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 おれは、女が苦手だ。原因は分かっている。

 おれが生まれたときには既に、おれのお袋はこの世にいなかった。その代わりなのか、おれがもうすぐ小学校に入学するというそんなときに、親父はその後おれの義母となる女を連れてきた。
 おれがその女のことに関して覚えていることは少ない。忌々しい記憶を気づけば脳は全て、捨て去っていたのだった。時たまその残骸であるぼんやりとした映像はおれの脳内に蘇ってくるものの、全ては曖昧。しかし、その中でも分かることがある。

 あの女は、おれのことを虐待していた。

 そいつと離れる、ただそれだけの為に、おれは荒れながらも勉強だけは死に物狂いでやった。そして寮のある高校、そこの合格通知を受け取るや否や、おれは家を出た。それから大学生になった今も、家には一度も戻っていない。


 大嫌いだった女。その顔は最早忘れた。
 しかし朧に霞む女の姿の中で、おれが最も鮮烈に覚えているものがある。

 それは爪だ。


 ――空を切る音がおれの耳に届いた、と同時に、眼球の奥で弾けた白。火花のようなそれは一瞬にしておれの脳内を染め上げ、咄嗟にはそのとき何が起きたのか理解できなかった。
 しかししなる平手、それが上方から振り下ろされおれの頬を打ったのだと、やがては悟る。
 今思えばスナップも腰も生温いそれは、幼かったおれにとってもそれ程大した衝撃ではなかった。だがその意味とは別の衝撃がおれの体を硬直させ、そして驚愕と共に微かな震えを齎した。
 けばけばしく飾り立てられた鋭い爪。それに引き裂かれた頬はぴりぴりと熱を放ち、おれは強制的に向かされた視線の先をただただ呆然と見つめていた。

 その後違和感が消えずに、部屋でほじくった傷口。そこから出てきた違和感――異物感の正体であった一つのラインストーンを認めたおれは、言い表せぬ程の厭悪のあまりぞっと血の気を引いた。

 火照りを継続させる頬肉の浅い部分とは対照的に、おれの脳内はひどく冷静になっていく。


 それに似た感覚は今でも、浅ましい女の姿を目にする度如実に蘇った。






「…難儀だな」

 ずずっ、静かに睫毛を伏せたその顔に似合わず、音を立てていちごミルクのパックを啜ったペンギンが呟く。

「まあそうなったらもう、バイになるかゲイになるかだね」

 あっけらかんとした笑みでおれを見やったのは、その金の髪をバンダナで纏めた緩い視線で。

「どっちにもなんねェよ…」

 人が真面目に相談しているのにと、おれはげんなり肩を落とした。

「女が苦手なら、一生関わらなけりゃ良いじゃねェか」

 薄ら笑いを浮かべるその隈の深い先輩の瞳は、しかし真にそれを思ってはいない。そんなことは直ぐに分かった。

「…みんながみんなあの女と同じじゃあないって、分かってるんすけどね」

 懺悔とも言い訳とも取れる口調でおれがそう呟けば、バンダナはああとその口端を持ち上げた。

「さっきの、あれは流石に酷かったよね〜」

「…さ、さっきのって?」

 それまで黙っていたワカメが小さく、そのぽってりとした唇を震わせ囁く。

「プリントを渡そうとした女の子がさ、後ろからシャチの肩を叩いたの。で、シャチはその手を容赦なくばし〜って振り払った訳」

「それは酷いな…」

 呆れた雰囲気を滲ませこちらに視線を向けてきたペンギンにばつが悪くなり、おれは微かに目を伏せる。

「………あの爪が無理なんだよ」

「爪?」

 反芻した先輩の声に、おれはこくり顎を引いて頷く。

「あの爪の何が悪いのさ。ちゃんと整えられてたし、綺麗だったじゃん」

 憤慨といった風を装って唇を尖らせたバンダナは、紳士気取りで女の肩を持つ。
 しかし、それも当然だ。全てはおれが悪い。噤んだ唇は固く、おれの反論の出口を塞いだ。

「シャ、チなら…」

 ぽつり、そのとき妙に響いた一つの声。ぱっと全員からの注目を集めた音源――ワカメは少したじろいだような仕草を見せ、こくり、細い首の中央そこでひどく浮き出た喉仏を一度動かす。それからおそるおそるといった様子で開いた唇は、詰まりながらも言葉を繋いだ。

