それは、月明かりの際立つ満月の夜だった。

 がやがやと賑わう街の中。おれは歩く。煉瓦で舗装された家々はオレンジのランプに照らされ、赤茶けた色をぼんやりと跳ね返す。
 すっかり日が沈んだ今も、人々は消えない。寧ろこの時間だからこそ栄える――例えば酒場や娼家といった類いの――店、その活気は、益々その嵩を増していっているようだった。おれが今足を向けている場所――陰間茶屋、そこもおそらくはまた然りであって。


「――ま、待ってよバンダナ…!」

 そのときふっと、おれの横をよぎった白の毛。
 何となく目に留まったそれに、思わず振り返る。


「…何?」

「歩くの…は、速い」

 そこにあったものは、妖しく艶めき輝く――金。

「……って言うかワカメ、お前、武器持ってきてないの?」

「えっ」

 横切った白の飾り毛は、その金の隣に並んだ。
 それを確認したおれの足はふらり、まるで夢遊病者のそれのように覚束ない動きで進み出す。

「よ、よく分かったね」

「お前はいっつも腕中に糸仕込んでんだろ。けど、今はやけに腕の動きが軽い」

 雑踏に紛れて届いてきたその声。小さな笑みを湛えた唇から溢される冷静な低い声が、心地好くおれの鼓膜を揺らす。

「さっき、毒を塗り込んだから…い、今はそれが乾くのを、待ってるんだ」

「まあ、それは良いけどさ? ワカメは、うちの船の幹部の中じゃ一番弱いんだから――」

「だっ、大丈夫だよ! ほら、これ、今だけの代用品」

 その足の運び、その仕草。それらの一々から色香を感じさせるバンダナの男、その隣に並んでいる奴は、ひょろりとした体を金髪の男と同じ真っ白なツナギに包んでいる。その様子は如何にも神経質そうな態で、首を竦めて何かに怯える感じで歩いてる。
 はっきり言って、その姿は明らかになよやか。普通、おれのような種類の人間は、こういったタイプに心引かれるものなのかもしれない。だけど。

 ひらり、長めの袖の隙間からほっそりと伸びた、序でに言うならば黄の色にその爪を彩られている指先が、一メートルと少しくらいの長さの細い帯状の透明な布を揺らす。今この時間、この場所には、些か不釣り合いなその物体の意味。それにはおれも少し、疑問を抱いた。
 だがしかし、おれはそれを眇め流し見る垂れ気味の瞳に、全てを持っていかれていて。

「…ビニールテープ?」

「そ、そう! ほら、こうやって引っ張ると細くなるし、凄く頑丈になって――…」

「本当に、そんなんで大丈夫なの?」

 その会話の内容なんてものはもう、おれには届いて来なかった。
 その代わりなの。ごくり、口腔の奥を通過する生唾の低い音が、やけに響いて聞こえたような気がした。
 どくどくどくどく。鼓動が高鳴る。こんなにも気分が高揚する男を目にしたのは、一体いつぶりだろうか。いや違う。こんなのは初めてだ。

 おどおどとした黄色の瞳が、おれの視線を釘付けにする男の顔へと向けられる。その男が何やら言葉を紡げば、飾り毛付きの帽子から溢れた波打つ髪がこくりと、一つ頷いた。
 それから徐にくるり、長身に並ぶ痩身が、その足の向きを変えた。捩れた二つの行き先はそれぞれの足が進むごとに、その距離を遠ざけていく。

 完全にそのうねり髪の覗く被り物が雑踏に消え失せたとき、おれが秘かに跡をつけていた金髪頭は唐突に、その進行方向をずらした。
 おれははっとするもののしかし、その足が向かった方向は人気のない路地裏。


 …これは、チャンスだ。

 おれは静かに口角を持ち上げ、一人北叟笑んだ。



 街灯の明かりも届かない、影。
 前を歩く背中は存外広かった。右左、その足が歩を進めるたび、そこに浮かぶ肩甲骨の出っ張りは消えたりまた浮かんだりした。
 ひたりその背後に付き従っていたおれは、息を押し殺し手のひらを伸ばして――…


「――おっと、」


 ひらり、

 まるでそれが必然だったかのように突如翻ったその金糸は、気づけばおれの体側のところに突っ立っていた。
 ぱしり、刺青の浮かぶその腕が、おれの手のひらを掴む。そして次の瞬間、そこを見たのか男はおやっとでも言うよう突如その目を少し丸めた。それからきゅう、弧を描いて、薄い口唇が持ち上がる。

