―――…何で、こうなったんだったっけ。


 おれは、目の前のバンダナを見下ろす。
 我に返った訳ではない。ただ、今さらながらも何となく不思議に思ったのだ。

 ぐったりと壁に背を預けたバンダナの体には、殆ど力が入っていない。血の滲んだ箇所は数えきれない程に、多数。左目の周囲を彩るは青あざ。その瞼は勿論、半分も開いていない。擦りきれたような粗い傷から鋭利な刃物で入れられたかのように綺麗な切り傷まで、その肌には種類豊富で大小様々な暴力の跡が刻まれてあった。鼻腔の下には擦れたのだろうか僅かに薄れてはいるものの、まだ乾ききってはいない鼻血の跡まである。
 まあ、つまりはぼろぼろ。

 なんて、改めて随分と他人事のようにアナライズしてみたものの、その惨状は全て、おれがやったこと。おれがこの手で、この足で。


 ことの発端は宴の席で浴びるように飲んでいた酒で、すっかり脳味噌がいかれてしまった頃。いや、それを今こうして認識してるということはまだそれほど、いかれてはいなかったのだろうか。
 まあ兎に角、そのときおれはふと思ったのだ。

 ――今までに一度たりとも、バンダナが流す涙を見たことがないな、…と。

 思ったのならば即行動。おれはその腕を引き人気のない倉庫に連れ込み、手早くバンダナを後ろ手で縛り上げたのだ。
 それから幾らかの時間が経過し―――今、この状態。


「――…つーか、何で抵抗しなかったんだよ」

 薄汚れた倉庫の扉を背後でばたりと閉じたときに見た、きょとんと不思議そうな様子をしていたバンダナの表情を思い浮かべながら、おれは苦虫を噛み潰したような思いで顔をしかめる。

「いやぁ〜…まさか、こんなことになるとは思ってなくて」

 痛い愛だね、と。ほざく声は明らかに掠れていて、おれは心底呆れて「阿呆か」とだけ返してやった。


 …じりり、


 束の間、僅かばかり離れてその様を観察していたおれはしかしやがてそれにも飽き、ゆっくり、その乱れた金糸の下に隠れる瞳をじいいと見つめたまま、バンダナに近づく。
 その距離が縮まっていくにつれて、ゆらり、妙な色を滲ませ光った二つの双眸。それにすうとおれが視線を細めてみれば、その先でバンダナはへらり笑った。しかし、裂けた唇の痛みにそれは直ぐさま歪み、失敗してしまったようで。

 …――これ程までに傷ついてもなお平気な様を気取って笑おうとするバンダナの、その恐怖に染まった瞳が見たい。

 黒くどろどろとした欲念が、おれの中で燻り唸る。
 おれを、駆り立てる。

 こんな――見るに堪えない程の様になってもしかし、バンダナは涙一つ溢さない。それに、おれはひどく苛立つ。
 ぐいっ、おれは乱れた胸ぐらを掴み、目の前のその体を引き寄せた。もう力を入れることすら叶わないのだろうか、だらりと落ちたバンダナの両腕は後方に取り残されている。抵抗は、やはりなかった。いや、ただ単にできなかっただけなのかもしれない。
 留め具がどこかに飛んでいってしまったらしいその襟ぐりの隙間から、ちらり見えた赤い情事の痕。船長にでも付けられたのだろうか。あの人はああ見えて案外、嫉妬深い。

「………」

「…?」

 己の手のひらにしっくりと馴染んだ、ナイフ。ひらり流れるような動作でそれを取り出したおれを見、若干の焦りを滲ませつつも鈍感なふりをして首を傾げたバンダナの顔を見下ろし、おれは笑う。
 躊躇いなどはなく一気に、己の手のひらで尖る白刃を一閃に煌めかせた。

