響く鍛練の音をすり抜けつつ、おれは赤く染まる海原を眺めながら歩く。空とそことに浮かぶ二つの太陽は真っ赤。円と円とはじきに重なり合い、かと思えば水平線に沈んでゆくのだろう。
 日暮れは直ぐそこまで来ていた。

 西陽に伸びた己の影を踏みながら、おれが目指す先は食堂。夕飯まではまだ時間があるのだが、小腹が空いてしまったのだ。味見役を買って出て何かを口に入れたい、そういう魂胆だった。
 組み手や剣などを交わす熱心な船員たちの屯う甲板から外れ、目的の場所へと近道。

 そのとき、おそらくは一時的に積み上げられただけであろう――潜水時には妨げにならないよう、片付けること請け合いの――木箱の影。
 おれは五人のクルーたちに囲まれた新入りの姿を見つけた。


――お?

 何してんだ、とたしなめる言葉を構え足を踏み出しかけたところで、おれはその様子が少しおかしいことに気がつく。開きかけた唇を噤み、気配を消して身を隠す。

 因縁を付けているのはどう見ても、多数の船員たちの方。そのドスの利いた会話から推測する限り、その新入りが最近おれたち幹部から一目置かれていることが気に食わないようだ。
 これもまあ、ありきたり。

 多勢に無勢。俯いたキャスケット帽はしかし、震えるどころか無反応。寧ろ、その小柄な身体からはなにか禍々しい狂喜のようなものさえ発せられているように感じて。

――…へえ。

 ふっと音もなく持ち上げられた明るい彩色の鍔、その先に見えた笑み。
 それに思わず、こちらの口角もつり上がってしまった。


「――おれ、ペンギンさんには迷惑かけたくないんですよね」

 それは、殺伐としたその場の雰囲気にそぐわない莞爾とした笑顔。そして、そんな新入りの突拍子もない言葉。

「はあァ?」

 何言ってやがるといった気色を存分に滲ませる男たちは、端から見ていて甚く滑稽だった。

「だから、先輩方が不満に思う気持ちは分からなくもないんですけど…――ちょっと黙っててくれません?」

 新入りの笑みの質が、変わった。

 それを肌で感じてしまったおれは、深く深く笑う。
 この身を巡る血が騒いだのだ。それはもう、愉快な程。

 しかし、勿論ここでおれが割り込む訳にもいかない。限界まで持ち上がった唇をそのままに、おれはただただ黙って息を潜めるのみ。

「じゃなきゃおれ、我慢してんのもいい加減面倒なんですよねェ」

 顎を反らせて昏くわらったそいつに漸くと何かを感じ取ったのか、周りの男たちは僅かにたじろいだ。

「、なっ…」

「……んの、チビ…!」

 しかし、初めから相手の力量を測り切れていなかった愚かなそいつらがそこから利口になる筈もない。怒りに青筋を震わせながら、一斉にその新入りへと殴り掛かっていく。




「はい、お仕舞い――…っと」






 華麗な身のこなしを存分に見せつけた新入りが僅かにずれたサングラスを直した後、軽い音を鳴らして両手を払う。
 それは僅か、数分後の出来事だった。





「―――凄い凄〜い」


 盛大に送るは斑な拍手。唐突に打ち鳴らし始めたおれのそれに向こうは小さく身動ぎ、ややあって茶色の跳ね髪はゆっくりとこちらを振り返る。


「バンダナ……さん」

 平素、特にペンギンの前では顕著に演じられていた愛玩犬のような――白々しく無害を装った――様相を、まさか真のそいつだなんて思い込むようなことはなかった。少なくとも、おれは。

「あ、ちゃんと"さん"って付けてもらえるんだ」

 上手に取り繕う奴ほど、その黒さは深い。
 憎々しげな様子を圧し殺しきれていない――寧ろ隠そうともしていないその渋面に、おれは喉の奥で笑う。

 そこにあるのはいつもペンギンさんペンギンさんと言ってこの船の副船長に見せる蕩けるような笑顔ではなく、無機質で鋭利な瞳。


「…何かご用ですか?」

「いやァ? ただ、君の大立ち回りを褒めただけだけど」

 自分でも胡散臭いと自覚のある顔でじいとその目に対峙すれば、そこは不意に鈍く光って。

「じゃあ、おれから一つ言っても良いですか」

 ワントーン低くなったその声に、おれの気分は訳もなく高揚した。

「良いよ。一体な――…」


「――あんた、ペンギンさんのことが好きなのかよ」


 そしておれが促すまでもなく、新入りの唇から発せられたそれ。
 最早猫を脱ぎ捨たらしいその声が、緩慢ながらも己の内に滾る熱を確かに煽るのが分かる。地を這うようなその声に、おれは嬉しくて堪らなくなる。

「本気でも何でもねェんならもう、あの人に構うのは止めてくれません? はっきり言って目障りなんですよね、あんた。ペンギンさんが真面目なのを良いことに困らせて、惑わせて…――いい加減にしろよ」

