僅かながらも浮き沈む。そんな足元での緩やかなリズムは常に不規則だが、おれには最早慣れっこだった。
 見上げれば空は、深く抜けるような藍。サングラスの奥で眇た瞳にそれを映し、おれはそれから暫くの後に視線を落とす。おばしまより下方へと顔を向ければ、そこにはもう地面。上陸はいつでもできた。
 時間から言って日の出が近い筈の東側の水平線。しかしそこを何食わぬ顔して塞ぐのがこの霧深い島。そこ一帯に色濃く立ち込める霧は、不思議と海上にまで流れ出すことはなかった。深い霧はあくまでも島の上空にのみ存在している。それどころか西風が潮の薫りを僅かばかりそちらに押しやれば、白は不安定に揺らぎ、空気の通り道が分かるようにして霧は綺麗に相殺される。よってその色はおれの肺にまで届かない。…今のところは。
 この島独自の気候に航海士のとしての多大なる好奇心は疼くものの、今はまだ動けない。おれは音を立てずに小さく嘆息を溢した。

 未だ温い眠りに包まれたままの船上は、ひっそりと静かだ。しかし我らが船長はきっと、今も眠らずに何か小難しい書物に没頭しているのだろう。お陰でおれたちクルーは目と鼻の先にあるその地を踏めず、既に一日が経過してしまっている。船長の許可を仰がず、勝手な上陸をすることは禁止されていた。
 流石の船長であっても、まさかこれ以上寝食を忘れて部屋に閉じ籠り続けていることないだろう、と。
 おれは最早諦めの境地に達しつつ、上空を見上げたが為に僅かに浮かんでしまった鍔をやれやれと引き下げる。


「―――凄い霧だよね、この島」


 おれは、指の動きを硬直させた。
 完全に油断しきっていた自分とそれから今音もなく隣に並んできた男とに向かって、思い切り舌打ちを鳴らす。


「何か用かよ、クソバン」

「相っ変わらず口が悪いなァ…」

 困ったような笑顔を見せてきたバンダナに、おれは表情を変えることなく無感動に視線を向ける。
 遂に太陽が昇ってきたのか、島の奥にある白が僅かに明るく射光を始めていた。

「――で?」

 バンダナの声色から直ぐに、この呼び掛けには何か意味が内包されていると分かった。さっさと要件だけ話せとおれが言外全てで匂わせれば、向かい合う相手はあっさりとその唇を開いた。

「うん、ちょっと出掛けてくるね」

 は? と開きかけたおれの唇は最早用を為さず、一瞬でその機会を失った。
 バンダナは片足を欄干に引き上げた、かと思えば、大きく跳躍。直ぐに乾いた着地音が陸地から響いてきたものだから、おれは慌ててそちらを見やる。
 白くぼやけた姿で、バンダナは陽炎のように手を振っていた。


「船長には、上手く伝えといて〜」

「……何でおれが」

 吐き捨てるようにして呟いてはみても、霞んだ金髪はただ声を出さずに笑うだけ。

「ここまで来てるのにお預けとか、実際キツいだろ。――シャチも来る?」

 意味深に持ち上がった口角とその台詞から、そいつが今から向かうであろうその先はやはりいつもの如く娼館だと、そう確信するのは容易い。おれは、更に顔を歪めた。

「おれをセックスしか頭にねェようなてめェと一緒にすんな」

 そう…残念、とだけ囁いたその男はしかし少しもそのような素振りなく、至って楽しげな様子で踵を返す。
 遠ざかっていったその広い背中に、おれは唾を吐き掛けてやりたい気分だった。







「今から、てめェらに上陸の許可を出す」

 絶対的権力者の音吐で告げられたそれに、わあっと船内の空気が沸き立つ。
 久方ぶりの島だ。皆、したいことは色々とあるのだろう。
 どこか他人事のようにそのざわめきを聞いていたおれは、一粒のタブレットを指先で転がす。

 既にこの船からバンダナが抜け出していることを告げたところで、腹を立て大騒ぎするのはクルーたちだけだろう。船長はきっと怒らない。
 それは、それがバンダナだから。船長がバンダナには、僅かながらも甘いから…。

 高く弾いた丸薬はくるくると裏表をひけらかし、それからおれの手のひらの上に着地した。

「―――正し、今配ったその薬を必ず服用しろ。それが条件だ」

 右側に立つペンギンの手より渡ってきた己の分の一粒を改めて見やり、おれは首を捻る。意味が分からないのは皆同じなのか、あちこちから語尾の上がる囁きがなされていた。
 その反応を予め想定していたららしい船長は他方に向かって動かした顎先一つで、話の停滞を終わらせる。

「あ、あああのぅ…!」

 珍しいことにそこで大きく声を引きつらせたのは、憐れ怯えきった小動物の如くして体を震わすワカメの戦慄く唇だった。

「それ…お、おれが調合した、んですけど、………げ、解毒剤ですっ」

「…解毒剤?」

 ちらりと視線を向けたその先でおれは、ペンギンの左目が防寒帽の下で困惑に細められているのを目撃する。
 至って穏やかなその声色にさえも大袈裟に肩を跳ね上げさせたワカメは、しかし健気にも声帯を震わせる。

