薄すぎる白をその表面に纏った地面に足跡を刻み付け、おれは純白を踏み荒しながらも坦々と前に進む。…――寧ろその跡にこそ、人は悦を覚えるものだろう。
 さくり、小さく小さくおれの下でないた雪。弱々しい力でおれの足を掬おうとするそれらを軽くあしらいつつ、躊躇わず前進。
 ややあってするり、吐気が白く浮き上がる路地裏を近道する。

 と、そのとき。視界の隅に見えた黒。

「、…」

 ぱっと振り向くとそこには、猫。
 まるで闇夜を切り取ったかのような黒の猫が、そこにはいた。

 ビルとビルの隙間から差し込む眩しい光を跳ね返す――その野良にしては艶やかな濡れ羽色の――黒は、しかしどうしてだか一瞬青く光って見えて。
 ゆらり、艶美な動きで揺らめいた鉤の尾。月の色した黄色い瞳が、おれを嫉むように見る。どこかやけそうな程に鋭い眼。
 全く、どうしたというのか。

 おれはひょいと肩を竦めた。

 すると猫はくるり。まるで、今までの鮮烈な視線などなかったかのようにあっさり踵を返す。これには少しばかり、おれも驚いた。
 妙に足を高く踏み上げ、とことこと肉球が鳴らす足音が聞こえてきそうな様子で猫は歩き、去っていく。

 ややあっておれもまたくるり、前に向き直ると、左胸の辺りで揺らいだ僅かな戸惑いの念を直ぐさま掻き消し、立ち止まる直前と何ら変わりのないリズムで歩みを再開させた。
 道の先で路地は途切れ、明るい陽射しが覗いてる。

 後ろを振り向こうとは思わなかった。







 慣れた動作で両開きの自動ドアを潜る、その直前。おれは何の気もなく出し抜けに、ふうと顎先を持ち上げ空を仰いだ。
 くらり、目眩がしそうなくらい高く遠く。そこで、その壁は漸くと途切れる。
 見上げたそれはおれの会社。おれの家。おれの、帰る場所。
 馬鹿でかく聳えるそのビルに付けられた銀のプレートには『Pirate of HEARTS』の洒落た文字。おれの所属する、ちょっと変わった会社名だ。


 実際、うちの会社は色々と変わっている。なんせ一般的に社長と呼ばれるべき存在を"船長"と呼ぶことが強要されているのだ。何故か。
 ちなみに本来副社長であるはずのの肩書きは"副船長"、その下に付く平社員たちは"船員(クルー)"と呼ばれている。その他にも様々なところで、おれたちの会社は基本的に全て海に基づいた呼び方をされていることが多い。

 しかしだからと言って、おれたちの会社は海に関するものを取り扱っている訳ではないのだ。これがまた不思議なのだが。手掛けるものは主に医療関係。器具や知識、技術など、幅広く、日本を含めた世界中の国々とやりとりしている。
 しかしその裏でおれたちは、中々に悪どいこともしていて。それは"情報"という――現代社会では決して侮れない、寧ろ使い方次第では最強となりえる――武器を用いた、例えば強請りや脅しなどといった交渉行為だった。


 だだっ広いエレベーターボックスの中。おれは足を踏み入れ対面した鏡の壁から踵を回らせ、観音開きの扉の方へと向き直る。
 指を乗せたのは最上階――ではなく、その一つ下。

 このビルの最上階に君臨するのは、この会社の船長。
 その直ぐ下の――今おれが向かわんとしている――フロアには広めに取られた副船長の、そして、おれともう一人の幹部用のプライベートルームが設置されている。
 そこがおれの住み処――帰るべき家、だった。