「シャチなら…ま、先ずは、シオからとかで女に慣れてみたらどう、かな?」

「シオ…?」

 聞き覚えのない名前。と言うより、名字ならまだしも、おれは誰一人としてこの大学に通う女の名前を覚えていない。当然と言えば当然、なのだが。

「…ワカメが女の子を名前で呼ぶなんて、珍しいね」

 そう、訝しげなバンダナの言葉の通り。
 記憶力の良いペンギンや女の子至上主義なバンダナは――この場合、持て余す程の知能を有しているのにも関わらず、興味さえなければ何も記憶しようとしないロー先輩も除き――兎も角、誰を相手にしても決して本気になることなく遊び人を貫くバンダナにしかそれでも意識を傾けないはずのワカメが、一体何故。

「というか、そいつは女…なんだろう?」

 だったら慣れるも何も、シャチはまともに喋れもしないだろう、と。空になったらしいピンクのパックを丁寧な手つきで畳んでいるペンギンが発したその尤もな言葉に、おれは内心首肯する。
 本当に苦手なのだ。二メートルにまで女との距離が縮まっただけで、体が拒否反応を示す。

「女とは思えない程の不細工なのか」

 さらりととんでもなく失礼な予測を溢した先輩にちらり、その黄色い瞳を動かしたワカメは、それからふるふると小刻みに首を振るった。

「い、いえ…寧ろ、美人です」

 そんな言葉に反応したのは、当然一人。

「へえ…おれも会ってみたいなァ」

 楽しげな弧のかたちをその唇に浮かべたバンダナは、きらりとその眦の下がった瞳を光らせて。

「ば、バンダナは駄目だよ…!」

 慌てて立ち上がったワカメはその勢いでバンダナの腕を掴み、しかし直ぐに我に返ったのか、「わっ…ごごごご、ごめんっ」と飛び退いていた。


 そんな様子をぼんやりと角膜に映しつつも、おれの意識はそれに向いていない。相談する相手を間違えたなと最早諦めをつけていたおれは、ゆるり徐な動作で立ち上がった。

「ん? どこへ行くんだ」

「自販。…言っとくけどペンギン、それ、おれの為に買ってきたいちごミルクだったんだけど」

「あ」

 …すまない、と続けたペンギンの眉は僅かに下がっていて、おれはふっと苦笑いを溢すだけに留めた。

 しかし、おれが飲んでいても"子ども舌"としか言われないそれを、ペンギンが飲むだけで"可愛い"と持て囃されるのは、一体何故なのか。


 ストローを噛み潰す癖のあるペンギンを見留める度にそれを言う通りがかりの女は苦手だが、その甘やかな声にはおれも、少しの羨望を見てしまうのだった。







 その種類を選ばないのであれば、自動販売機までの距離は近い。しかし今のおれの気分に合わせパック型の飲料を求めるのであれば、少し遠くの方にまで足を伸ばさなければならなかった。
 ペンギンに飲み干されたいちごミルクにリベンジしようか、それとも少し気分を変えてコーヒー牛乳にしようか。
 考えながら歩いていたおれは、詰まるところ前方不注意だった。

 曲がり角でぱっと現れた影に、危うくぶつかりそうになる。何とかそれを躱したおれはしかし、まさか女かと近距離にあるそれに顔を青くした。
 ところがそれは、取り越し苦労。ぶつかりそうになったその人物は、次の次のコマの講義を担当する赤髪が印象的な男教授であった。

「おおっとっと…危ない危ない」

「、すみません」

 一瞬の杞憂にいつの間にか強張ってしまっていた口元にぎこちなく苦笑を浮かべたおれは、軽く頭を下げる。一歩足を後方に引き、その教授を避けて改めて前へと進みかけたところ、掛けられた制止の声。
 それに足を止めたところでどさり、おれの両手に山ほど盛られた紙束には、一体何の冗談かと思った。

