…ひたり、気づけば己の首元に吸い付くようにしてあった手のひら。



「―――何をしている」


 がしり、背後から伸びてきていたその手の腹に押し潰されたのは、おれの喉にある一つの突。その奥できゅうと気管がその空間を狭めたのが分かった。
 喉元を固定する手のひらの力は本物。決して脅しではない。ひゅっ、詰まった息がその証。

 しかし、おれがそれに焦ることはなかった。
 それは、殺されはしないだろうと無防備な信頼を当てにし、高を括っている訳ではない。


 ――…ひたり、と。


 おれも咄嗟に後ろ手で構えた間棒で反撃の準備を万端に、背後に立つ男のその横っ腹に浅く突き立てていたのだ。

 …ぴりり、張り詰めた空気。

 しかし、おれの首を鷲掴む敵船の戦闘員――キラーは、それ以上のアクションを起こそうとはしなかった。その手を外すこともしなければ、おれへの酸素供給を断ち切ろうともしない。

 だからおれはするり、至極落ち着いた気持ちで軽く唇を開いた。


「――この前無駄にした二回分の弁償、だってさ」

 ひらり、間棒を持つ手とはまた別の手で揺らした小瓶。その中ではとろり、不透明な黒色が粘着質に流動する。
 おれの背後には暫しの沈黙が降り、ややあって小さく呟かれたその液体の正体。


「…マニキュア、か」

「そ、ご名答」

 小さく笑みを溢したおれの手のひらからひょいとその小瓶は離れ、恐らくはキラーのそのポケットの中にでも収められた、のだと思う。
 本来求められていたものとは違う結果になってしまったが、取り敢えずは任務完了――と。おれはゆるり、体から力を抜いた。
 うちの船長からこの船の頭への贈り物。ごく一般的な方法、つまりは手渡しすれば良いだけの話を、その目の下に深い隈を飼った船長はおれに、どこかの島にいた赤い衣服に身を包む親父の如くそれを本人に気づかれることなく枕元に置いてこいと命令を下したのだ。
 全く、特に意味のない船長の気紛れ程、迷惑なものはない。

 ふっと肩の力を抜いたおれに気づいたであろうキラーはしかし、未だその手をおれの呼吸経路から外す気配を見せなかった。
 おれはすうと鋭く尖らせた横目で、背後を窺う。


「――…今、何考えてる?」

 静謐な池に投げ込んだ小石のように、広く染み込んだおれの声。


「…何れは敵対するお前を今ここで殺れば、後々楽だろうな、と」

 答えたキラーの声もまた静かで、真を秘めていた。


「奇遇だね、おれもだよ」

 おれは秘かに、力を込めて間棒を握り直す。
 くいと口端だけを持ち上げたおれの横顔でも見えたのか、おれの首に触れるその指がぴくりと僅かに痙攣を見せたような気がした。


「…船長の邪魔になるものは、要らない」

「…あいつの道の為ならばそれが何であっても、斬り捨ててやる」


「――海賊王になるのは、」


 ――ばっと、おれは体を捻る。

 キラーのその手は存外簡単におれの体を解放し、二人の面は遂に真っ正面から―――対面した。




 ――「キッドだ」「船長だ」。




 どちらも譲ることはなく、重なりあった声。底冷えしたその鋭すぎるまでの眼差しが、不気味な程に無表情な二人の間で絡み合う。

 鼓膜を劈く耳鳴りが聞こえてきそうな程に爆発間近の緊張で埋め尽くされた空気。
 しかしそれはふと、おれと向こうとの殺気が同時に消え失せたことから解消される。

 おれは唇の隙間からぽつり、言葉を溢した。


「…たまに思うんだ。おれ、あんたを拘束して誰の目も届かないところに――…閉じ込めてやりてェって」


 向かい合うその顔は無表情。おれはそれに構わず、独り言のつもりで言葉を繋いだ。

「それで全てが上手くいきそうな気がないか? おれ、できればあんたを殺したくないんだよ」

「………」

「あ、ごめん。流石に引いた?」

 くつり、自分を揶揄する意味も含め喉の奥で笑ったおれは、自分のこの思考の危うさを自覚していた。

 狂気と愛情は紙一重。
 その具現がこれ、おれの中に巣食うもの。

 この想いを垣間とはいえ人に晒したのは、これが初めてのこと。しかもそれは他ではない、キラー自身に向けられたものなのだ。目の前のこの男がおれに対して不快の念を抱くのも、仕方がない。
 少なくともおれは、そう思っていた…のだが。