 次々に並べ立てられたそれは、男の中で溜まっていた鬱憤を遂に吐き出したものなのだろう。
 冷たい眼差しに冷たい声色。野犬のような獰猛さを滲ませた犬歯はこちらを威嚇するようにして、その唇が動く度にちらちらと顔を覗かせる。
 産毛を弾くようにしてこちらの肌を刺してくるその気迫は中々のもので、――おれは堪えきれず、笑い出してしまった。

 大きく腹を抱えて身を捩り、盛大に肩を揺らす。
 それに合わせ、向かい合うジェード・グリーンの瞳は見る見る内に尖っていった。


「…何が可笑しい」

「何がって…ククッ、そりゃあ全部だよ」

 向かいのサングラスの奥。深く皺の刻まれた眉間は不快さを表し、小さく跳ねる。

「ねえ、ところでさ。君、随分口が悪くなってるみたいだけど」

 それが、その素直な反応が、おれには楽しくて仕方がない。

「あんた相手だからな。気遣う必要もないだろ?」

 取り繕われることのないその姿は、剥き出しのそいつ自身だ。

「ひっどいなァ…。これ、ペンギンが知ったら――どう思うんだろうね」

 だからもっと揺さぶりたくて、おれは、根性の悪い問いを投げ掛ける。


「…、あの人は変わらないねェよ」

 静かに返された言葉。しかし伏せられた瞼の影、それに翳った瞳が、何よりもその憂いを表す。
 完全に堪えられることのなかったその不信は、おれとは違う、新入りだからこそのペンギンとの付き合いの短さが祟ったものだろう。

 それは、全くの杞憂だというのに。


 しかし、"ここだ"とおれが唇を開きかけたところで鳴らされた鋭い舌打ちが会話を区切り、透き通るジェードが強くこちらを射抜く。


「…――んなこと、どうでも良いんだよ」

 それにより畳み掛ける機会を失ったおれは、沈黙を保ってその眼差しを見守った。

「…ペンギンさんがどうしてもてめェと話さなきゃなんねェときもあるってのは、おれだって理解してる。だからそれは良い。だがな、」

 美しい瞳は赤熱し、静かに沸き立つ。見事な緑の色に夕陽の赤が透け、それはそれは不可思議な色。

 それぞれの色はとても綺麗なもの、なのに、混ざり合ったその光はどうしてだか清廉とは程遠い色でこちらを――…睨み付けていて。


「おれとペンギンさんとが話してるところに、二度と割り込んで来ん―――」

「ねえ、」


 おそらくその言葉を最後に、そいつはこの場を立ち去る気だったのだろう。
 それが分かったからこそおれは一つ、示唆を投げ掛ける。



「どうしておれの目的が"ペンギン"だって思うの?」



 薄く笑みを浮かべて紡いだそれ。
 そいつは思ってもみなかったところで言葉を遮られたことに驚いたようで、しかしその何てことない質問に、直ぐに唇を開き、


「…―――」


 しかし、その唇が何か言葉を発することはなかった。


 はて、といった様子で懐疑をその瞳に浮かべたそいつは、今までとは少し違った視線をこちらに向けてくる。
 笑みを濃くしたおれは、それを泰然と待ち構え目を細め―――



「――シャチ! どこにいる? …いないか? 少し頼みたいことがある…!」



 そのとき、遠くから聞こえてきた一つの声。

 おそらく甲板から響いてきたのであろうペンギンのその声に、正対するそいつの肩は小さく反応を見せた。

 …どうやらおれたちの間に張り詰めていた何かは、これにて途切れてしまったようだ。

 新入りのそいつはふっと気を沈めるようにして息を詰めたようで、それから顔を上げ、叫ぶ。


「はいっ、ペンギンさん――今行きます!」


 それは、涼やかな声だった。作られた爽やかな声。
 そして、駆け出してゆく際に見えたその横顔は、幼気ないもの。しかし。

「…――ああ、」

 ぽつり呟かれたその声が、おれの瞳を瞬かせる。

「お前はペンギンさんに近づきたいんじゃなく、おれの邪魔がしたいんだってか? …――よく分かったよ」

 最後の最後に低く落とされたその一言だけが、変わらずそいつの黒を示していた。


 踵を返した小さなその身は、もうこちらを振り返らない。走り去っていったその背中は打って変わり、数秒前まで静かなる怒りに底冷えさせていた雰囲気を霧散させている。
 キャスケット帽子の向かう先。佇む暗色の防寒帽。
 それを見つけ駆け出した茶の髪は、ぴょこぴょこと嬉しそうに跳び跳ねていた。






「ったく、分かってないなァ…」


 開くその距離を十分に確認できたところで、おれは唇の先だけでそっと囁く。
 その声は向かい風に浚われ、どうせあちらには届かないのだから、と。


「今おれが一番興味あるのは――シャチくん、君なんだけど」


 紡いだものは誰も知らない、だけど、確かなる真。

 被り直した猫の裏に隠れる犬は、まだそれに気づかない。

120609
 
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