それはある、雨の日のことだった。
 抑揚の少ない教授の声にじっと耳を傾けていれば、徐々に陰っていった空模様。降り出した雨を特に深く考えることなく横目に見ていたのは、ほんの数十分前のこと。

 さあさあと響く雨音は無情。灰色に煙る構内をぐるり見回し、おれは玄関の前に立ち尽くす。
 天気予報ではきちんとこの旨を伝えていたのだろうか。突っ立ったままのおれを尻目にもせず、疎らに残っていた人々は次々に様々な色を咲かせするり遠ざかっていく。遠く門の外で行き交う華やかな傘が、何だか花の大行進に見えた。
 季節柄のお陰でまだ細かい雨だとは言え、決して小雨ではない突然の悪天に足を止め佇むおれは、当然何の雨具も携帯していない訳で。――仕方がない。決めれば一つ、おれは足を踏み出す。さあと瞬く間に薄く体に降り注いだ雨は、春とは言えどやはり少し寒い。
 門に向かって急くことなく歩き始めたおれはしかし、何か予感染みた感覚にふっと後ろを振り返った。

 数メートル先からこちらへとゆるり、向かってくる傘。何の変哲もないビニールのその下できょとんとその瞳を丸めたシャチと、おれはぱちり目が合った。

「ペンギン、傘忘れたのか?」

 何歩かで距離を詰めつつ問うてきたシャチのその言葉に、おれは何故だかばつが悪いような気持ちになる。

「…今日は寝坊したんだ」

「ふーん」

 珍しいこともあるんだな、と。軽い口振りでそう結んだシャチはひょいと、その手の傘を然り気無い仕草でこちらに傾けてくる。ふっと笑んできたその唇の弧に甘え、おれはするり目の前の男の手によって差しかけられた小さな空間へと己の身を潜り込ませた。おれの頭がその天井に引っ掛かりかけた途端、慌てた様子で傘を掴む右手を浮上させたシャチ。それを見かね、おれはその手から白く細長い柄を掬い取る。

「あっ」

「おれが持つ」

 おれよりも身長の低いシャチは少し恨めしげな目をして、しかし口を噤み、ぐいとおれの手に移った金属のポールをまるで八つ当たりするかのような仕草で押しやり、おれの肩の上方にその屋根がかかるようにしてきた。しかし、これは元来シャチのもの。既にうっすらと雨粒を受けていた己の肩を晒し、おれは傘を傾け再度シャチの肩を注がれる水滴から隠す。シャチはもうそれ以上何も言ってこなかった。

 狭い屋根の中で二人、肩をぶつけないようにして歩くのは中々に難しい。自然、常よりも言葉数が減りはしたたものの、おれたちはぽつりぽつり、何気ない会話を交わしつつ駅を目指す。時折降りる沈黙の間は柔らかな雨音が埋めて、至極穏やかな空気だった。沈黙が苦でなくなる程に慣れた自分とシャチとの――薄布の屋根だけに区切られた簡易的密室の――空間は、ほんのりと左胸の奥が暖まる程にひどく居心地が良い。

 近道にと神社の境内を通り抜けるべく、脇道へと逸れるのはいつものこと。しかし、今日ばかりは少しそれが勿体なくて。スピードを緩めたいおれに、シャチは気づかない。変わらぬ歩調で足を進めるその横に並ぶおれは、一段遅れて長い石段へと足を掛けた。
 しんと静まった土の香りが、近づく鳥居に比例してふうとおれの鼻孔に迫る。

 そして、起こったことはただ一瞬の偶然。それに過ぎなかったのだとおれは思う。

 歩き慣れたコース。油断もあったのだろう。ずるり、濡れた靴裏によって石の縁を踏み外したシャチがよろけて倒れかかるのを、無意識の内におれは腕を伸ばして抱き止めた。小さなその身体、しかし、男の身体。女性がふんわりと身に纏う肉とは違う、密に詰まった筋の肉。まるでその存在を主張するかのような意外な重さにおれもまた思わずよろけ、思ってもいない近さにシャチの顔があった。

 全ての音が消え失せた。雨音もどこかにいってしまったのか、それはただの沈黙ではなく、完全なる静寂。
 重なったシャチの視線はおれを脳内を突き抜け、真っ白になった思考はどこか遠くにあるように見える。

 一度は掠めるように。
 そして、一瞬の間を置いた二度目は、確めるようにして唇を重ねた。


 境内を抜ける間、おれたちは無言だった。
 傘を傾けずとも、すっぽり隠れた二人分の体。シャチの肩には勿論、おれの肩にさえ雨粒が当たることはなくなっていた。触れ合う肩が、その距離を物語る。
 それだけが前とは異なっていたのだが、シャチとおれとは、何事もなかったかのように神社の裏門から大きな通りに出た。霞となって立ち込める極小の粒々が、いつもは見慣れている景色をひどく見えにくくする。視界に映り込む茶の色の横髪、その跳ね方は湿気を含んでか、通常よりもずっと大人しく、まるで知らない奴のもののように見えた。寄り添うような近さで黙りこくったまま、おれたちは着実に駅へと足を進める。傘を差した早足の通行人と肩を並べ擦れ違うようになると、シャチはそっとおれの体から離れ、いつもの声でレポートについての愚痴を溢し始めた。
 そのどこかに神社の境内で起こった出来事の余韻を聞き取ろうとおれは耳を近づけていたが、駅に着いたシャチは軽く手を振っておれとは反対方面に向かうプラットホームへの階段を降り、人混みの中へと見えなくなった。


 耳の奥にこびり付いた雨音は消えず、形容し難い感情はそれに掻き立てられてほろ苦くけぶる。
 その日の春雨は長く、夜中を通して続いた。

絶句で言うなら"承"的な。120415
 
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