 ぽーん、


 軽い電子音と共に、左右に開かれたドア。
 おれは網膜に流れ込んできた白色の光に目を細めつつ、そこへと一歩足を踏み出した。



「―――今回はどんな奴だった?」



 …ぴたり、

 おれは、体の動きを止める。
 全くその気配に気がつかなかった動揺を隠し、しかしその声の主の正体に諦めを付けたおれはくるりとそちらを振り返った。

「…何してんすか、船長」

 こんなところで、と。おれは咄嗟にそう言ってみるものの、実際今この場にこの会社のトップがいること事態に何らおかしなところはない。
 一歩エレベーターから足を踏み出せばワンフロア全てが船長のプライベートスペースである最上階とは違い、この階に広がるのは誰のものでもない共有スペース。長いソファが向かい合って二つ。大きな一人掛けのソファが一つ。その向かいには巨大な液晶画面。幹部以上の人間のみが出入りを許されるこの階の共有スペースには、船長も頻繁に訪れる。
 だから今ここにいつもの如く雑務からエスケープした船長が寛いでいても、不思議はない…のだが。

「男か」

「女ですよ」

 突然の断定するような口調。
 それにむくむくむくと反抗の念が湧き上がったおれは即座にそう切り返していたものの、船長にはしかし初めからその答えさえも分かっていたのだろう。

「女なら、良い」

 深くそのソファに沈み直した船長は瞼を閉じ、その長い足を組み直した。

「…あのですねぇ…」

 おれは少し呆れ、苦笑いを溢した。

「おれ、前にも言ったじゃないですか。抱いたり抱かれたり、そーゆーことができる男は船長含め三人だけで、それ以外無理だって…」

「――なら、お前はあいつら相手にだったら抱かれるのか?」

「………」

 いつの間に開かれたのか。船長の深い藍の色が鋭く、おれの両目を射抜く。
 そんな予定はない、と。心の中で呟いたおれの声は、そこを通して船長も伝わったのだろう。

「他の奴に突っ込まれたりしやがったら、バラす」

 低くぽつり呟かれたその言葉は、その内容程恐ろしい声ではなくて。

「…冗談に聞こえないんすけど」

 小さく溢したおれの素直な思いに、船長はひょいとその肩を竦めて見せた。

「冗談じゃあねェからな」


 言って、その後。

 するり、流れるような動作でその場に立ち上がった船長。そのまま足音もなくゆるり、しなやかな動きでおれとの距離を詰めてくる。
 その間が五十センチにも満たなくなったところで、おれと船長の双眸は視線を交わし合った。


 ――がしり、


 掴まれた胸ぐらは予想済み。
 おれはその刺青だらけの手のひらにぐいと引き寄せられるまま、船長の薄いそれと唇を重ねた。


 …熱と吐息と互いの分泌物。

 脳髄にまで響く水音に、体が痺れる。
 全てを絡めその間じっと相手の瞳から目を離さないのはおそらく、おれと船長の内に同じだけ潜む闘争心の所為。
 おれたちは隙在らばその喉笛を噛み付き主導権を得んと、ぎらぎら視線を光らせていた。


 …するり、


 次の瞬間、船長の手のひらが不意におれの臀部を撫ぜた、かと思えばそこは強弱を付けて揉み出されて。
 おれもする、斑模様の散るボトムの上から、船長のそこを触り返した。
 その間、舌と舌とは勿論相も変わらず、くちゅくちゅと卑猥な音を立てて複雑に絡み合っている。互いに尻をまさぐり合いながら熱心にキスを交わすなんて、端から見れば随分と滑稽な光景だ。

 と、そのとき。息もつかせぬ唾液の交わし合いは不意に途切れ、唇を離した船長の藍の眼に突如瞳の中を透かし見られた。


「――…てめェ、人のどこ触ってやがる」

「、船長こそ…」

 低く、掠れるような声で。鼻先が擦れ合いそうな程の至近距離で交わされたそれらの言葉は、湿度も温度も高い。おれたちは二人、鋭い瞳で凶悪な笑みを浮かべながらがんつけ合った。
 その刹那、眼差しの奥に見つけた熱情。

 おれたちはそれ以上言葉を交わすこともなく、再度互いに縺れ合いながらも部屋へと急いだ。







 おれが漸くと船長に解放されたのは、すっかり太陽が真上に上りきってから。…いや、寧ろそれより少し降りてきてからのこと。

 おれはエレベーターを使って共有スペースまでずるずると体を引き摺っていった、がしかし、その先がだるく遂に体を投げ出してしまった。とは言ってもその先は、長い長いソファの上、なのだが。
 全身から力を抜いて、そこに俯せで倒れ込む。おれは瞼を閉ざし、軽く意識を沈ませ休息を計った。



