部屋に籠り始めてからそろそろ三日、だろうか。 おれはふっと己の唇に押し当てていた指先を離し、それそろマズイかと思い付いつく。それ故に再び書物に没頭し始め忘れない内にと、ゆるり重たい扉に手を掛けた。 おれは以前に一度、流石に飲料水くらいは時たま胃の中に流し込んでいたものの、五日間何も食べずに引き籠っていたことがある。 しかし弁解するならばそのときおれに五日という意識はなく、それは後から聞かされた日数である。 ただ凄く面白い本があって、いつもよりも少しばかり長くその活字に溺れていて、そうしたらいつの間にか体が上手く動かなくなっていた。それだけ。 しかしそんなところを運悪く船長に発見されてしまったおれは、それから定期的に外へ出ることを義務づけられてしまったのだ。 初めは渋った。というのも、おれにはその約束を覚えていられる自信がなかったのだ。初めから無理な言い付けを誓い、それを忘れて罰を受けるよりはとおれが口をもごつかせていれば、船長に呼ばれてその場に待機していたバンダナがふと、口を開いた。 『ワカメはさ、三日に一度くらい…おれに会いたくならないの?』 結果が、今のおれの行動である。 久しぶりに大好きな"あの色"が見られるのだと思えば、気分は浮上する。 しかし、外界のことを思えばざわり、心臓の辺りが落ち着かなくなった。誤魔化すようにしておれはがりがり、左手の親指、そこの爪を噛む。 それは慣れた動作。しかしその不安の大きさを示してか、今回はいつもよりも少し噛み過ぎてしまった。ひやり、剥き出しになった柔らかな肉の部分が、どうも心許ない。変に割れてしまったそこの角を、おれはまた噛んだ。 久方ぶりに浴びた自室の白色灯以外の明かりは、おれの目には辛かった。しぱしぱと瞬きを繰り返し、それからきょろきょろきょろ、辺りを見回す。そこに誰もいないことを間違いなく確認すればおれは漸くと安心し、静かに瞼を下ろしてぐっと背伸びを――…。 …びくり、 そのとき、何かを察知したのか、己の意に反し小さく跳ねた体。訳が分からずにおれがはっと目を見開けば、――見えた。 ずかずかとこちらに物凄い勢いで近づいてくる"その色"が。 「!!」 期待していたものとはいえ急なその登場に驚いたおれの目の前でぴたり、その長い足は唐突に歩みを止める。そこから察する限り、どうやら彼はただの通りすがりなどではなく、なんとおれに用があるようだ。 「……ワカメ、」 そして、見つめられたその眼差し。しんと強いその光、低く通るその声に、おれを構成する細胞一つ一つがどくり大きく鼓動を打つ。そんな気がした。 「な……に?」 声が掠れた。この三日間、おれは、碌なものを口にしていなかった。けれども、少なくともつい数十秒前までは全く以て平気だった。平気だったはず…なのに、今は喉がからからだ。 言った瞬間――がしり、おれの腕を掴んだものは凄く強い力で。 「へ……?」 「ちょっと来てよ」 ぐいぐいと引っ張られる力に抗えず、おれの足は縺れ、しかしそれでも急かされるまま早足で動き出す。 「えっ、ちょ……な、なな何!?」 混乱して、そして何よりツナギ越しとはいえじんわりと伝わってくるバンダナの手のひらの温もりに慌て、おれは叫ぶ。 「船長がお前の爪噛みにいい加減、苛ついて仕方ないんだってさ」 おれを先導して短いその色――金を、向かい風に靡かせる。そんなバンダナは眇めてにやり、おれを見、そして意地悪く口端をつり上げた。 しかしその目は決して笑っておらず、続いた言葉は冷たく尖っていて。 「おれ、前に一回だけ言ったよね? それ、止めろって」 「え、あ…」 『――ワカメ。お前、それ止めたら? 爪噛み』 言った。確かに言っていた。 だけどそれはついこの間の戦闘直後、鎮痛剤を処方していたおれの指先を見てほろり、バンダナが溢した何気ない一言のはずであって。その証拠に、そう呟いたバンダナは間を置かずに軽く礼の言葉を紡ぎ、おれからさっさと離れていったのだから。 「おれの言うこと…聞けないんだね?」 言ってぴたり、バンダナは足を止める。そのため、おれは眼前の広い背中に軽く衝突してしまった。 慌てて顔を起こせばにっこり、柔らかな笑顔のバンダナがこちらを見下ろしていて。 「だから、お仕置き」 がちゃり、おれの背後で聞こえたドアノブの音。それは、いつの間にやらするりと伸びてきていたバンダナの手のひらがそこを捻った為。 