name change  


 マルコには無理を言って頼んだ。私の気持ちを汲んでくれたのだろう。他のみんなも、何も言わずに頷いてくれた。

 ふと、空を見上げる。満点の星空。光る月が優しかった。私はほっとする。
 こんなときに曇ったりしなくて、良かった。
 好意によって与えられた一人という静けさの中、私は島に降り立つ。満ちた月明かりに照らされた緑を歩けば、静けさだけがやけに耳を打つ。
 私は今日、どうしてもここに来たかったのだ。…一人で。そうすればきっと、会えるような気がしたから。

 目的の場所にたどり着いた私は、冷えた夜独特の空気をすうと肺の奥まで吸い込む。そして、ちらり、視線を落とした。今日というこの日が来るずっと前から決めていた場所。私はそこに狙いを付けて、どさり、腰を降ろす。
 ふっと、息を詰めた。瞼も閉じる。背に当たる石はひやりと、ひどく静謐な雰囲気を纏っていて。私以外に動くもののない中、さわさわと風が草原を撫でる音だけが聴こえる。やはり静かだった。
 きっと、穏やかに眠るには丁度いい。
 花の匂いがする。暗くてよくは見えなかったがきっと私が今いるこの周りには今も、たくさんの花があるのだろう。それはきっとそこに最近置かれたものから、以前並べられたものから新たに芽吹いた小さな命まで、様々な色の花が。

 そこでふっと、私の意識は途切れた。唐突に訪れた微睡みに誘われるまま、私は柔らかな眠りに潜った。





 真っ白だった。

 足元はふわふわと覚束なく、私は思わずきょろきょろと辺りに視線を巡らせてしまう。
 しかし、怖くはなかった。何故なら分かったからだ。私はここに来たかった。ここになら彼が――いるのだ。
 私は唇を開く。息が苦しくなってしまいそうなくらい大切なその名を、先ほど吸い込んだ透明な空気を使って叫んだ。

「―――エース…!」

 きいんと耳が痛くなるような、静寂。そこに響いた私の大きな呼び声は、四方八方に吸い込まれていく。
 確信はあった。ここにいると。

 だって、ほら。


「よおシオ」


 私はくるり、後ろを振り返った。

 ひらと上げられた片手。眩しい程の白を背景に立つエースは、軽い歩調でこちらに近づいてきた。柔らかなその笑顔は、ひどく見慣れたもので。私は思わず自分の喉の辺りを掴んだ。凄くそこが、熱くて。

「……エース、私――…」

 伝えたいことは、たくさんあった。そして、私に与えられた時間は決して長いものではないということも、本能で悟っていた。
 意に反して詰まりそうになる言葉を、私は何とか伝えようと喘ぐ。

 しかしエースはそんな私の思いなど露知らず。朗らかに――最早この場合無神経とも言える程に明るく笑って、言う。

「まあ、取り合えず座れよ」

「え」

 どかり、エースは曖昧な白の上に、何の躊躇いもなくその腰を下ろした。私は思わずぽかんと、そんなエースの旋毛を見下ろしてしまう。

「ほら、シオも座れって」

「っ、わ…」

 ぐいって軽く片手を引かれただけで、私の体は呆気なくバランスを崩す。倒れ込んだ先の白はひどく柔らかくて、しかしきちんと私の体を受け止めてくれたものだから驚く。
 まるで見えない草原がそこにあるかのようだった。

「いい天気だなぁ〜」

 喉を晒して上を向き、まるで風を感じるかのように目を閉じたエースの顔を見て、私はまた戸惑う。改めて辺りを見回してみてもやはり、そこは真っ白で私とエース、他には何にもない世界。しかし、エース違うのだろう。よく分からないが気にしないことにする。

「…で、」

 くるり、その真っ直ぐな双眸が不意にこちらを振り返ったことにより、私は思わずどきりと目を見開く。

「俺に何か話があるんだろ?」

「 あ…」

 私は、言葉に詰まった。どうしてエースは、こんなにも普通の態度なのだろうか。私は下方に数秒視線をさ迷わせ、ややあって唇を開く。

「私の話は……いいや、後でで」

「ん? そうか」

 怖かった。言いたいことはたくさんあった。しかし、そのどれか一つでもエースに伝えてしまったら、折角のこの時間が終わりになってしまう気がしたのだ。

「それよりさ、今はエースの話を聞かせてよ」

 私はそれくらいならいっそ、今はこのままエースの声を聴いていたいと思った。

「おれの話? あー…、そうだ。またルフィの話になるけど、いいか?」

「いいよいいよ、何でも話して!」

 私は笑った。喉の痛みも胸の苦しみも、いつの間にかどこかへ飛んでいってしまったようだ。白よりも眩しい顔をして笑うエースを見つめ、私は身を乗り出す。

「本当か?! いや〜、マルコの奴なんかに話すと同じ話二回も三回もすんなって怒られるからよー…」


 嬉々としてエースが話し出した話は確かに、以前に何度も何度も聞かされていた話だった。しかし私は少しも嫌な顔をせず、熱心に頷く。エースと言葉を交わしている。その事実だけで、涙が出そうになるくらい嬉しかった。
 存分にエースは弟くんの話を語った後、今度はマルコやサッチに対する日頃の文句を溢し始めた。しかしその内容には大概、エースにも悪いところがあるのだから可笑しい。どっちもどっちというやつだ。私は何度もお腹を抱えて笑った。…それらもまた全て、以前に聞いた話だったのだが。