「―――バン?」

 それから、一時間は経った頃だろうか。
 肌に慣れた微かな気配を事前から察知していたおれは、ゆるゆる、落ち着いて視界を開く。

「何をしているんだ」

 覗き込んできたものは案の定、深い深い青の色。
 おれは柔らかなスプリングの感触に頭を埋めたまま、もぞり首を回しその顔を見上げた。

「いやぁ…ちょっと、腰が痛くって、さ」

「腰?」

 ペンギンは心底不思議そうな様子で、頭上にいくつかのクエスチョンマークを飛ばす。おれはそんな様子を無様にソファの上に転がったまま、のんびりとした思いで眺めていた。口端は、少しだけ緩めて。
 ややあってペンギンは、そんなおれの表情に気がついたのだろう。ぴくり、僅かに不快そうな様子で、その柳眉を跳ねさせる。
 しかし、それだけ。おれのにやけた笑みの意味までもを深く考えようとは思わなかったようだ。

「…まあ良い」

 淡白な声色でばさり、ペンギンは話を断ち切った。
 それにおれは何故だかそれに、若干の落胆を覚える。

 落胆。おかしな話だ。
 おれは一体ペンギンに何を望んでいたというのだろう。
 何に気づき、何を――どんな顔して欲しかったというのか。

 己の内に渦巻き始めた難解で煩雑な何かにおれが気を取られていれば、ふ、ペンギンは再びその唇を開いた。
 どうやらおれの予想は想像は外れ、話はまだ終わっていなかったらしい。
 続く言葉に何となくの検討を付けつつそれに備え、おれはその唇に注目した。

「――…そんなに酷いんだったら、おれがマッサージでもしてやろうか?」

 しかし、そこから続いた言葉は大きく予想を外れたもの。
 おれは、丸く目縁を見開いた。

「えっ?」

「……ん?」

 満ちた、奇妙な沈黙。しかし間もなく丸々と開かれた二人分の視線の内の片方が徐々に、その面積を細く冷めたものに変えていって。

「…何だ、その目は」

 ペンギンの冷たい声色。

「やっぱり止める」

「えー」

 おれは小さく眉を下げ、今度は落胆の声を明確に上げて見せた。割と本気で。

「ペンさんのけち…」

 ぼふり、おれは再度柔らかなソファな顔を埋め直す。それから大きくため息。おれの胸の内側は何故だか少し、惨めな気分。
 ゆるりと下ろした瞼の裏に深く、黒く闇が降りた。


「…お前もそろそろ、大概にしろ」

 後方から静かに響いてきた、ペンギンの声。
 それはどうしてだかおれには、やけに意味深に聞こえて。
 ぐるり、沈めた体はそのままに、おれはゆっくりとそちらを振り返る。

 その目とぱちり、真正面から視線が絡んだ。何かを滲ませた、けれども、真っ直ぐな眼差し。

 …――心に引っ掛かっていた、黒。

 妙な色で光ったペンギンの瞳に、何となくおれはあの猫の眼を思い出してみる。


「…――そう言えば今、シャチは?」

「ああ…」

 その瞬間、次に訪れるであろう沈黙をどうしてだか仄かに恐れたおれは、するり会話を繋げる。するとペンギンはこくり、軽く頷いて見せた。
 おれはやはり理由も分からないまま、それに安堵する。

「あいつは船長に数ヶ所頼まれていたからな。昨日から泊まり込みだ」

「ふうん…」

 きらり、どこかの照明を跳ね返し、ペンギンの濃青は明るく輝く。そんな瞳はおおよそ、おれたちという存在には似合わない。
 そんなペンギンの瞳からはもう、何も見えはしなかった。

 今朝とある黒猫から見たような、…そんな影は。

 おれは、瞼を閉じる。それきりペンギンもそれ以上会話を続けようとはせず、静かにその場を去っていくことを決めたようだった。そんな気配が、した。

 遠ざかる。遠ざかる。

 その足音だけがやけに深く、おれの耳に――心臓の辺りに、響いた。



120219
 
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