春休みなどという半端な休業期間は、非リアにとっては敵だ。彼女がいなければこの隙にランデブー、なんて甘い夢を見る訳にもいかない。それどころか、学校側はここぞとばかりに大量の課題を押し付けてくるものだから困る。一言もの申すならばこの青春泥棒! といったところだろうか。あれお前彼女いないんだったらどっちにしろ関係なくね?などといったツッコミは、この場合なしにしていただこう。


「……、暇だー…」

 ベッドに転がったままで見上げる窓の外は、清々しい程に快晴。全く、何とも複雑な気分にさせてくれる。足をさらけ出すようにして裾を捲ったズボン、よれて首筋を晒すTシャツ姿は、どんなにだらしがなかろうと楽だ。ぼんやりと寝転がるおれは今この瞬間にも、だらだらと無意味に時間を浪費しているのだろう。だがしかしその自覚があるからといって、ならば机に向かおうなどとは露ほども思わない。崩れた課題の山も雪のついでに、溶けてなくなってしまえば良いのだ。
 次第に全てがどうでもよくなり、おれは季節柄の陽気にうつらうつらと意識を預ける。温い睡魔がおれを誘っているのだ。仕方がない。

 そんな穏やかな昼下がりのことだった。


「―――あれ?」

 不意に響いた一つの声。おれは思わず固まってしまった。

 おれ、ではない。更に言うならこの家に存在しているのは今おれ一人。
 では、この声は誰だ。
 考えたのはしかしコンマ一秒。ぱちり反射的に見開いた瞳で、おれはその姿を捉えた。


「……あー…」

「え、誰」

 じろじろ、おれの全身に舐め回すかのように執拗な視線を向ける、一人の男。

「おれ、誘われてる?」

「…、はあ?」

 そこにいたのは見知らぬ金髪頭だった。作業着にしては汚れが目立ちそうな真っ白なツナギにその全身を包み、すらりとした長身でこちらを見下ろしてくるその顔はムカつくことにかなりのイケメン。

――それよりも今、こいつは何て言った?

 訳が分からなかった。兎にも角にもお前はどこから入って来やがったと問う他に術はないと、ゆるり体を起こしかけたおれの肩に、しかし伸びてきたのはその男の両腕。

「、おい」

 何しやがる、と開きかけた口はしかし、戸惑いに自然と言葉を途切れさせる。


――何だこいつ、細ェのにめちゃくちゃ力強い。

「黙って」

 口を閉ざしたおれを更に押し込めるが如く、薄く弧を描いた唇は妖しげな雰囲気を纏い、小さく囁いて。

「は? ってかてめェ、一体――…んむっ」


 言いかけたおれの目の前は瞬間、閉ざされた男の目蓋で埋め尽くされた。

 びしり、まるで漫画か何かのように凍てついたおれの体。しかし次の瞬間には己の唇を塞ぐ柔らかな存在に意識を取り戻し、おれは一気に暴れだ――…せなかった。


「?!! っ、―――…ッ!」

 ぴくりとも動かない体。おれは愕然する。確かにおれは男にしては小柄な部類だ、が、まさか、全力で抵抗しているというのに、こんな筈は。
 今日はまたまた休みだった、がしかし、おれはバスケ部ではレギュラーを取っていて。つまり、決して力がない訳ではなくて。
 けども今、おれは男を突き飛ばすどころか、指先一つ動かせない。


――嘘、だろ…?

 絡められた指を認識したくない。夢なら今すぐ覚めて欲しかった。丸々と見開いた瞼が、微かに震える。
 一気に血の気をなくしたおれの顔にでも気がついたのか、男は唐突とも言える動きでふとその顔を離した。

「――シャチ? …え、抵抗しないの?」

「な…んで、おれの名前……」


 というか、現在進行形で抵抗してるわ。


 驚愕から一回転。最早冷静なまでのおれの脳内は、男の頓狂な表情に的確なツッコミを入れる。

「つーかお前…だから誰だよ」

 男としてのプライドというものを一瞬にして粉々にされたおれは怒鳴ることすら忘れ、ただただ唖然としたまま唇を動かした。

「何それ、他人扱い? 流石におれも傷つくんだけど…」

 軽い口調で言って苦笑を溢したその顔にしかし、おれは見覚えなんてない。となればこの男は電波なホモ野郎か、もしくは気違いのストーカーか。

「ところで…ここってどこ? 船は?」

 きょろきょろ、人の唇を奪っておきながらもまるで、こんなことは日常茶飯事だと言わんばかりに悪びれる様子のない男。そんな姿に、おれは漸くと内からふつふつ沸き上がってくるものを感じた。

