そろそろ襟足が伸びてきたな、と。 今日一日の仕事を終えた俺はそんな取り留めのないことを考えながら、己の髪を風に流し夕暮れ色に染まるコンクリートを行く。 しかし俺には珍しく何事もなく自分の責務を終えられたからといって、今の俺の気分が清々しい訳ではない。寧ろ何かあれば直ぐにでも――まるで堪えがたい衝動のように――湧き上がってくる厄介な苛立ちの感情を、気の短い俺が今までずっと爆発させずにいたのだ。ストレスも溜まる。 ついつい昼間回った客たちの態度を思いだしてしまった俺は、チッと鋭く舌打ちを溢した。 ――その瞬間、ふ…と。 遠くなる感覚。それは他でもなく、俺の周囲にいた人々の動き。 仕事や学業を終え、ある者は家へ、またある者は遊びに向かう為にとそれぞれの目的地へと歩き出す。当然、今の時間もたくさんの人々が行き交う池袋の街。 …しかしそんな中で、不自然にできた空白の空間。 雑踏に紛れたつもりの俺をしかし、皆が避けていく。 チッ…、と。俺はまた短く舌打ちをする。しかし、それはつい先ほどのものよりもずっと小さく。 苛々した。どうしようもなく苛々した。 この苛立ちや胸糞の悪さは、もっとずっと心の奥深くにひやりと横たわる何かを紛らわす為の自己防衛から来るもの。その苦しく悲しい何かを故意に追いやっていながらも俺だって、頭の隅では何となく解っている。だからと言ってそれに真っ直ぐ向き合うことができない俺は、ただただ自分の感情を怒りに染めた。 ああ、苛々する。 そしてふと。こんなときは全世界にとっての害虫であるノミ蟲の奴でも殴れば、少しはすっきりとするかもしれない。俺はそう考えた。そうして全く不本意ながらも俺はぐるりと辺りに視線を巡らせ……しかし、あの特徴的なファーコートの姿は見えない。あの害虫はどうやら嫌なときばかりに現れ、肝心なときはいないらしい。使えねぇ、と。俺は再び――そのときばかりは盛大に舌打ちをしてやった。 両の手をポケットに突っ込み、俺はいつもの如く紫煙を燻らせながら大きな歩道橋の階段へと足を掛ける。もう、家は直ぐそこだ。 全ての段差を上り終え、さてと陸上の橋を渡る。細く長い、その橋の上。その道の先。 その中程に佇むその姿に、思わず俺は息を止めた。 「――は…?」 そこには俺がいた。 いや、違う。俺は今ここに立っている。それは誰よりもこの俺自身が一番よく解っていて。しかしそこには確かに、何故か着流しを身に纏った俺の姿がある。 …そのとき。 俺が見つめるその、もっと向こう。 そちら側からは今まさにこの橋を渡らんと、一人のサラリーマンがやって来た。 そいつは一瞬その男の姿に目を留めたかと思えばさっとその視線を逸らし、足早にそこを通り過ぎた。着流しの男はその手に持った細長いパイプのようなものから煙を立ち上らせ、ただ黙ってそれを見送る。 …そこには、俺がいた。俺の姿があった。 紛うことなく、全ての人々から恐れられる――…俺そのものの姿が。 こちらに歩み寄ってきたその通行者が俺の顔を捉えぎょっとしたように体を揺らしたのが視界の端に見えた気がしたが、そのときの俺にはどうでも良かった。ただその先の青の衣を纏うその人物を、見つめる。憂えを帯びた表情でふうと細く紫煙を吐き出したその横顔に、俺は目を奪われた。 ふと気づけば、茜色に染まる空の下の不思議に閉ざされたその空間には、俺とその男しかいなくなっていて。――…ゆっくり、俺は歩き出す。 一歩。また一歩。 限りあるその橋の真ん中まで。今のたったその程度の距離がしかし俺にはひどく、永遠に思われるほど長い。だけど確かにその距離は少しずつ、ゼロへと近づいていっていて。 ふ…と。不意にその男が顔を上げる。 視線が絡まった。 「…っ、…」 「…………」 しかし、向こうは何の反応も見せない。ただほんの少し、その双眸を細めただけ。だがそれも俺の姿を捉えた為かは、怪しい。 「…お前は、」 ややあってゆっくりと唇を開いたのは、奇妙なその沈黙に堪えかねた俺の方で。 「俺が…怖くねェのか?」 男はゆるりと、その首を傾ける。自然な仕草でなされたそれはしかし、どうしてだか俺の瞳を離さなくて。 「――何故」 「は、」 「何故俺が、お前を恐れる?」 「何故…、って……」 男の声は低く、耳に心地良かった。恐らくはただ聞こえ方が違うだけでその音さえ俺と同じなのだろうが、不思議と。 そんなことを考えていた俺の視線の先で、男のその薄い唇が開かれた。 「――まあ、ウィルスは怖いがな」 「は…?」 「ああ、あとはバグも」 淡々とした低音で連ねられた言葉たちの意味を、俺は測りかねる。困惑に眉を寄せた。 何も分からないまま、それでも俺は自分と寸分違わぬその男と会話を交わす。それを今更ながらひどく不思議に思った。 しかし次に続いた男の言葉に俺はそんな思いも忘れ、大きく息を飲んだ。 「だけどお前は、ただの人間だろう」 ―――"ただの"。 聞き方によってはまるで、馬鹿にされているかのようなその言葉。 しかし、俺の喉は一気に熱を帯びて。 突き放すような意味も持つその言葉にだけど、俺は救い上げられるような思い。 じわりと、ともすれば視界が涙で滲んでしまいそうになる。俺はぐっと息を詰めてそれを押し込み、ひどく慎重に言葉を紡いだ。 「お前…は、」 少しでも気を抜けば直ぐに、声が震えてしまいそうで。 「お前は、俺なのか?」 無音がそこにあったのは、一瞬。 男はただ一つだけ、頷いた。ふっと穏やかに、その唇の端を緩めて。 ………俺の頬をぽろりと一粒、生温い雨のような雫が伝った。 ――…そのときちらと、俺の視界の隅に映った人影。それは黒いコートを纏っていたようにも、その男がにやと小さな笑みを浮かべていたようにも見えた。そうそれはまるで、俺の大嫌いなあの――つい数分前まで俺が探していた――人間のように。 しかし、俺はそちらに目をやらない。寧ろ意図的に視線を背ける。 今の俺にはひどく、どうでも良い。 俺はその場から数歩を歩みだし、その着流しの男の真ん前に立つ。 「…あんた」 男は欄干に寄り掛けていたその身を起こし、真っ直ぐに俺と向かい合った。 「行く当てはあるのかよ」 まるで何十年来の旧友に話しかけるような気楽さで、俺は男にそう訊ねる。 ない、と。対して男は淡白に簡潔に、その事実を告げてきた。 ふと頬に僅かなむず痒さを感じた俺は、左手の甲ですっとそこを粗野に擦り、誘いかける。 「じゃあ、俺の家に来いよ」 そのとき、ざあっと。高所独特の風通しの良さの所為か、俺たちを包んで大きく風が駆け抜ける。 己の不揃いな髪がそれに乱れる煩わしさに、俺が目をしかめた途端。俺の視線の先に見えたそれは、同じ金で。 夕陽を浴びて太陽のように輝いた、金糸の鬣(タテガミ)。 それは雄々しく勇ましく――…そして、どこか儚げに見えた。 111201 |