「あはっ、何だ。おじさん――…男色な方の人か」

 甘く囁いたその声に似合わず、ぎりり、容赦のない締め付けがおれの手首をもぎ取らんばかりに苛む。

「―――ッ…!!?」

 声なんて出なかった。それくらいの、圧倒的な力の差。
 そのときになっておれはちらり、男の左胸に刻まれたジョリーロジャーを初めて認識したのだった。

「そっか…おれを掘りたいとか思っちゃったの? ざーんねん」

 くすくす、無邪気な振りして笑うその顔は、しかしどこか凶悪。おれはぶるり、肩が無意識の内に震え上がるのを感じた。

「! …、うーん…」

 そのとき、ふっと徐に上空の辺りを仰いだ男の瞳。それは暗い空を映し、沈黙を落とす。
 一体何事だろうかとおれが戸惑いに視線をぶらせば、ぱちり、こちらを見直したバンダナの男の瞳に再度捕らえられた。

「仕方ないなぁ…。でもまあ、可哀想だから一つ忠告しといてあげる」

「は…?」

 その言葉の意味が分からず嗄れ声で小さく呻けば、おれは唐突に手のひらを離されてどさり、その場にへたり込む。その衝撃に驚いたおれは思わず、腰を引き摺って二三歩分後退りしてしまった。

「――早く逃げた方がいい」

 瞬間、詠うようにして紡がれたその言葉。


「じゃないとあんた、怖ァい蛇さんに頭から喰い殺されちまうぜ?」


 それは、謎掛けめいた危険な響きを持っていて。

 意味深な笑みだけを残し、男は踵を返す。
 嗤うその背中は間を置かず、ゆっくりと遠ざかっていった。



 はッ…、と。

 おれは奥に突っ掛かっていた大きな空気の固まりを何とか、咽喉から吐き出す。あまりにも激しすぎる拍動は最早、その意味を変えていた。


 …――今あったことは全て、忘れてしまおう。大人しく家に帰って、さっさと寝るんだ。

 そう考えたおれはゆるり、腰を上げる。ここに長居する必要は既に、少しも存在していなかった。


「―――何、してるの?」


 そのとき、ふっと。

 響いてきたそれは、変に抑揚のない静かな声。
 全く気配がなかった。はっと振り返ったおれは、そこにぎらり光る黄色の虹彩を見つけた。闇夜に浮かぶようにして危うく光る、その爬虫類のような眼は完全にその瞳孔を開いていて。

「ああ、違うや。ねえあんた……何しようとした?」

 これが、本当につい数分前に見た気弱そうな男なのだろうか。冷たいその視線はまるで、無機物を見下ろすかのよう。
 そこからひしひしと伝わってくる気配、それは、寒気がするような本物の殺気だった。月明かりを受けた所為か、瞬間的にぎらり金に輝いたその瞳におれは身の危険を感じ、咄嗟に体を捻って一目散に駆け出した。


 兎にも角にも、急いでこの場を離れなくては。

 本能が強くそう伝えていた。


「遅いよ」


 しかし、低く囁かれた一つの声。
 それにおれは、背中の毛穴が全て開ききってしまうかのような心地を感じた。

 そしてしゅるり、ごく僅かな音を立てたそれは、空気の摩擦によるものだろうか。
 それと同時に、何かがまるで蛇のような動きでおれの首回りに巻き付いてきたような感触。


 ――それからまず初めに感じ取ったものは、微かな違和感だった。
 くっと何かに引っ掛かり、己の喉元だけが取り残されてしまいそうな、そんな感覚。しかし、それはすぐに止む。だがその途端、おれは、呼吸ができないということに気がつく。吸っても吸っても、その酸素が一向に肺へと届かないのだ。


 息ができない。苦しい。いや待て、その前に、痛――――…?


 ぐらり、


 己の意思に反して、突如傾いた視界。それにおれの唇は「え」と、声を溢すことはできたのだろうか。
 空が見える。どこまでも深く遠い黒空(こっくう)。余計な灯りが辺りにないからであろう。やけに星々が綺麗だった。
 それからぐるり、おれの視界は宙を回り、己の体が瞳の中に映り込んできて。


 ああ……何だ、違う。

 おれの首が切断されたのか。


 漸くとその事実を悟ったところでおれの脳を埋め尽くしたものは、声にならない絶叫のような苦痛のシグナル。その大洪水。
 影に紛れた痩躯が二つの瞳だけをいやに光らせ、小さく囁いたえげつない言葉など、おれには既に理解不能。

「…本当は最近作った毒で簡単には死なせないで、三日三晩は苦しむようにしてやりたかったんだけど…」

 やがておれは、おれの頭部は、地面に転がったのだろう。その衝撃を最期に、おれの意識は次第にフェードアウトしていった。





「―――…あーあ」

 雑踏に紛れた金の髪がさらり、涼やかに揺れる。誰ともなく一人心地で囁かれたその声は勿論、誰の耳にも届かない。


 …ごとん。


 どこからか何か重たいものが地に落ちたような、そんな音が聞こえてきたのは果たして、気のせいなのかどうか。


「人の首って案外、簡単に切れるもんなんだねぇ…」


 月光でその顔に影を落としたバンダナの男は、ややあってゆるり、薄く微笑む。
 囁かれた穏やかなその声は直にひやり、冷めた空気のさ中、闇夜に溶けて消えていった。

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