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(ゼロ)




「――シオっ…!」


 伸ばしていた手を引っ込めた後、おれは直ぐさま飛び降りる。
 傷は全て塞がったとはいえ、今のシオの身体能力は一般人程度のそれ。焦燥を誤魔化す意味も含め、おれは思い切り舌打ちをした。
 本当は寧ろ自分を酷く、なじってやりたい気分だった。

 強かに後頭部辺りを打ち付ける音が聞こえたようだったが…、大丈夫だろうか。

「っ、う…」

 着地したところで視線を向けた先。ぴくり、小さく震えたその体。取り敢えず意識はあるようだ。目立った外傷も見られない。おれは一先ず安心する。
 そして手のひらを伸ばしそうっと肩を掴んで起こさせ、その顔を覗き込んだ。


 …ゆるり、


 細く開かれた瞼の隙間からまあるく、透き通った黒の色が見えた。


「おい、大丈夫か…?」

 しかし、シオから反応はない。
 おれは、困惑に眉を潜める。

「…シオ?」

 やはり、どこかに怪我を負ってしまったのだろうか。いやしかし、そうは見えない。
 体を起こしたシオはおれの声を聞いているのか聞いていないのか、その顔はただただひたすらに呆然としているように見えて。


「―――嫌だよ。私」


「、は?」

 唐突にその唇が開かれた、かと思えば、そこからほろり漏れたものは変に抑揚に欠ける声で。

「船からは降りない。足手纏いたってことくらい、前から分かってた。でも私、ここを離れたくない」

 そして、おれは気づく。

「シオ、お前――…」

 くるり、漸くとこちらを向いたシオのその黒曜石のような双眸が、真っ直ぐにおれの瞳を射抜く。


「ペンギンの傍にいたい」


 それで限界だった。


 ――…がしり、


 華奢な肩を珍しく自分でも乱暴だと思えてしまうくらいの力で掴み、その頭を、甘やかに香る髪を己の胸に掻き抱く。

「っ、」

 驚いたようにシオが息を詰めるのが分かったが、どうしようもない。それ以上自分を制御することができなかった。


「……、……」

「…ごめんね」


 その首元に顔を埋め保ったおれの沈黙を、シオは一体どう思ったのだろうか。

「今まで、いっぱいいっぱいごめん」

「…、ああ」

「あとね、ありがとう」

 シオがおれの腕の中で、泣きそうな顔でそれでもひどく幸福そうに笑ったのが分かった。

「……それを言うのは寧ろ、こっちの方だ」

 おれは小さく、唇を開く。

 シオにだけ伝わればいい。シオにだけ届けば、聞こえればいい。そう思って。

「助けられなくて悪かった。それと…」

 そっと吐息と共に、囁く。


「覚えていてくれて…、ありがとう……ッ!」

 おれはみっともなく震えていた。
 腕も、声も。滲んだ視界さえも含め、何もかも。

 そんなおれの背に回された小さな手のひら。その柔らかな温もりに、おれは心まで熱くなった。










(ご)




「――…あの、どちら様…ですか?」

 医務室のベッドから漸くと起き上がったのは、おれの恋人。漸く見えたその黒の瞳。おれは心からの安堵に、ほっと胸を撫で下ろした。
 しかし、その唇から発せられたのは一つの台詞。それは、おれたちの本来の関係からはひどく掛け離れた――通常ならまず、聞くことはあり得ないもので。

「は…?」

 おれは呆然とする。しかし、シオのその顔は心底困惑を示していて。
 他人行儀なその声色が、おれたちの温度差を顕著にする。

「お…おおい、シオ! 悪い冗談は止せよ」

 おれの隣で焦ったように声を上げたのはキャスケット帽子。しかし、その顔には"まさか"という文字がありありと浮かんでいて。

「ペンギンの奴めちゃくちゃ心配して、ずっとお前に付きっきりだったんだぜ?」

「ペ……ン、ギン?」

 知らない国の言葉を、今初めて口にしたかのような拙い発音。

 …おれは、恐怖した。

「きゃ、キャプテン…! これって…」

 目尻の高度をを心なしか下げ、ぴくぴくとその小さな耳を不安げに揺らしたベポの声は低く。

「…ああ」

 答えた船長の声は明確だった。



「――記憶喪失だな」



 …――おれとシオ。今まで、長い間積み重ねてきた二人の時。
 それがこうも呆気なくリセットされてしまうだなんて、そんな馬鹿げたことがあるか。

 真剣な声で告げられたその言葉を脳内で必死に否定してみたところで、事実は今おれの目の前に横たわっている。
 おれたちの腕に施された刺青を見てか、おどおどとこちらを見上げてくるまっさらな瞳。弾けるような笑顔をおれに見せるシオはもう、そこにはなかった。

