雪国生まれの育ち。寒さには慣れている。 はっ… 吐き出した息は白色に色づき、立ち並ぶ高層ビルを背景に溶け込む。体とその周りを包む空気との境目が凛と際立つ寒気の中、空風を頬で流しすんと軽く鼻を啜った。 日が暮れた後でちろちろと降りだした牡丹雪は久しく見え、おれは僅かに目を細める。花びらのようにふうわりふわり、ゆっくりとした速度で舞い降りるその動きをぼんやりと目だけで追いかけていれば、やがて自分さえもコンクリートの黒に引き込まれていくような錯覚を覚えた。 一面が白銀の分厚い毛布に包まれる故郷と比べれば、なんてことはない。 しかし、やはりより暖かな場所を欲するのは、人として当然のことで。 ふうっ、と。おれは、視線を持ち上げる。 そうだ、確かこの辺りにも。 唐突にそれを思い出したおれはくるりゆく道を変え、ふらりふらりとある方向に向かって歩み出す。 目指すは前方に見えるマンション、七階。 温もりを求めそしてそれの供給場所を思い出したおれの唇はゆるり、自然と満足の形に持ち上がった。 女の子は、良い。 特にその壊れてしまいそうなくらいの脆い体。いい匂いで甘くって温かくって、蕩けちゃいそうな程に柔らかい。それが、何とも。 がちゃり、 おれの指先がつついたインターフォンに応えその顔を覗かせた彼女はぱちり、おれの瞳を捉えて大きく瞬く。 動揺を示したそのまあるい黒曜石に映り込むおれの表情は、若干の哀を滲ませた誘う笑み。 その哀は理由なき人為だと、その子は気づかない。 おれは態とに己の髪先でその首筋を擽るように、彼女の肩口に額を落とす。 ごろごろ、喉は鳴らせないけれど。人懐こい猫のような仕草を狙ってその甘やかな香の肌に擦り寄りながら、顔を窺い見上げた。 そして小さく、――囁く。 「今夜、泊めて?」 こんなときの相手はやはり、歳上に限る。 ――女の子はこうやって甘えられるの、好きでしょ? 内心で呟いたおれの言葉を知らない彼女がこくり、そのつるりとした滑やかな顎を引き頷くまで、あと0.8秒。 白くうねるベッドシーツに広がる、瞳とおんなじ漆黒。その一房を掬い上げ未だ情事の熱冷めやらぬ潤んだ表情を覗き込み、おれはその頭を優しく撫でる。いとおしさを装ったそれは、暖に対するささやかなお礼。 彼女が気持ち良さげにふうとその瞼を緩めたのを認めたおれは、それに浸られる前にと、ぱっと手のひらを離す。追いかけてきた視線には、知らん振り。 十分に温まった己の体を彼女の素肌から手早く離し起こすと、ゆるり、微かに軋んだベッドの上で大きく伸びをした。 する、暑苦しくなったシーツの隙間から抜け出し、それからおれは徐にフローリング上に散らばった衣服を広い集め出す。 もぞり、彼女が肩先から捻り、天井からこちらに視線を移動させたのが分かった。 「――もう行くの?」 「うん」 彼女の落ち着いた声。おれは緩やかにしかし躊躇うことなく、即答。 そうすればそう、とだけ言って、彼女は微笑む。 この子はそういう子だった。 しかし。 「……良いよ」 「え?」 「いても良いよ、ここに」 おれはくるり、肩越しに背後を振り返った。絡み合った視線は、やけに静謐。 ああ、またか、…と。 おれは特に何の感慨もなく、悟る。 唇にはいつもと変わりなく笑顔を浮かべ、ひょいと首を傾げて見せた。ただその二つの眼だけは、すうと忽ちに冷まして。 「何? それ」 言葉の意味が分からない、といった様子を演じて用意してやった退路を、しかし彼女は決意の目を以てしてばっさりと己で断ち切った。 「帰るとこがないんなら、ここにいればいい」 「…………」 一緒に暮らそう、と言った彼女は、確か看護師。お金には余裕があるのだろう。 知性が滲み出るその瞳はひどく真っ直ぐ、それきり唇を閉ざしたおれをじっと見つめる。 「付き合ってよ。私と、そろそろ本気で」 しいん、と。満ちた静寂は、おれの耳を打った。しかし、やはりおれは何も言わない。 ややあってそれに我慢ならなくなったのだろう。その美しい顔の眉をくしゃりと、悲しみと怒りと悔しさをない交ぜにしたような形にひしゃげ、彼女は唇を開いた。 「…なんとか言ってよ、ねえ」 「…………」 おれは、ただ黙って彼女を見据える。 彼女は遂に大きく息を吸い込み、その唇で先を紡いだ。 「私…私は、バンダナのことが――…!」 「――あーあ」 妙に広く、響き渡った二つの母音。 …びくり、 間延びしたおれのその声に言葉を遮られた彼女は一つ、小さく肩を震わせた。ちらり怯えた瞳はこちらを見上げると、不安を表しその眉を下げる。 だからおれはその期待に答え、極上の笑顔をそちらに向けてやった。 彼女がその顔をほっと緩めたのは、一瞬。 「――初めに言わなかったっけ? おれ、面倒なのは嫌いだって」 最高に甘い笑顔で、しかし、低く低く落としたらおれの声に、彼女のその表情は凍てついた。 「 あ、…」 小さく吐息のような悲痛な一音に、しかしおれは同情しない。する意味も分からない。 勝手に、己の話を展開させていく。 「それにさ、おれ、帰るところならあるよ」 「え…?」 戸惑った様子でふるり、微かに震えた彼女の睫毛。 そこをつぶさに見つめながらしかし、おれは別の場所に心を飛ばした。 「――そこにいるんだよね、昔からずっと一緒にいる子。いつもつんつんしてるように見えて、実はすんごく可愛いのな。最近、なんか気になってきちゃって…」 可愛い、なんて言ったらまたその頬を仄かに赤らめ、こちらをじろっと鋭く睨んでくるであろう、幼馴染みの顔。 「あとは、ちっちゃくって、ちょっと苛めたくなっちゃうような可愛い奴」 それからくすくす、おれは、小さく笑みを溢す。 うがーと怒って噛み付いてくる明るい配色のキャスケット帽子が続いて、瞼の裏側にありありと浮かんだ。 「ああ、あとは、嫉妬させると怖あい…おれのご主人サマ、とか」 そして海色の瞳、黒き太陽を型どったかのような歯車の刺青を持った、静かなる――王。 常におれの心を占めるその三人の姿が、代わる代わるに脳内を満たして。 「ご、主人…さま?」 彼女の奥歯に物が挟まったような、そんな物凄く混乱を滲ませた声を聞いておれは、いけないいけないと意識を目の前に戻す。 「そ。おれの、飼い主みたいな人」 「…………」 「だからごめんね?」 何が"だから"、なのか。おれはおれを内心で嗤笑しながらも、さらり髪を揺らして彼女に謝る。 ピリオドの言葉を、告げる。 これで終わり。少なくとも、おれはそのつもりだった。 だけど。 「、そんなのって…」 まるで込み上げる何かを堪えるかのように、浅く、上下を開始した小さな肩。じわり、その黒い水面から湧き上がってきたものはゆらゆら、カーテン越しに差し込む夜明けの薄明かりを反射して。 「っそんなの、知らないよ…! 納得もできない。だってバンダナは私に、何にも話してくれなかったじゃないっ…!」 彼女の方にはどうやら、これで終わる気はなかったようだ。 ひくり、喉の奥が跳ねた、微かな空気の摩擦音。 白い肌を滑った雫。 ぽろぽろ、落ちた光。 …見てる分には綺麗なんだけど、ね。 おれはシニックな思いで、しかし唇の端ではやはり柔らかな笑みを浮かべて、その生暖かい涙の伝う頬を軽く指先でなぞってやった。 ひどく大切な何かにするようなその触れ方とは相反する、とびきり辛辣な言葉を、己の唇に乗せて。 「こーゆーとこで泣く子も実際、鬱陶しい」 優しく、残酷に囁いたところで、さあ、ラスト。 もっと、物分かりの良い女だと思ってたのになぁ…。 胸の内で呟いた台詞は、流石に言わない。ただ、それよりももっとシンプルに、彼女を抉る。 「―――興醒めだ」 …ほら、その黒は絶望に染まった。 愛を囁く近さで突き放すこの感覚は、言うなら中々に愉快。 おれはくつり、喉の奥でそれを味わった。 楽しかったよ。じゃあね、と。 それだけをごくしなやかな声音で告げたおれはくるり、身を翻し、時折馴染み込んでみせたその暖かな一室を後にする。 背後で何かを叫んだ女の悲痛は、ばたんと無情にも閉じた扉に途切れた。 捨てないで、と。 そんな言葉が聞こえたような気がしたが、変な話だ。 だっておれは別に、彼女を拾った覚えはない。寧ろおれが彼女に拾われた。…――上手く拾わせてあげた、のだ。 「――…あれ?」 放射冷却に冷えきった透明な空気。 そこを朝陽が照らす中、不意におれは独りごちる。 「そういえば今の子の名前、何だったっけなぁ…」 一度芯から熱を取り戻してしまえば、もうへたばらない。すいすい、おれは滑るような足取りで、早朝からも人人に溢れる街を泳ぐ。 「ま、いっか」 全てはいつか、跡形もなく消え去る。 しかし、それでもそんな何かを求め、人は―――おれは、ここにいるのだ。 120213 |