開いたその扉、その部屋は。 はっと辺りの景色を見回して、おれは漸くと気がついた。 ここはバンダナの部屋、だ。 「覚悟、できてるよね…?」 腕を引かれて通路からそこへ、おれは、連れ込まれる。抵抗なんてできなかった。できるはずもなかった。 部屋に押し込まれたおれの体はぽいと、バンダナのベッドとおぼしき柔らかな場所に軽く放られる。 「え、や、ちょ…バババ、バンダナ?!」 じりりと迫りおれの顔面に影を被せるバンダナのその顔は、至って真面目なもの。 これはつまりはそういうこと、なのだろうか。 おれの中の冷静な部分がそれでも軽く目を丸め、ぽつり小さく呟いた。 怖いとかじゃあ、ない。全然ない。 それどころか、バンダナにそういうことをしたいと思ってもらえたのならばおれは、嬉しすぎて幸せだ。 …だけど、問題が一つ。 それは、心拍数的な意味で――― 「おおおおれ、死んじゃうっ…!」 ぎゅっと瞑った瞳のままに声を上げれば、ふるり自分の体が震えるのが鮮明に分かった。 いっぱいいっぱいのおれにしかしそのときくすり、聞こえてきたものは、押し殺したような笑い声で。 「なーに言ってんの、ワカメ。冗談に決まってんじゃん」 「、え…」 可笑しそうに肩を揺らしながら覗き込んでくる、その顔は近い。更に言葉を付け加えるならば、からからと声を上げたそこは、実にいい笑顔で。 「期待させちゃったかな、ごめんね?」 「〜っ…!」 にやり笑んだその唇の弧が、おれの羞恥心を煽る。 大好きなその笑顔もしかし今ばかりは、どうしても少し憎らしかった。 向かい合って座ったバンダナ頭、その視線は下方。 交わらないのだったらまだ平気。おれはちらり瞼を持ち上げ、相手に気づかれないようにとそっとその様子を窺った。 そこにあったものは至極真剣な表情。存外長さのある睫毛が落とす影に、何か色気のようなものすら感じる。 それに気がついてしまったおれは、どうしてだかただそれだけで凄く恥ずかしくって。上昇する頬の表面温度を自覚しつつ、きゅうと唇を引き結んだ。 そのとき、不意にぐいとおれは長めの裾を捲られる。驚き、体が小さく跳ねた。 しかしそれでもそこにある不思議な力には逆らい難く、おれの視線は強く引き付けられているかのように金の色から離れない。 「――…たっく、お前関連の面倒ごとは全部おれに回ってくんだから、少しは考えろよな〜」 逃がすまいと固くおれの手首を握り締めるバンダナがぼそっと、小さく呟いた。 「ご、ごめん…」 体を縮めておれがそう謝るのと同時に、バンダナの節張った指がそっとおれの指先を摘まみ掬い上げた。その気恥ずかしさに遂に視線を泳がせようとしたのも束の間、おれははっと己の指先に釘付けになった。 そこにあるものは……悲惨。 白いところなどは一ミリもなく、深爪。それも、そこは歯によって噛み切られているものだから、ギザギサと酷く不格好な形で。更には歯を立てるときでも共に傷つけてしまったのか、はたまた湿った指先、そこで蒸発する唾液と共に水分を奪われてしまったのか。指先の皮までもが所々剥けてしまっている。 あんまりなその指先の状態は最早、自分のものであっても不潔ささえ覚えてしまう程で。 ――…汚い爪。 おれは、自己嫌悪に陥った。 「うわっ、本当にぼろぼろじゃん」 バンダナはおそらく、素直に感想を溢しただけなのであろう。しかしその飾られていない率直な言葉がひどく、胸に痛かった。 尻の座りが悪くなる。何だか背中の辺りが痒いような、凄く落ち着かない気持ち。 そのときふと、バンダナの手のひらがおれの指先を引く。 何事かとぱちくり、おれが静かに瞬けば、眉間に深く皺を寄せ、こちらを見下ろすバンダナと目が合った。 「こら、ワカメ。逃げんな」 違った。バンダナがおれの指を引いたのではない。 おれが、おれの方が手のひらを引っ込めようとしたのだ。 それは、無意識。 おれの勝手なネガティブ思考から生まれた、居心地の悪さ。それがストレスとなっておれに、指先を口元へと運ばせようとした。 おれは無意識の内に、また爪噛みをしようと思ったのだ。 …ああ、爪を噛みたい。あの歪に飛び出た中指の爪が気に入らない。あそこを噛み切ればきっと少しは、おれの気も晴れるだろうに。 だけど、それはできない。おれの手のひらは今や、バンダナが確りと拘束している。 