 それが、平穏な日常が儚くも崩れ去った瞬間。

 未だにそれを信じられない――…信じたくないおれはただ、呆然とそこに立ち尽くしていた。





(よん)


 湯を張った大きなたらいを持ってそこに入れば、シオはきょとんと不思議そうな様子でこちらを凝視した。おれは態とにそちらを直視せず、唇の先だけでぽつり言う。


「一先ず、体を拭くぞ」

「…えっ」

 答えたシオのすっとんきょうな声。おれは、居たたまれなくなる。
 しかし真っ白な包帯で固定されたシオの右腕は痛々しく、当分の間風呂は禁止だと船長から命令が下った。だが勿論、その利き腕に怪我をする原因となった戦闘の後からずっと身を清めていないシオは、それを遠慮気味に要望してきた訳で。

「…悪い。お前の他に女性クルーはいないんだ」

「あ…」

 シオの瞳が、戸惑いに揺れた。それから、おどおどとおれの顔を見上げる。

「それなら船医の方、とかは…」

「………おれも多少、医学はかじっている」

 船医は――…船長だ。しかしそれが誰であれ、おれはどうしてもシオの肌を他の男には見せたくなくて。
 おれは湯気が立ち上るその面を極力揺らさないようにと細心の注意を払いながら、たらいを一度床に落ち着ける。それからベッドに腰掛けたままのシオに変に圧力がかかってしまうことを恐れおれはその目を見下ろさないようにと、ゆっくりその場にしゃがみ込んだ。


「――…おれじゃあ、嫌か?」

「…!」

 なるべく、卑屈にはならないようにしたつもりだ。
 しかし、おれの顔に目を留めたシオは見るみる内に、そこを大きく見開いて。

「そんなこと…っ! ………そ、それなら申し訳ないんですけど…お願いします」

 ぺこり、慌てた様子で深々と下げられたシオの旋毛を見つめ、おれは何とも言えない気分になった。

 その心がひどく、離れてしまったことがよく分かる。

 すみません。
 わかりません。
 ありがとうございます。
 本当にすみません。

 シオは元々、それほど親しくない相手にはかなり遠慮をするタイプだ。
 …こんなシオを、まさかおれ自身が向かい合って見ることになろうとは。


「…上手く前の方は隠してくれて良い。背中からやるぞ」

「は、はい」

 恥ずかしそうに小さく身動ぎをし、それからそろりとその衣服に手のひらを伸ばしたシオは凄く――蠱惑的だ。
 …今までのおれにとってなら、きっと。

 しかし今のおれにはどうしても、その姿が"シオ"とは別人に思えて仕方がなかった。





「――…あんま、落ち込み過ぎるなよ」

 少しばかり冷めた湯の張ったたらいを持ってその部屋の入り口をくぐった、その途端。おれの鼓膜を揺らした声。
 閉じた扉を背に、おれはくるり視線をそちらに巡らせる。
 シオの部屋の扉の直ぐ横。そこの廊下にしゃがみ込んでいたキャスケット帽子がゆるり、その場に立ち上がった。心配そうに光るその色素の薄い瞳と、サングラス越しに視線が絡まる。

「シオはきっと、ペンギンのことを忘れた訳じゃねェ」

「………」

 …何を、と心の中で呟いたおれの言葉が、シャチには聞こえたのだろうか。
 まるでそれに応えるかのようなタイミングで、目の前の唇が再び開かれた。


「今は思い出せないだけなんだ、きっと」


 …――くつり、と。


 おれは喉の奥で、自嘲気味に笑う。同じことだろう…、と。
 それがシャチなりの下手くそな慰めだとは気づきながらも、そのときのおれの心は荒んでいた。

 くるり、踵を返す。おれはその場に何の言葉も残さないまま、黙って立ち去った。


 …――シオの中から"おれ"という名の存在は、すっかり消えてなくなってしまった。


 歪んだ鼓膜を通してシャチの言葉を聞いたおれには、余計にそのことが突き付けられたような気がしてならなかった。