「――、ッ…!」

 狙ったのは鎖骨の、少し上。赤に飾り付けられたその肌。動脈は上手く、外す。慣れた得物でおれは腹いせにぐさぐさぐさぐさと何度も、その痕を突き立てた。
 柔らかな肉にその先端が食い込み、突き刺さる。幾重にも積まれた組織をぶちぶちと潰し切っていく感触が、鈍く深紅に輝く相棒を通して伝わってくる。少しの満足。愉悦を感じた。

 しかし、


「…っ、ふ……」

「…………」

 バンダナがその歯を食い縛っていたが為に、聞けなかった悲鳴。くぐもった息で掻き消された所為でその苦痛が具現したものは精々、くしゃりとしかめられた柳眉のみ。
 腹が立ったおれは衝動的に引き寄せた唇にがぶり、思いきり犬歯を――突き立ててやった。やがて染み出してきた赤をじっくり、舌先で味わう。
 甘くはない。しかし、芳ばしい血。生命(いのち)の味。

 べろの穂先で圧し拡げるようにしてその傷口をたっぷりと嬲り終えた後にねっとり、唾液を塗りたくった唇から離れて数センチ。
 予期せず、バンダナの双眸とひたり、おれの視線は絡まった。
 こちらを見つめるその恐ろしい程に真っ直ぐな瞳に突如、おれの背筋は粟立った。そして、それと同時に内から湧き上がってきた、妙な焦燥。

――…ああ。

 そしておれは唐突に思い付いてみる。

 あの眼球を刳り抜き手のひらに乗せ、それから口内に放り込んでじっくり舐ってみたい。
 咀嚼したりは、しない。ただ単純にくちゅくちゅと、己の舌の上で転がしてみたくなったのだ。


 瞬きもせずにこちらを注視するバンダナの透き通った目の玉に、おれはそっと手のひらを伸ばす。その角膜に指先が間もなく触れる、その刹那。


「――……」


 しかし、止めておいた。


「……な、に?」

「いや…」


 今おれが見たい液体が例えその後に溢れたとしても、果たしてそれはどうだろうか。
 溢れる涙の源はしかし、絶望や苦痛といった感情を少しも映さない空洞だなんて――…酷く、興醒めだ。


「…シャチって、さ」

「うん?」

「おれには何となく、受けのイメージしかなかったんだけどなぁ…」

 痛みにその顔を引きつらせながらもへらり、やはりいつものようにその真意を窺わせない笑みを見せたバンダナは、ゆっくり、おれの表情を見上げてくる。

「なに、Sなの?」

 この場にそぐわない、暢気な口調。つられておれもふと、曖昧に視線をさ迷わせてみた。

「別に、そんなつもりはねェけど…」

 そして徐にするり、自身の手のひらを持ち上げ見つめた。

「――まあ、でも」

 そしてそこを固く握り締め、拳という名の使い慣れた凶器を形作る。


「今、かなり楽しい」


 下手くそな笑顔をそれでも未だ取り繕い続けるその横っ面をおれは、断然拳で打ち抜いた。


 あらぬ方向へと逸れた、その面(おもて)。しかし、今回はまだかなり加減をした方だ。
 ゆるり、内出血によって赤く色づいた頬を連れ添い、バンダナの顔は再びこちらに戻ってくる。


 …全く、どうしてこちらから目を逸らさないのだろうか。
 どうして、早く屈さないのだろうか。


 それだからおれの心臓の辺りはどうしてだか、


「…バンダナー」

揺れて

「ん?」

光って

「やっぱ、愛かも」

内に隠しきれていない畏怖を覗かせる

「…へ?」

その眼に、


「おれ、実はお前のこと、結構好きなのかもしれねェ」


 …ぞくぞくする。


 再度振り上げたナイフに目にしたバンダナがその顔に苦笑を浮かべ「殺すのは勘弁な」、と。そんな風に小さく唇を動かしていたのが、眼前を急降下していった己の腕越しに見えたような気がした。



120305
 
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