かなりのスピードでこちらに近づいてくるその姿を見留めたおれは、ぴたり足を止め、そちらの方へと振り返る。

「ペンギンさんペンギンさん!」 

 ぴょんぴょん、まるで跳び跳ねるようにして駆けてくるその姿は、無邪気というか何というか。
 明るいブラウンの毛が柔らかく陽射しに透け、その姿は何となくおれに犬という愛玩の為の生き物を髣髴とさせた。

「…どうした?」

 少しは落ち着けという意味も含めおれが静かな口調でそう尋ねてやればぴたり、目の前で足を止めたキャスケット帽子。

「はい、取り敢えず洗濯、全部終わりました!」

 ぴしっと敬礼のポーズを決め揚々とこちらを見上げてくるその大袈裟な程の仕草は、こいつなりの体を張ったジョークなのだろうか。判断に困る。

「そうか…良くやったな」

 あの量をこの時間までに、しかもたった一人で。
 つい最近この船のクルーとなった最年少のシャチは、意欲と素直さに満ちた中々の好青年だった。世話係を命じられたときには思わずおれも顔をしかめてしまったのだが、今では実際、この新入りが可愛くないと言えば嘘になる。

 おれの言葉にその目を輝かせたシャチはやがて、緩やかにその色素の薄い瞳をサングラスの向こう側で嬉しそうに細めていって。

「へへっ…はい! 頑張りました」

 ふにゃあと蕩けた眩しい笑顔。おれは何度か瞬き、思わず、少し目を反らしてしまう。

 きらきらと光るその瞳はまるで、幼い頃に集めては時おり取り出し、夢中で眺めたビー玉のようで。
 跳ね返された光に水面で踊る飛沫を、そこから見えた透き通った世界に海を思い描いていた頃の幼い自分が、気恥ずかしくも懐かしい。


 そんな中、元気に弾んで天を見上げていた茶の色はこてり、不意に大きな仕草で揺れて。はてなと首を傾げた通りシャチにはそんなおれの心情が伝わっている筈もなく、従って瞼を伏せたおれのその行為の意味もが分からなかったのだろう。それが何故だか、無償におれの中の羞恥心を刺激した。
 じわり、己の内から染み出てきた照れ臭さ。それを誤魔化すようにしてじいっと純粋にこちらを見上げてくるシャチの前髪を手の腹でぐりぐり、その鮮やかな鍔をも押し上げてしまうのを構わず、おれは大きな動作で掻き回してやる。
 頬がいやに熱かった。


「…――あの、ペンギンさん」

 と、そのとき。

 今までの明るい声はどこへやら、すうと沈められたそのトーン。
 どうしたのかと表情を引き締め、戻した視線でおれがその先を促せば、ふ…と。シャチはその両眉を緩く、控えめに下げた。

「あの、もし良かったらでいいんですけど…」

「? …何だ」

 しおらしいまでのそのまなこに、おれは戸惑う。

「ご褒美……とか、もらえませんか?」

 ぱちり、自然と瞬いたおれの瞳は、単純に驚きの所為。
 しかし、シャチはその意味をそうは捉えなかったらしい。目に見えてひゅんと、その体は忽ち縮こまってしまった。

「すっ、すみません…! おれ、なに調子に乗って――…」

「…いや」

 がばりと頭を下げかけたシャチの動作に静止をかけ、おれは僅かに、頬を緩めて見せる。

「、え…?」

 不安そうな表情でこちらを見やった、その情けない顔。おれは意図せず、小さく笑みを溢してしまった。

「良いぞ。――何が欲しい?」

 まあ、おれの手元にあるものしかやれないがな…、と。一応ながらも断りを入れたときには既に、シャチのその顔にはぱあぁと弾けるようにして飛びっ切りの笑顔が広がっていて。
 ああ、おれが渡せる些細なものでもこんなに嬉しそうな表情を生み出せるのならば安いものだな、と。おれがそう思っていられたのはしかし、――…束の間。


「それじゃあキス、してください!」


 にっこり。愛らしいまでの笑みをその顔いっぱいに浮かべたシャチは、しかしどうしてだかそのときのおれには少し、怖く見えて。

「……、は…?」

 予期せぬ言葉に、おれはあんぐり口を閉じ忘れる。

 今、こいつは何と言った?


「だから、おれはペンギンさんからのキスが欲しいんです」

 わくわくと期待に満ちた表情でこちらを見つめてくるシャチはひどく、あどけない表情をしていて。しかしじりじり、こちらとの間合いを詰めてくるのに合わせ、少しずつ増してくる威圧感は本物。
 おれは思わずひっそり、己の背筋に冷や汗を流した。

「……シャ、チ…?」

 目の前に迫る幼い笑みから醸し出される、妙な色気。それは果たして気のせい…なのだろうか。

「…だって、ペンギンさんが悪いんすよ?」

 するり、その指先で擽られた頬の感触にびくっ、おれの肩は知らずに跳ねる。

「無防備な顔して赤面、なんて、おれに見せちゃうから…」

 ぺろり、舌舐めずりをした鼻先数センチの唇に、おれの脳内では――警鐘。

「ちょ……っと、待てっ…!」

 落ち着け。一先ず落ち着け。

 再び頬に集まり始めた熱に、おれは慌てる。
 しかし、このまま流されてはいけない。きっと目尻をつり上げ、はくりと唇を開いたおれは――…

「……やっぱり、」

「っ、…?」


「――…駄目…っす、か…?」


「…、……」

 うるうる、まるでさざ波が立つかのようにして揺れ光ったつぶらな瞳に、うっ…と酷く動揺してしまう。

 狙ったもの、なのだろう。それくらい、おれにも直ぐ分かった。
 そう。それは正に、女さながらの可憐な嘘泣きで。

 お前は男として、それで良いのか。

 おれは思わず今のこの状況を忘れ、その肩をがしりと掴み真剣に問い質したい衝動に駆られた。

 しかしその悲しげに揺らぐ眼差しに、おれの内からはどうしようもなく罪悪感が湧き上がってきてしまったのも事実。
 その体には悲痛に下がった犬の耳と尻尾とが、ありあり見えるようだった。


 ――はあ…、と。


 おれは肺腑の奥から吐き出すようにして、深くため息。
 片手で自分の蟀谷を抑えながらも低く、吐息のような声で微かに紡ぐ。


「………良いぞ」

「え?」

「――…だからもう、好きにしろと言ったんだ」

 こうなれば最早、開き直りだ。おれは潔く顔を持ち上げ、まだ僅かに熱さの残る頬を晒す。

 見えた透き通る海の色。
 驚いたような顔のシャチとぱちり、真っ正面から視線が絡まった。

 …沈黙は、少し。

 やがてゆるり、持ち上がった目の前の顔の口角は、明確にそいつのやんちゃを滲ませていて。


「――んじゃあ早速部屋、…行きましょ?」


 …――何故、だとか。話が違う、だとか。
 言いたいことは、たくさんあった。けれど。
 そういった言葉は全てくっと、驚き詰めた息と共におれの喉に吸い込まれていってしまう。


 …がしり、

 それは、まるで逃さないとでも言うように有無を言わさぬ力。
 おれの肩を掴んだシャチの手のひらは小ぶりながらも確かに、――"男"のものだった。



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