それがジレンマとなっておれはまた、己の爪を噛みたくなる。 最早無限ループだった。 「―――ワカメ、それ」 「あっ……う、うん」 己の内に沈みこのフラストレーションを解消する夢想をしていたおれは、バンダナの唐突な呼び掛けにはっと我に返り、目の前の透き通る双眸に焦点を合わせた。言われるがままにおれは捕まえられている左手とは反対側の手でひょいと、予め用意されていたらしい爪切りを手渡す。 それを流れ動作で構えたバンダナは、おれの爪先に注目しながらふと唇を開いた。 「なあ、何で小指の爪だけは噛んでないんだ?」 その言葉は確かにその通り。五つある内の一つである小指の爪だけは他の爪と比べて十分過ぎる程の長さを保ち、格段に形が良かった。 「何で、って……ううん。と、特に考えてやってる訳じゃない、けど…多分、口に運びにくいから、かな」 ふうんと緩やかな相槌が打たれる隙間、ぱちんぱちんと軽やかな音が長すぎる小指の爪を整えていく。 そしてそれは直ぐに終わり、やがてバンダナはくるり力点となっていた小さな板の面をおれの爪先に当て、凸凹なそこを緩やかな動きで平らに均していった。 それは、穏やかな手付き。初めこそ目の前にバンダナがいるんだと固く緊張を示していたおれの体もいつしか力を抜いていて。一つ一つ、丁寧に丁寧に己の爪が整えられてゆくその心地の良さに、おれはやがて微睡みを覚え始めた。 眠る気はなかった。ただ、おれは瞼を下ろす。 やがてふっと、爪切りが遠ざかっていく感触。次の爪に移るのか、そう考えていたおれはしかし、突如ぷうんと鼻を刺した独特の香りに驚き瞼を見開いた。 「バ……ンダ、ナ?」 「ん〜?」 「そ、それも船長が…?」 「いや? おれが勝手に」 答えたバンダナの真剣な眼差しは真っ直ぐ、おれの爪を見つめている。 甘皮付近を擽った小さな刷毛が、ひやりとこそばゆい。 ぺたぺたと器用にも斑なく重ねられていく彩色は――黄。 それは、マニキュアだった。 「何で……黄色?」 バンダナは普段、マニキュアなんてものは付けない。 ということは今初めて開けられましたといった様子を醸し出す、この小瓶は何だ。まさか、いつかの娼婦が置いていった忘れ物の一つだったりするのだろうか。 …それとも。 まさかとは思いつつも浅ましい想いを映し、おれの声は自然と期待に震えた。 「んー…まあ、ハートの色だろ?」 軽く答えたバンダナの瞳は、おれの目を見ない。 だから願望に歪んだおれの思考回路は、そんなまさかだけどだってと訳の分からない言葉の羅列を巡らせつつ、それでもありもしない大それた予想を立ててしまう。 バンダナがおれの為に態々マニキュアを用意してくれていた――なんて、そんな馬鹿なことは絶対、ある訳がないのに。 「このマニキュア、ワカメにあげる」 「えっ」 だけど、おれの爪をバンダナが指摘したあの後直ぐ、バンダナは船から降り、丁度上陸していた――美爪術が盛んな――街に出掛けていっていた。 そして、おれの爪を彩り出したその色は黄色はおれの、瞳の色とおんなじだ。 「ちゃんと使えよ?」 「そ、そんな、勿体ないよっ…!」 「馬鹿。こういうのは使う為にあるんだってば。…仕方ないからなくなったらまあ、またあげるからさ」 十の指全てが、徐々に彩られていく。 そして黄の道を描きながらおれの爪先を滑っていたそれはぴたり、遂にその動きを止める。 「な、これで少しは爪噛みも躊躇するだろ?」 すっと離れていってしまった黄。色づいた刷毛。 仕上げとばかりにふうと吹き掛けられたバンダナの吐息は指先からおれの全身を蒸気させ、くらくらとした目眩にも似た感覚を齎す。 「――できた」 言われてその後、「まだ触んなよ」との忠告をいただきつつ、おれはそっと自分の指先を小窓より射し込む陽の光に翳した。 そして、おれは気づく。 これは、ただの黄色ではない。 ―――バンダナの色、だ。 つやり、エナメル液に反射した光と、それらの隙間から見えたバンダナの髪。その両方がまるで共鳴し合うかのようにして輝き、おれの瞳の中をきらきらと踊る。 そこは金糸雀色。大嫌いな自分の中で唯一好きな場所、そこと同じ色。 そして紛れもなくおれの指の先に佇む――おれがおれの目を好きな理由――バンダナの髪と同じ色だった。 120507
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