 楽しければ楽しい程、時間は早く過ぎる。


 ふっ…と、私には分かった。終わりが来たということが。
 エースにもそれが分かったのだろう。楽しそうに動いていたその口の動きを止め、すっとその二つの目を細め私を見つめた。

「…、エース…」

 すうっと、胸の奥が冷えていくのが分かった。唇に浮かんでいた喜びの笑みが霧散した私の表情はきっと、ひどく情けない顔だったと思う。
 ぷっと、エースはその口元を緩めて不意に笑い出した。私が困惑に眉を下げれば、するりと伸びてきたエースの人差し指がつんと私の眉間をつついた。

「変な顔してるぞ、シオ」

「だ、だって…」

 今しかない、と。私はそう思った。現実はもう、直ぐそこに迫って来ている。
 私はすっと、エースの両目を捉えた。思い出したかのように痛み出した喉が、苦しい。震えそうな唇を一度強く噛むと、私は意を決してそこを開いた。

「――エース、」

「ん?」

「私たちは元気だよ」

「…ああ」

「マルコも。ちゃんと元気。平気」

「ああ」

「心労であのバナナがもげちゃうってことは、残念ながらなかったよ」

「ぶっ…! あ、ああ」

 潤む視界でしかし必死に紡いだ私の渾身のジョークに、やっぱりエースは肩を揺らして笑ってくれた。
 私がずっとずっとずっと見たかった、優しいあの表情で。

「…エース、」

「んー?」

 暢気な調子で返されるその鼻だけの声が、やっぱりどうして優しい。私はくっと息を詰め、震える吐息でその言葉を紡いだ。


「好きだよ」


 ふわりと、私の大好きなあのお日さまみたいな表情で、エースはやっぱり柔らかく笑みを溢した。その唇が穏やかに、ゆっくりと開かれる。


「――…ああ」


 そして、そのときが来た。


 ――ぱあぁあ、と。

 辺りの白が一気に、その高度を眩しいまでに引き上げる。
 私は思わず目を細めた。だけど、最後までその瞳を見つめていたくて。必死に自分の瞼をこじ開けて、光に溶けていくエースのその笑顔を見つめていた。

 そして、その唇は再び動く。


「――――」


 声は、聞こえなかった。


 光が私を、エースを埋め尽くす。
 私の意識も直ぐに、その白に塗り潰された。





 瞼を持ち上げた。
 見えた空は、深い深い青。海のように濃く柔らかなその群青色は、端の方から徐々に柔らかく白んでいっていた。
 もうすぐ、夜が明ける。日付も変わったのだろう。

 私はゆっくりと、そこから背を離し身を起こす。そして静かに振り返った。
 そこには大きな――その名前が刻まれた石。そしてその直ぐ隣には、それよりもっともっと大きな石。十字架なんてない。だけど、エースと親父はここで眠っている。
 私はぼんやりと頭上に揺れるオレンジの帽子を見上げた。クロスされて組まれた二つの木材に引っ掛けられたそれは、エースのトレードマークだったもの。
 長く太陽の光と海の風とを浴び続けた――自然の中にあったその色は、僅かにだが柔らかに褪せてきてしまっている。

 私は手のひらを伸ばし、その石に触れた。私の温度が移り、人肌の温もりを持ったそこに。

 そしてそれは不意に、胸の奥。私の心臓があるその場合よりもずっとずっと深いところからじわりと、どうしようもなく熱い何かが溢れ出してきて。

 やがてそれは結晶となり、一つの形を作り出す。

 つうと一筋、私の頬をその熱が伝った。



『泣くなよ』



 そう言ったエースの――聞いてもいないはずのその少し困ったような笑みを含んだ柔らかな声が、私の耳元に蘇る。

 好き、とは、エースは言ってくれなかった。生前何度も聞かせてくれた台詞。もう一度聞きたかった。だけどそうさせてくれなかったのは多分、エースの優しさなのだろう。私を縛らないようにという、だけど私にとっては痛くて苦しくて切ない――…優しさ。


 私はそっと、唇を開く。



「誕生日おめでとう、エース」



 そこに入り込んできた雫の粒は、私の髪を揺らす海風とおんなじ味がした。




120101