で何とか暮らしていっているものの、今後こいつは一人でやっていけるようになるのか。おれの悩みは尽きない。


 苛立ち紛れにおれが大きく頭を掻き毟れば、既にテレビ画面へと向き直っていたキラーが不意にその背を反らし――そして叫んだ。


「へっぶしっ…!!」


 …若干、飛沫がこちらにまで飛んできたような。

 僅かに顔を引きつらせたおれの様子に、気づいているのかいないのか。徐に首を回してこちらを振り返ったキラーは洟を垂らしながら至極冷静な声色を駆使し、真顔で呟いた。

「ギッド、ティッシュ。ボックズの」

 ずびずびと鼻を啜るその姿には同情するが、生憎おれはギッドでもボックズなティッシュでもない。己の足元に転がるボックスの存在は無視し、そう言って揚げ足取りをしたくなってしまうのも最早、仕方のないことだった。
 更に言うならば酷く辛そうな様子でそう懇願してきたのならばまだ良いものを、キラーのその手は未だゲームのコントローラーを握りっぱなしなのだから質が悪い。


「…家ん中でも良いからポケティ持ち歩けって、いつも言ってんだろ。いい加減学習しろ」

「持ってる。今、ポケットにあるぞ」

「なら、それを使えば良いだろうが」

 態々人が街で気に掛けるようにしてもらってきているポケット・ティッシュがしかし中々減らない事実を思い浮かべつつ、おれは冷静に呟く。

「あれは紙質が悪い。がさがさなのは御免だ、痛いだろう」

「…………」

 鼻周辺を僅かながらも赤く腫らしたキラーは黙り込んでしまったおれを見た後、更に平淡と続けた。

「言うならばそうだな、セレブのやつが最良だ」

「黙れ贅沢者」

 収入ゼロのパラサイト人間が言うことではないと見切りを付けたおれはその瞬間、さっさと踵を返す。
 こんな奴の相手をしているよりも、早く夕飯を作ってしまった方がマシだ。

 ずりずりと腹這いになって進むキラーの摩擦音が、背後から静かに響いてきた。それからボックス・ティッシュを引き抜く音、後に鼻かみ音。
 聞き慣れたそれらをBGMに、おれはリビングから台所へと繋がる入り口に手を掛ける。


「――お母さん」


 一瞬、おれは足を止めてしまった。

 しかし、おれはキラーの母親ではないのだ。
 振り向いてはやらず、そんな奴は知らんと言外で語り、おれは唇を閉ざしたままでその場を立ち去らんと再び足を踏み出しかける。



「いつもありがとう」



 気づけばおれは腰の辺りで大きく上体を捻り、後ろを振り返っていた。


 細く、僅かに開いたカーテンの隙間から差し込む西陽に、カーペットの上で頬杖をついたキラーの金の絹糸が眩く透ける。斜光が、そいつの高い鼻を滑る。
 夕映えする髪のあわいから覗いた瞳はまるでビー玉のように淡く輝き、柔らかな弧を描いて穏やかにこちらを見つめていた。
 そこでは花粉の所為だろうか、角膜に浮かんだ僅かな涙の層が、緩く波打ち潤んでいる。

 その真っ直ぐな眼差しと同じ形に微笑む唇がそれ以上言葉を重ねずとも、おれにはその表情だけでキラーの思いが全て伝わってきたような気がして。


「…ふん」


 ――おれが秘かに楽しみにしてる『ワンニャン天国』をキラーがゲームでテレビを占領しているが為にワンセグを使って見なければならないという不満も。グラスを持ち上げることすら面倒がって、飲み物にはストローがささっていなければ嫌だと駄々捏ねるキラーの無精なところも。その上でもう知らんとおれが放っておけば、とうとう熱中症になって目を回していたりするキラーの馬鹿さ加減も。
 おれの頭からは全部、吹き飛んでいた。


 うちのダメ息子がそれでも時折、こうしてしおらしい態度を見せてくるのならばおれは、


「ところでキッド、さっきからいつ言おうかとタイミングを見計らっていたんだが…」

「何だ」

「今すぐシャワーを浴びてきてくれないか? お前は花粉だらけだ」

「く た ば れ」


母の日にカーネーションならまだしも、態々真っ赤なチューリップを球根ごと手渡してきたときの怒りも、そろそろ忘れてやろうかと思う。

Dear ●san from ソウ with love!

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