「おれたち、いつの間にこんなところに来たんだっけ?」

 気さくな声であっけらかんと訳の分からないたわ言を紡ぎ、こてり、首を傾げたその目を見た瞬間、――…ぷつり。
 おれの頭の中で遂に、何かが切れた。


「……他人扱いも何も、てめェは他人だ。おれはてめェなんて知らねェんだから、当たり前だろ」

「…へ?」

 溢れた言葉は、自分でも驚く程に低く。

「てめェが一方的におれのことを知ってんのかもしれねェが、それは所詮"他人"だろうが」

 ああ、思い返せば腹が立ってきた。グッバイ認めたくもない、ノーカウントとしている保育園のユミちゃん以来。おれの、ファースト・キス。
 青筋立ててぴくぴくり、おれは、沸き上がる怒りのやり場を探して口角を震わせる。

「船、だァ…?」

「、シャチ…?」

 すう、吸い込んだ空気を腹の奥底に溜め込み、おれはそこから一気に全てを爆発させた。

「ここは日本内陸部だ近くに海なんかねェ!! ついでに言うならここはおれの部屋! そこに断りもなく土足で上がり込んできたてめェは誰だっつってんだよッ!!」

 言いきったおれがぜいはあぜいはあ、肩で息を繰り返していれば、その剣幕に驚いたのか何なのか、何故だか小さくホールドアップをした状態で固まった男。ややあってそいつは真ん丸に見開いていたたれ目を落ち着け、ふっと小さく呟く。

「ありゃ〜…これってもしかしてトリップ、とかいうやつかな? ここらの海域では多いとか、船長言ってたし…」

「…?」

 きつく眉間に皺を寄せたまま訝しげにおれがそちらを見れば、へらり笑って肩を竦めたその男は、詠うようにして名乗りを上げた。


「おれの名前はバンダナ。船長に固く忠誠を誓う…――海賊だ」


 自称バンダナというその男が語った内容は、俄に信じがたい話だった。
 ひとつなぎの大秘宝だとか、大海賊時代だとか、一体、どんな壮大なお伽噺だろうか。
 思わず「…マジキチ」と呟いたおれに眩しい程の笑顔を見せ、「犯すぞこら」と言ったその男の顔は本気だったようなので、暫くは大人しく口を噤んでおこうと思ったのだが。

 と言うかお前、頭のそれはどちらかというと、ヘアバンドって言うんじゃ…。

「ま、そういう訳だからさ」

 ぱんっ、一つ柏手を売ったその男――バンダナはにこり、人畜無害を装ってしかしまるでその胡散臭さを隠しきれていない笑顔で、真っ直ぐおれを見やる。

「おれには行く宛もない訳だし、暫くは居候として…よろしくね?」

 明るい口調はしかし、有無を言わさぬ迫力。
 更にはウィンクまでもをかましてきたその端麗な顔はしかし、嫌味なほど様になっていて。

――何と言うか、殺意湧く…。

 げんなりと肩を下げたおれは、最早諦め乾いた声で喉を震わせた。

「はははは…」

「シャチ、顔怖い。それ笑ってないよ」

「当たり前だアホウ」

 半目で睨み上げながらおれが唇の端だけで空ろに笑って見せれば、くいっとバンダナはその倍くらいしなやかな表情で、不敵に口端を持ち上げてきて。

「お代はきっちり払うよ? 体で」

「いるか!」

 叫んで投げ付けた枕はその顔面にクリティカル・ヒット!…とはいかず、易々とその左手に受け止められる。

 …くそう、現役が泣かせるぜ。

 全く、先が思いやられる。春休みはまだ長い。明日には部活の朝練も始まると言うのに。
 キャプテンには何と説明しよう…と頭を抱えたおれの気も知らずに、さらり東風にその金糸を揺らしたバンダナ。そいつはひどく綺麗な顔をして、暢気に笑う。


「楽しくなりそうだな」


 いいや全然、全く。


 そんなにべも何もない返答はしかし、何故だかおれの唇から出ていくことはなかった。

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