振り返ったその瞳から如実に滲み出るは、焦燥。白の部分まで広く剥き出したその眼はしかし、それでもおれの存在を映そうとはしなかった。

「…っ…!」

「…そんな逃げんなよ」

 呆れたおれがはあ、深く息を吐き出しつつ二人きりの空間を声で揺らせば、後退りしていたその肩はおかしな程に跳ね上がる。

「や…こ、来ないで」

 悲痛な瞳はきちんとこちらに焦点を合わそうとはせず、その瞳孔は危うく開いているようだった。
 掠れたその声に当然おれが従うはずもなく、一歩また一歩と足を進めそちらとの距離を縮めていけば、ぱっと飾り毛を翻し怯えた背中は俄に閉ざされた扉を揺らし始める。
 しかし、武器を持たないその華奢な体がどんなに奮起したところで高が知れている。純粋にその腕の力のみでそこを抉じ開けることは、まず不可能。どんなに必死に揺さぶられたところで、扉は静止の体勢を崩さない。


「ワカメ」


 その挙動を止めるのに必要なのは、たったの一声。
 震え上がったその体は一瞬にして動きを止め、ややあってブリキ細工の人形の如く、ぎこちないモーションで小さくこちらを振り返った。

「シャ、チ……」

「うん?」

「ど、どうして、こんなっ…!」

 驚愕と畏怖を綯い混ぜにしたようなその視線が、漸くとこちらを貫く。しかしその目にまだまだ納得がいかなかったおれは、伸ばした二本の腕を以てして波打つ髪が溢れる帽子、その両脇の退路を断った。
 戦き畏縮した体でぎゅうとその瞼と手のひらとを固く閉めた血流の悪い顔におれは唇を近づけ、低くそっと呟く。


「好きだから」

 おれの眼前で見開かれた瞳は凍り付いた。途端、いやいやと激しくかぶりを振り出したワカメのその強情な態度に、おれは強く眉を歪める。


「――……バ…ン、ダナ…」

 …そしてそのときぽつり、ワカメの震える唇から溢されたその名前。
 ぱちん、おれの中で、何かが弾けたような気がした。


「――なァ」

「!」

 ぐいっ、無理矢理に引き上げた顎によって、その喉を無防備にもこちらに晒させる。瞬間、流石に開かれたその瞳を逃さず、おれは筒抜けの瞳孔に己の姿を映させた。

「もういい加減諦めて、こっち見ろよ…」

 じわり揺らいだその瞳の表面はしかし少しも曇ることなく、透明な滴をぽろり溢して。

「嫌だっ……バンダナぁ!!」

 水滴に触れて重たくなった睫毛はそれでも、健気に小刻みな振動を続ける。それに縁取られた硝子体は依然として眼球振盪を続けてはいたものの、そこには昏い光を宿した瞳で薄ら笑いを浮かべるおれの姿がはっきりと見えた。

「だーかーら、おれはその名前を呼ぶなって言ってんの」

 やっと捕まえた。もう、離さない。逃がさない。
 だけど、それは違って。

「嫌だ嫌だ嫌だっ……おれは、おれはバンダナじゃなきゃ、嫌だっ…!」

 泣き叫ぶその声は、おれの体を文字通り劈く。

 ああ、手に入らない。
 何故。どうして。お前の体は魂はそして心臓はどうしてそんなにも。

 掻き毟りたい程に苦しい喉は中でぎゅうぎゅうときつく締まり、左胸の奥までもが詰まる。
 そこがあまりに痛すぎて、おれは最早笑えてきて仕方がなかった。くつり喉の震えと共に揺れたおれの肩は、益々ワカメをびくつかせる。

 おれとワカメ。その想いのベクトルがぶつかることはきっと、永遠にない。それでもおれもワカメもそれをどこまでも、不毛な方向に伸ばし続ける。

 張り裂けそうなおれの心臓をなあ、ワカメ。どうにかしてくれよ、と。

 おれがそう泣き縋り乞うたところでどうにもならないということは、誰よりもおれ自身が一番よく分かっていた。
 何故ならワカメのその気持ちは、おれのこれそのものなのだから。

 仕方がないからおれはおれを映さないその瞳に、形だけでもおれを宿らせんと目論んだ。その結果がこれだ。

 矢印の先を希うおれの心はただ真直ぐに手のひらを伸ばし、その先で震える眼差しはまた一つ涙を落とし絶望に染まった。

120328
 
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