「…いや、」

 答えた声は率直で。そこに嘘は欠片もないと、おれは直感的に理解した。


「おれは寧ろこの手でお前を…――殺してしまった方が良いんじゃないかと、いつも思っている」


 …きらり、危険に光った二つの瞳。

 しかし、そこから覗くのはただの狂気ではない。どうしようもない程の熱情がその中に、確かに見え隠れしていて。


 愉快だった。
 凄く凄く愉快だった。

 同じことで頭を悩ませ葛藤するおれと、この男の滑稽さが。

 その――愚かさが。



「…――まあ、今はさ」

 おれはがらり、己の口調を一気に軽いものへと変えてにや、と。口元を緩め、薄く笑って見せる。


「イケナイことして、楽しもうぜ?」


 傾げた視線で覗き上げたその瞳は既に、いつもと少しも変わらない色。

「…ああ」

 ポーカー・フェイスな無表情。
 しかしその瞳の奥に隠れた焦燥、欲、背徳の念。

 おれとキラーとを妨げるもの、そしてそれによって生じる目の前の男の苦悩が無償に、おれの情欲を掻き立てた。



 想いと現実とかぶつかり合って、軋み歪んで悲鳴を上げる。
 そんなことには、もう慣れた。

 おれたちは相手の気の置けない存在でありたいという心の隙間に堕落を許し、互いが望んだ束の間の裏切りの行為に溺れる。
 できることならば背中を預けたかった。しかしいつかこの先対峙するであろう宿敵のその温もりに、今は触れられるだけで――…良い。
 どんなにそうしたくとも"こちらに来てくれ"などと、おれたちは決して言えないのだから。


 全ては表出されることなく、おれはただただシニカルに笑って己の狂熱を覆い隠す。

 それだけであんたは、おれを愛してくれるのだろう。











 燃え上がるその行為の間中、幾度となく絡まり合う熱い視線。

 ――しかしそれは所詮、明日には消える熱。



 微睡みの中で感じる温度がするり、己の肌から遠ざかったことによって促される覚醒。
 今日もまた"このとき"が来たのだ。

 バンダナが坦々とこの部屋を出ていく準備を始める気配。それを感じ取ったおれは、秘かに薄目を開ける。予想通り衣服を身に付け出していたらしいバンダナのその小さな衣擦れの音を確認したおれは再び瞼を下ろし、そっと耳を澄ます。

 それは聞き慣れひどく耳に馴染んだ、静かな静かな軽い音。
 眉を潜め深く咀嚼したその意味は、おれに何とも言えない虚無感を与える。

 ひょっとするとバンダナはおれの狸寝入りに気がついてるのかもしれない。だけどお互いそれに関して何も言わない。それが暗黙のルール。
 おれたちは今まで一度も、朝まで体温を分け合ったことはなかった。

 時々思う。もしおれが今起き上がりその手を掴んで引き止めたとしたら、こいつはどうするのだろうかと。
 しかし、それは所詮思うだけだ。それを実行に移したことは未だ――ない。


 衣服とはいってもそれは、ツナギ一枚と少し。その間は五分にも満たない。
 身支度を整え終えたのであろうバンダナが足音を殺し、こちらに近づいてくるのが分かった。ふっと瞼に降りた影は、奴のシルエット。


「じゃあな、キラー」


 …――バンダナがおれの名前を呼ぶのはいつも、このときだけだった。

 目を開けなくても分かる。今のバンダナのその目に、焼けるような熱はない。ただ穏やかで嫌になるくらいに落ち着いた温もりが、空寝するおれの頬をじいと撫でる。

 全く、一体何を考えているのやら。

 いつもそうだ。こいつの想いを読むことは叶わない。その笑みの裏に、全てが隠されてしまう。

 遠ざかってゆくその背中に、しかしおれは何も言わない。言えない。
 何もできなかった。今日もまた、おれは。


 …頂点に達した後、束の間。バンダナはいつも意識を飛ばす。
 そのときのそいつの無防備さと言ったら。おれは幾度、その腹に愛刀を突き立てたいと考えたか知れない。
 そのときのみ見ることができる、その何の策略も何の警戒もない寝顔におれは愛おしさを覚えながらもひどく、焦燥に駆られるのだ。

 その息の根をこの手で止めてやりたい。バンダナの一生を、一生に、おれが。

 思いながらもしかし、おれはいつもそれを実行することができなくて。




 ―――取り残された自室のベッドの上。そこでゆるり、体を起こしたおれは、黙って視線を斜め下方向に伏せた。
 奴が寝転んでいた辺りのシーツの波。その白にそっと、己の指先を泳がせる。


「――…」


 未だ微かに残る奴の微温に、おれはやはり何も言えなかった。



120311

Dearもちおさん with my heart! Byソウ
 
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