鈍い光を放つ白刃が、肌に当てられる。
 そのナイフを持つ臨也は窺うように俺の顔を見てきた。その顔には薄い笑み。

「止めろ…」


 かしゃん…


 俺の右の手首からは、虚しく金属音が響く。そこに嵌められた手錠は、俺の腕と壁に取り付けられた金属製のラックの足とを繋ぐ。

『下手にシズちゃんが手を伸ばして、いらない傷でも付いたら嫌だからね』

 そう言った臨也の手によって装着されたその鈍色の固まりは、確かに俺の動きを拘束していた。きっと両方とも、俺の力に合わせた特別製なのだろう。
 どんなに体を伸ばしても俺の左手は、ただ空を切るのみ。

「謝るっ…謝るって言ってんだろ! 俺が悪かった……っ、だから…!!」


 かしゃんかしゃんかしゃん…!


 必死に体を捻ってみても、手錠は外れない。臨也のその動きを止めることも、できない。
 すっと、赤く光を反射する不思議な色の臨也の瞳が細められる。そのナイフを持つ手に力が込められるのが分かった。


「――っ…臨也!!」



 …――そして、つう…と。



 聞こえるはずもない肌が裂ける微かな音が、聞こえた気がした。

「……ッ……!!」

 俺は息を詰め、身を固くする。気が付けば俺の体は、かたかたと小さく小刻みに震えていて。

 臨也は笑った。それはそれは、嬉しそうに。

 臨也の細い指はその肌に出来た傷を愛おしげに、そして抉るようにしてなぞる。

「……っ…」



 そっと……――臨也自身の腹の上を。



 幾重にも重なった赤黒い傷の中にまた一つ、指圧によって滲み出てきた血液が赤い線を浮かび上がらせた。

 俺は思わずぴくりと肩を震わせ、僅かに視線を逸らしてしまう。

「――ねえ、シズちゃん」

 そんな俺に向かって、臨也はひどく優しい声色で問い掛けてくる。

「痛い?苦しい?」

 真っ直ぐ透き通ったその赤色が、やけに恐ろしい。

「…でもさあ」

 ふ…、と。
 急に低くなったその声のトーン。
 臨也はしかし穏やかな表情のまま、俺にその言葉を投げ付けた。


「俺の方がもっとずっと、痛くて苦しいんだよ」


 俺は小さく、唇を震わせた。

「いざ…や…」

 もう止めてくれ、と。懇願する俺のそれは、ひどく掠れていて。
 臨也は更にその顔に浮かべる笑みを深くした。

「駄目だよ…」

 そしてその唇からは、謳うように言葉が紡がれる。

「これは今日シズちゃんが、他の男なんかと話してた所為なんだから」



 臨也がいつも服の裾をズボンから出さない理由。
 それがこれだった。

 その臍の辺りから腹筋に至るまで、無数に刻まれた切り傷。致命傷になる程のものではない、浅めの傷。
 しかしそんな傷でも、それが治りきる前に何度も何度も繰り返し重ねられれば肉は盛り上がり、抉れ、赤黒く染まり――…一生消えない傷になる。

 …それは、当て付けの自傷行為。

 俺が臨也以外の人間――例えそれが男だろうと女だろうとそいつと体が触れてしまえば、会話を交わせば、挨拶をすれば、目を合わせれば。
 それは一つ、また一つと数を増やす。

 その数は俺の裏切りの回数。裏切りの記録。いや、俺の気持ちは一度だって、臨也を裏切ったことなどない。
 しかし俺は既に罪悪感という名の鎖で、雁字搦めになってしまっていた。



「…で…」

 居た堪らなくなった俺は臨也のそのいくつもの傷痕から顔を逸らし、固く目を瞑って声を震わせる。

「っ手前は、何で…」

 そのときつうと、突如俺の頬を滑った熱い雫。

「何でだよ、臨也」

 俺はどうやら、泣いているらしかった。
 どうりで喉がいてぇ訳だ、と。俺は他人事のように考える。

「何で…っ、そんな…」

 臨也は何も言わなかった。
 ただじっと、そんな俺の姿を見つめている気配だけを感じる。

「…それが余所見をした俺への罰だって言うんなら、俺の体に刃を立てれば良いだろうが…っ!!」

 堪らなかった。
 俺は確かに臨也を想っているというのに、臨也はまだ足りないと言う。
 俺の気持ちを、疑う。

 俺は臨也だけしか見ていないのに。臨也に消えない傷痕を残されるのならば、構わないというのに。

 …だけど、

「…嫌だなあ、」

 ゆっくりと歩み寄ってきた黒が、まるで聖母のように慈愛に満ちた表情で――笑う。


「俺がシズちゃんを、傷付けられる訳ないだろ?」


 ……臨也は決して、俺を傷付けてはくれない。

 付き合い始める前を思えば、よく言ったもんだなと溢してやりたい。しかし勿論、今の俺はそんな言葉を言うこともできなくて。
 近付いてきた臨也は、俺の直ぐ目の前で膝をついた。依然その肌を汚し続ける赤が、ひどく痛々しい。
 俺は臨也の顔を見上げ、必死に言葉を紡いだ。

「も…しねぇ。……もう俺は、臨也以外の奴となんかと話したりしねぇ…! だから…臨也ももう、そんな傷…――」

「『もうしない?』……シズちゃん、その言葉何回目だっけ?」

 ああそうか、この傷の数を数えてみたら良いんだね、と。

 俺のそんな言葉をしかし、臨也は一瞬ではね除けてしまう。
 俺はぐっ…と唇を噛み締めた。じわりと、鉄の味が滲む。

「それにさ、あんまりこの傷のこと悪く言わないでよ」

 臨也の手のひらがするりと、そんな俺の唇を撫でた。
 その顔に浮かぶは、ひどく柔らかな笑み。

「これは俺の、愛の証なんだから」

 臨也の手のひらは自然な動作で、俺の後頭部へと回る。ぐいと引き寄せられるままに体を預ければ直ぐに、俺の濃灰のベストにも赤が付着した。


 …どくり、どくり、どくり。


 まるでそこに心臓があるかのような、鼓動。
 出来立ての傷口独特のその振動が何故か布越しにでも、臨也の腹の辺りから伝わってくる気がした。


「――…ね、感じるだろ?」



愛の証



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