「こっ、この島に発生している霧は……全部、毒ガスなんです。予め薬を飲んでおけば何てことないんですけど、じゅ、十五分もまともに吸えば、まず、助かりません」

「 は…?」

 おれの唇から吐息の如く溢れた小さな音は、驚きを示してざわめく周りの喧騒に掻き消される。

 毒霧の弱点は塩分であり、潮風にも負けるその毒素を相殺する為、海水から採取した塩化ナトリウムを主成分としてその錠剤は調合されている…――だとか、ワカメが懸命に紡いでいった詳細情報はしかし、おれの頭を右から左に抜けていった。

「そ、即効性は即効性なんだけど…こっ個人差があるかもしれない…から、数分は馴染ませて、ね」

 そして、一通りの説明を終えることができたのか、ワカメは大袈裟な程に胸を撫で下ろしたようだった。

 ――そんなワカメの肩を性急につらまえたおれに向けられたものは当然、怯えた金の瞳。しかしこちらを見上げたその目顔は、直ぐに怪訝そうな色を孕んだ。


「っ…シャ、シャチ……?」

「――…の奴には、」

 低く、押しに押し殺した声はワカメの耳には届かなかったらしく、えっと頓狂な一音がおれを更に焦れさせる。

「っだから今ここにいない奴には、この薬渡したのかよ…?!」

 依然戸惑いに視線を揺らし続けているワカメに、気を遣っている余裕などはなかった。早く答えをと急く思いは、相対する細い肩を小さく軋ませる。痛みに歪んだワカメの顔におれが遂に痺れを切らしかけたところで、暢気に響いた一つの声。

「アイア〜イ。おれ、おれが召集かけたときにいなかった奴の分は、ちゃんと部屋に置いてきたよ!」

「っ、」

 その言葉の意味が大脳に達するのと同時に、おれは身を翻して走り出す。
 嫌に冷たい汗が背中から止まらなかった。





 そこが不在だということを、おれは既に知っている。躊躇なく押し開いた扉の向こうには、やはり誰の姿もなかった。
 急ぎ足で近づいた机の上には、平生と変わらず長い羽ペンと黒のインクが一つ。整頓されていると言うよりは寧ろ、物がないというだけのその台の上にはしかし、常とは違うものがぽつり。


 それは、一粒のタブレットだった。


 …誇張ではなく、それはまるで津波の前の引き潮の如く。
 さあっと頭から熱が遠退いていく。その感覚が遂には爪先までもを包み込んだそのとき、密かに背中を這い上がってきていた悪寒はおれを震わせた。

 予想は付いていた。しかし、実際に目の当たりにしてしまえばもう、平静ではいられない。

 目の前のそれを粗野にひっ掴み、ツナギのポケットの中に放り込む。
 いつの間にやら握り締めてしまっていた自分の分の生温い固体を、おれは奥の歯で強く噛み砕いた。





 その部屋の扉を開け放つや否や、おれは文字通り船を飛び出し街中を駆け回る。
 船の周辺。人目を忍んだ路地裏。少し進んだ先にある街のメインストリート。
 視線を巡らせる内にやがては目が回った。しかし、探せども探せども求める色は見つからない。
 視界を遮る白が鬱陶しかった。逸る気持ちを律して一時足を止め、大きく持ち上げた腕でおれは乱雑に額の汗を拭う。荒く覚束ない呼吸の最中酸素を求めて一際大きく息を吸い込めば、その白色はどこか甘やかに感じたものだから吐き気がした。
 頭の中を占めるものはどれも恐ろしい想像ばかりで、焦燥ばかりが身体を駆け巡る。それに急き立てられ、駆り立てられ、おれは、再び走り出す。

 辿り着いた場所は娼館の建ち並ぶ大きな通り。仕舞いには手当たり次第でそういった類いの店を当たるしかないと、おれはそう考えたのだ。


 …――そこで漸くと覚悟を決めたおれは僅かに瞼を伏せ、瞳の端で"それ"を捉える。
 濁った空気を切り裂いて走りつつ、横目で見流していたいくつもの内の、その一つ。

 泡吹いて倒れてるそれは、人間だった。

 いや、最早これを人間とは呼ばない。魂の抜けたこの入れ物は今や、ただの肉塊だ。
 虚ろな球体は視力を完全に失っており、そこにはただただ濁った虚空が映り込むのみ。

 おれは、苛立ちを交えて短く舌先で口内を弾いた。


『――やあねぇ』

『ほんと、収集はまだかしら』

 道行く女たちの話を聞く限り、これは最早日常の光景らしかった。
 常に立ち込める毒霧は何も知らずに迷い込んだ人間を、いとも容易く地に還す。


 背筋を凍てつかせるような心地が、おれの芯を震わせる。
 それを振り払うようにしておれは、先ずは一軒目、娼館の扉を潜った。


 
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