「それ、三階の資料室な。適当に仕舞っておいてくれ」

 どんなににかっと眩しい笑顔を向けられたところで、オヤジ相手にときめく余地もない。

 というか、学生を顎で使うとは良い度胸だ。

 まさか、そんな台詞をロー先輩でもないおれが教授相手に面と向かって言えるはずもなく、「…はい」と頬を引きつらせながらも頷く。

 全く、おれも随分と丸くなったものだ。

「本当はこれも持って行ってもらいたいんだけどなァ〜」

 間延びした声を溢す目の前の教授の隻腕には、おれの手に収まる量に負けず、積み重なったプリントの数々。

 …これはもしやおれよりもずっと、この赤髪屋の方が前方不注意だったのでは。

 窺うようにして細まった瞳をちらり向けられたところで、おれの腕は二本しかない。ちょ、これ以上積み上げる気かと、おれはじわり背筋に冷や汗が流れるのを感じた。

 そのとき、突如輝いた無精髭の顔。
 おれの頭を越えて遠くを捉えたその瞳はまた大きく笑い、赤髪屋は声を張り上げた。


「おお〜い、シオ! ちょっと手伝ってやってくれ」


 斯くして、おれは再び己の顔面から血の気を失ったのである。





 振り返るまでもない。そこにいるのは"女"だ。
 それを理解しているからこそ、おれはその場に根を生やしてしまったかのように固まった訳で。

 赤髪屋はいつの間にかその姿を消していた。女の声は聞こえてこなかったものの、おそらくは了承を得る前にその荷物を押し付け、奴は身軽に逃走を図ったのだろう。

 頼まれたことは至って単純な荷物の運搬。しかしその先は人気のない、しかも密室の倉庫だ。他に誰かの存在があればまだ気は紛れるものの、女と二人きりとは堪らない。
 またその手等をを酷く打ち落とさない自信など、おれにはなかった。

 どっどっどっど。駆ける心臓は、おれの身体中の皮膚から気持ち悪い汗を噴き出させる。このままでは、呼吸さえ荒れてきそうな心地だ。


「――行かなねぇのか?」


 しかし、ふっと後方から響いてきた声は予想に反して随分と乾いた、そして少し低めのハスキーボイスで。
 気づけば腰より上のところだけでおれは後ろを振り返り、その姿を目に映していた。


「? 何だよ」

「……い、や…」


 ふわりと軽く立ち上げられたウルフカット。しかもそれがかなり短めなものだったから、驚く。大きくロゴの入った黒のTシャツとジーンズといった格好は飾り気のないものだったが、何故だか女のその雰囲気には凄く良く似合っている。
 睫毛の長い、しかし切れ長な目がこちらを見ていて。

 不審そうにぐにゃり歪められた顔は、それでも綺麗だった。


「ちゃっちゃと済ませちまおうぜ。…これ、どこに運べば良いんだ?」


 妙な面持ちで硬直するおれに女は嘆息を一つ溢し、それから気を取り直したかのようにぱっとこちらに歩み寄りそう言って首を捻った。

「あ……三階の資料室」

「…遠いな」

 面倒といった気色を全面に押し出しあからさまに顔をしかめたそいつとの距離は、僅か一メートル程。

 そこでおれは、はたと気がつく。嫌な汗は新たに湧き上がることなく、既に流れる空気に冷えるのみとなっていることを。

「……荷物、重いだろ。半分くらい積めよ」

 実際こちらは既にかなりきつい状況だったのだが、まさか女に同じ思いをさせられない。そう考えたおれは己の山を、軽く女の方に突き出す。
 しかし女がおれの言う通り、自分の持つプリントをこちらに寄越してくることはなかった。

「おれを馬鹿にすんなよ」

 にっと口端を持ち上げ得意な様子で笑った女は、颯爽と廊下を歩み出す。
 慌ててその背中を追いかけたおれは動悸の収まった己の心臓を気にしつつ、少しの期待を胸に抱き始めていた。